浪人風の男だった。
いや、この現代に置いて浪人風という言葉は合わないような気がするが────何故か、そう思ったのである。
例えばその適当に撫で付けたような黒髪。雑に纏められたのであろう、痛みの入った茶色。目深に被られた帽子から覗く、鬱蒼とした赤色。あとはまあ、全体的に薄暗いというか、善人に見えなさそうなところだとか。
最近めっきり見なくなったインバネスコートの下は時代錯誤な和装であるところとか。
武士、隊士、軍人。そういうイメージが先行しそうなルックスであるのに、ナマエは何故か”浪人”だと思ったのである。
男は立ち止まったナマエを一瞥すると、陰気な瞳を一瞬だけ見開いた。
「…全く、わしも下らん願いを掛けたもんじゃ」
男はそう、小さく呟いた。
ナマエにはその言葉の意味が分からなくて、理解が及ばなくて、一体何のことか、誰の話なのかも分からないのに、どうしてか返事をしたくなった。
返事をしようとして、思い留まる。空気が僅かに漏れた口は、もどかしく閉じられた。
だって彼は知らない人だ。ナマエの知り合いではない。知人にこんな大層な男前が居れば、記憶から消えるなんてことはあるはずもない。
ナマエは忘れようと頭を振る。視界に入った赤い花に、ちくりと頭が痛んだ。
最近、慢性的な頭痛が酷い。まるで何かに殴られてるような、一定の力加減で叩きつけられているような、瞬間的な痛みが続く。赤い物を見ると綺麗だなあと思うのだが、それと同時に悲しくもなる。切なくもなる。頭も痛くなる。
それに、今日はどうしてだか胸が痛いのだ。
無くしたものなんて無い筈なのに、穴が空いたように、胸が痛む。
この痛みを私は知っている気がする。一度味わった気がする。空いた記憶のピースは見当たらない。見付からない。それでも、それが重要なものだったのは分かる。
わけがわからない。意味も無い。理由も無い。だけれど、口は意思を置いてけぼりにして、勢い良く男を呼び止めた。
「あの!」
男は振り返らない。それどころか先程より早歩きになって路地に消えて、ナマエは咄嗟に思う。
────なんて非道いヤツなんだ!
ナマエはそう思って、そんな感想を抱くことに、そのことに懐かしさを覚えることに疑問を抱いて、絶対に逃がすものかと追い掛ける。
曲がったところで立ち止まっていた男を見付け、勢いよく羽織を掴む。
普段なら怖くて近寄らない種類の人種を自ら捕まえてしまった。全く愚かである。全く無謀である。
振り返った男の冷ややかな目がナマエを見下ろして、正直無茶苦茶怖い。
だけれど妙な確信がナマエを動かすのだ。”彼”ならば、きっと面倒臭そうに返答を返してくれるだろう、と。
「おめでとう、セイバー」
貴方の剣は、高みに届いた。
ナマエは自身の処理速度を置いてけぼりにしたまま、彼へと賞賛の言葉を紡ぐ。
澄み渡る快晴に、ナマエの声が溶けて行く。と言っても一言だけなのだが。
だが、それだけは言わなくてはいけない気がした。ここ一週間ほどの記憶がすっぱり抜け落ちているのだけれど、その空白がナマエの脳味噌にアラートを鳴らすから。
忘れてはいけないと、それは大切なものだったはずと、喧しく鳴り響くのだ。
痛いほどに。辛いほどに。切なくなるほどに。幸いにもナマエの勘は外れではなくて、突然祝われた彼は驚愕と言った様子の表情だった。
端整な顔を歪めて、苦しそうに眼を細める。
ああ、私は一度この顔を見た気がする。彼とは初対面であるのに。彼の顔自体初めて見る筈なのに。
分からないのに、分からないけれど、ナマエは遣る瀬無くなって、彼のそんな顔は見たくない、とも思って。とにかくどうにかしようと理由の無いまま微笑んで─────瞬間、赤い筒が頭を殴打した。
「阿呆、勝手に死んだら殺すっちゅうたじゃろうが」
布の中身の重量で脳天が揺れて、あまりの痛みで咄嗟に叫ぶ。
「ちょっと!?それ中身真剣だよね!?」
どうして筒の中身が日本刀だと知っているのか。どうして、そんなもので殴られたと思ったのか。
全く分からない。分からないけれど、鈍い痛みと共に、少し気恥ずかしそうなセイバーの笑みに、私は此処に居る筈の無い理由を少しずつ思い出す。彼の表情の理由を探す。推測を打ち立てる。消去法に辿り着く。結論が導き出される。余りの衝撃に眼前の浪人を三度見する。もう一度視界に星が飛ぶ。ひどい。
ちかちかと白む視界に涙を滲ませてば、いつもの陰気で嫌味で意地の悪い笑みがナマエを馬鹿にしたように形作られた。
だが、そんな風に取り繕っているだけで、その笑みはどこか優しい。
有り得ないけれど。正直まったく信じられないけれど。
珍しくナマエを労わるような穏やかな目に、何時もより幾分か優しい緋色の眼光に、それは確信へと変わる。同時に照れもするが、そんなことより嬉しくて愛おしくて仕方が無い。
今すぐに抱き締めたいと思ったが、そんなことをしてみれば頭をまた殴打されてしまうだろうとも思って、それに彼とナマエはマスターとサーヴァントであって、それ以上でもそれ以下でもないと、どうしようもなくなり歯噛みをする。
「…ああ、まったく。そがいな時だけいじらしくなりおって」
「だ、だって…」
「じゃから気に食わんゆうとるじゃろうが」
呆れたような声が鼓膜を揺さぶった。至近距離で聞こえたそれに気付いた頃には、ナマエの体は黒いコートに収まっていた。顔を上げようにも、頭は押さえ付けられていて上げられそうにない。
普段の彼では全く考えられない行動に動転する。
「な、なんで」
上擦りながら問えば、「ちくと黙っとれ」と背中に腕を回される。
男性にしては低めの体温が、ひどく心地良い。彼らしくもない優しい声が普段通りの荒い言葉に乗せられて、どうにかなってしまいそうだった。とんでもないギャップ萌えである。
思わず笑ってしまえば、不機嫌そうな低音が「やかましい」とだけ拗ねた風に零れた。そうして肩口に頭を埋められて、首元に当たる癖毛がくすぐったい。
徐々に馴染んでいく体温に二つの生命を確認する。其処にある動く心臓を感じる。血潮と共に流れる魔力を感じる。確かに此処で、生きていることを実感する。
ナマエが今此処に居る理由。
心音が感じられることの意味。
きっとそれは岡田以蔵らしくも無い、本人でさえ柄じゃ無いと恥ずかしがる程の─────どうしようもなく、優しい願いの結果だったわけである。