武市瑞山を殺した理由。
それは恐らく、土佐勤王党を成立させないためだ。
何故か。回りくどく感じるが、そうすることで坂本龍馬は旅立たない。日本の夜明けを目指さない。土佐から出ることは無い。
出ることが無いと、どうなるのか。
坂本龍馬は”岡田以蔵の側から離れない”のだ。
裏切られたと、救えなかったと、わだかまりを産むことがないのだ。そして、恐らくはそれがメイン。あとは副産物なのだろう。
結果として幕府は今は倒れない。じきに終わるかもしれないが、鎖国はもう数年続くはずだ。人理を歪ませるなんて、その数年で十分である。
要するに、だ。岡田以蔵のためにズレた世界なのだ、この特異点は。
最初からおかしな話だったのだ。この時空の揺らぎに存在する聖杯は、あの町のものだ。完全に起動している。そこに不思議は無い。
しかし、一度目の起動。それがおかしい。聖杯戦争の儀式は、七体のサーヴァントを注ぐことで完成する。だがあの小聖杯は、幾つで起動したか。五体と、取るに足らない魔術師の命だ。
千九百年代に起きたどこぞの聖杯戦争では、己のセイバーを焚べることを拒んだマスターが存在したという記録があるが、彼女は代わりに少なくない人数を聖杯に注いでいる。
魔術師も、一般人も、己の肉親さえも。そうしてやっと、聖杯は起動したはずだ。
だが、この町のものはどうだろう。足りないのは二つの霊器。注がれたのは一人の命。
半端とはいえ使えるからと、何も考えずに使用したが、根本的なおかしさがある。
そうだ、”釣り合いが取れなすぎる”のだ。
抑止の守護者は、坂本龍馬は、てっきりナマエと以蔵が抑止力が働く要因となったものを排除したのだと思っていた。
だが多分これは違う。世界を壊すミステーク。致命的な失敗を犯したのは、龍馬自身だ。流れる汗は冷たい。
例えば、歴史改変だとか。例えば、自分自身を魔神化させるとか。例えば、人理の崩壊を願うとか────。
壊すか迷ったんだけどね。悪用はしないだろう?
龍馬は、誰にその話をした。その話を、誰が聞いていた。聖杯を手にしたのは、誰だ。
岡田以蔵のために世界を焼き棄てるのは、どんな人間だ。聖杯に注がれた魂の質量は、どれほどの業を持って居たのか。
抑止力に阻まれるべき存在は、死んでなどいなかった。退場してなどいなかった。違う。それは正しくない。一度は”確実に死んでいた”のだ。
龍馬は見た。冷たくなった体を、雨に打たれる幼馴染を。この目で間違いなく見たのだ。
それを捻じ曲げたのは。今なら助けられると言ったのは。彼女を元の生活に戻せると言ったのは。
そうだ。そうなのだ。聖杯の知識も、聖杯自体も、もう一度の可能性も、全てが全て”龍馬がしてしまったこと”だ。
ミステイクに次ぐミステイク。
全ての事柄が、小さなきっかけが、纏まり収束する。収拾がつかない規模へと成長させる。梅雨の世界を、降り続ける雨を、終わらない六月を、彼のための箱庭を完成させてしまった。
さあ、真に殺すべきは何だったか。
さあ、この特異点を作った理由はなんだ。
さあ、愛のために世界を壊す化け物は誰だ。
そんな答え、既に出ているだろう。
▽
「こんにちは、元気そうだね。ほら、お竜さん。挨拶してくれるかい?」
「リョーマもおかしなことを言うな。今から殺すのに、挨拶なんて。らしくないぞ」
まあまあ、と坂本龍馬は宥める。
投げ掛けられた相手は此方を振り向き、二人をその視界に入れる。雨に濡れた髪は、どこか希薄さを感じさせた。
「よー、お竜さんだぞー宜しくな。まあおまえなんて、すぐに食ってしまうが」
名も無き通行人────ではなく、魔神柱憑き。
外から来たというのは江戸ではなくて、世界。訛っていなかったのは現代人だから。すぐに考えれば思いつくようなことを、見落としすぎていたのだ。
完全なる起源覚醒者となった彼女は自我が薄いらしい。「こんにちは」とだけ呟いて、閉口した。
昼間のお喋りな彼女は何処にもいない。透き通る青い瞳は、初夏の快晴のよう。酷く純度の高い魔力の色だ。
元から、その兆候はあった。以蔵は彼女を「抜けているところがある」と言っていた。今なら断言できる。それは正しく無い。
彼女は”起源に引きずられていた”のだ。
起源に寄せられた者は人間味が薄くなっていく。自覚の無い程度の、半端な起源でそれだったのだ。
完全に覚醒した彼女は、もはや人ではなく箱。開けてはならないブラックボックス。組み立ててはいけない箱だったのだ。
いつだったか家に押し入った時がある。
家の外に居る龍馬に、彼女は冷たかった。玄関を出た龍馬に投げ掛ける言葉は、鋭かった。
だが無理言って部屋────彼女の認識する箱に入れば、一転して折れる。箱の中身を無条件で好意的に思ってしまうのも、特性の一つなのだろう。
今の彼女を突き動かすのは、自我も心も薄れて無くなりそうな彼女を人で居させるのは、たった一つの理由。
岡田以蔵のための、箱庭。彼を擁護し、庇護し、完成させるための、庭園。
「久し振りだね、ナマエさん」
海の色が龍馬を写した。「初めまして」と彼女は返す。最早、記憶さえも無いのだろう。
太陽が射したような水の色が煌めいて、興味無さげに細められる。
彼女の最期はどうだったか。龍馬はナマエの終わりを知らない。
人理が焼失し始める頃には、彼女は居なかったのだ。だが現状を見るに、ナマエという魔術使いは死ななかったのだろう。
それどころか、よりにもよって魔神柱に選ばれたのだ。
というか下手をすれば、以蔵や龍馬と出逢った段階で苗床だった可能性すらある。
そうしてきっと彼女は望んだのだ。自ら宿主になることを。その力をもって、聖杯までもを使って、宿した魔神柱さえ使い潰す気で、時間さえも無視し、全てのものを利用した。
彼女にとって幸運だったのは、人理焼失が確定していたおかげで抑止力の邪魔が入らなかったことだ。
彼女にとって不幸だったのは、どうあってもサーヴァントとは別れる運命だったことだ。
そうまでして望んだのは、たった一つ。命を燃やして目指したものは、存在概念すらも掛けた妄執の果ては、たったの一つ。
経緯も手段も理解するには情報が足りなすぎる。だが、理由だけはストレートだった。
「以蔵さんを大切にしてくれてありがとう」
ガラス玉のような目が少しだけ色を灯す。
やはり、ナマエという自我は僅かばかりに残っているらしい。
「だけれど、ごめんね。君はここから消えないといけないし、坂本龍馬は土佐を出なくてはならないし、以蔵さんも死なないといけない」
執念の怪物は「どうして」と呟く。
「せっかく二十九歳になれるのに」
追い討ちのように言葉を零す。
「あと一日なのに」
この日本に夜明けは訪れない。
「彼が悪いことをしましたか?」
「死ぬだけの理由はあったさ」
「この世界では有りませんよ」
「元に戻すのだから関係ない」
「貴方は、」
平行線の問答の末に、嫌に響く声が鼓膜に届く。
「彼を見捨てるのですか?」
勿論、と答えようとして、喉が酷く乾いていることに気が付いた。
彼女は虫も殺せないような顔をしているくせに、攻撃するのが特別上手い。心の柔らかいところを突くのがいつだって上手だ。
龍馬だって、みんなが笑っていればそれが良かった。いつしか届く範囲では飽き足らず、どんどん両手を広げるようになった。
そうして欲深くなった末に大切だったものを取り零した。彼女は後悔を見抜いて踏み荒す。
今思えば多分、彼女は本体が見抜かれると分かっていて幸福な以蔵を見せてきた。
彼に同情すると踏んで、今度こそ以蔵を選べと発破をかけてきた。龍馬が世界を壊せば、永遠にお前は呪われるぞと脅しをかけてきた。それは龍馬に掛けた慈悲であり、共犯の誘いであったのだ。
彼女はそう問い掛けておきながら、龍馬の答えを待つ気は無いらしい。
というより、聞く気が無いようだった。それはきっと、その事実を良しとしないから。“坂本龍馬が岡田以蔵を見捨てる”ことなど、確定させたくは無いから。
きっとそうなのだろう。龍馬の目に映る彼女はいつでも、どこまでも。酷く哀しい生き物だった。
「…誰も岡田以蔵を救えない」
色の無い瞳が揺れる。何も感じさせない表情だが、それは暗く、鈍く、どこか寂しげに見える。
「誰も岡田以蔵を選ばない。誰も彼を救わない。武市瑞山は彼を見捨てた。帝都のマスターも彼を捨て石にした。坂本龍馬も、カルデアのマスターも、世界と彼なら世界を取るでしょう」
「それは君の傲慢だ。以蔵さんは、救われたいと思っている訳じゃない」
「貴方がそれを言うの?」
憎悪に満ちた声だった。
「誰よりも傲慢な坂本龍馬が?」
「…僕たちが勝手に救いたいと、救えると思っただけさ」
魔神柱も聖杯も利用した怪物はやりたい放題らしい。抑止の守護者が居ない今、並行世界さえ覗き見て最良を漁ったのだろう。それは勿論、以蔵のための最良だ。
最早、目の前にいる男が坂本龍馬であることすら分からない。きっと彼女はもう、たった一人のことしか分からないのだろう。だがそれで十分なのだ。それだけが彼女を作っている。
「なあ」
呑まれかけた龍馬を引き戻したのは、人ならざるものの声だった。
人外でありながら、人外であるからこそ、そして愛を知る少女であるからこそ、彼女は言う。
「オマエ、それでいいのか。アイツはもう、オマエと出逢うイゾーじゃないぞ」
遠慮の無い声が響く。思えば、今回はお竜さんもセットで召喚されている。それは世界が完全に彼女を敵と認識したからなのだろう。
指摘されたナマエは、僅かに顔を顰めて「そう」と呟く。
「そうだった。わたしは、失敗した」
人斬り以蔵を殺してしまったと彼女は呟いた。
「未完の剣を完成させたかった。誰より優れた天才であったと、世界を変えたかった」
この子は存外、欲張りな少女だった。ただ手元に置くよりは、もっともっと。大きく広く、優しく幸福な世界に彼を囲おうとした。
だが龍馬は知っている。彼女に似た男の末路を知っている。手を広げ過ぎれば────後は、零れ落ちるだけ。
幸せそうに歩く男を見た彼女は、一体どんな気持ちだったのか。ナマエのことだから、それは別に良いと言うのかもしれない。嬉しいとさえ思ったのかもしれない。
ただきっと気付いてしまったのだろう。幸福を手にした岡田以蔵は、拠り所を手に入れた岡田以蔵は、“人斬り以蔵”にはならない。
澄み渡る空が、雨を降らせる。
「だから、どうか。どうか」
私も殺して欲しいのです。
完成を願いながら。それが叶わないと知ってしまった。龍馬と同じく、ナマエも間違えたのだ。
彼女の起源は箱。四角。どうしても、引き寄せられてしまうのだ。
抜け目無く、強かで冷静な少女だった。すぐ泣くと以蔵は言っていたが、泣いてるくせに手は抜かないと。
通常であれば、”岡田以蔵を生存させれば人斬り以蔵が消失する”そんなことは簡単に辿り着く話のはずだ。完成と生存はイコールだが、生存した時点で人斬りとは結ばれなくなる。人生の完成と英霊としての完成は違う。だが、彼女は見落とした。
だって、彼女は箱だった。
四角は何処に立っても死角が出来るのだ。彼女は、己の作った箱の中に居る。”見渡せない一点が生まれる”のだ。必ず。それもまた、起源。生まれ持った属性。
彼女が凡ゆる特異な事象を引き起こせた理由が資格を得たことならば、彼女が失敗する理由も死角が生まれたことなのだ。
龍馬が見落とした理由も同じ。彼女という存在はしかくに、死角になる。
異様な程の魂の質量も、偶然とはいえ聖杯を手にした運も、岡田以蔵のために作る特異点も、考えれば直ぐに思い当たるようなことであるのに。全く持って酷い特性をバラまくものである。
「そうだ、君は死ななくてはいけない」
「いやです。死にません。わたしは死ねません。彼を手放せない。だって、死なれるのは嫌だと言われたから」
だけれど、ころしてほしいとナマエは言う。指先をこちらに向けて、紫電を纏って、此方に投げ掛ける。龍馬の背筋が冷える。血液の隅々までが凍えたような錯覚を覚える。
彼女が怖い理由。彼女という存在に恐怖を覚える理由。決して強くはない筈の彼女に、心底の畏怖を抱く理由。
ナマエという少女は、矛盾すらも押し潰す。正しくないと理解し、間違っていると認識し、それでも、そうであっても、たった一人のために進み続ける。
彼女と言う箱は破綻した。それは間違いなく以蔵のせいだろう。箱庭の中を愛するのが特性の女に、箱庭の外の存在も愛させた。四角の外の物に、手を伸ばさせた。手元に無くなっても、庇護下から消えても、それは身内だと認識させた。根本は変わらないまま、変わってしまった。
四角のまま、丸くなってしまった。尖ったまま、円になってしまった。矛盾を内包した。行き着く先は、破滅だけだ。
それでも、そうなって尚、龍馬は彼女が嫌いだとも哀れだともおぞましいとも思えなかった。内にある感情は、一つ。嫉妬である。
「僕はね、ナマエさんが羨ましいよ」
言葉にすれば強く深く胸に落ちる。それは以前と同じ意味ではなく、もっと浅ましいものだ。
だって世界のために幼馴染を見捨てた龍馬には、これから先に何があっても以蔵を取ることの出来ない龍馬には、どうしたって彼女が羨ましかった。
拳銃を向ければ、空虚な瞳が銃口を見つめた。そのまま何度か軽い音がして、少女の身体は崩れ落ちる。
やはり彼女は弱いのだ。脆弱で、儚く、簡単に消えるような灯火だ。
口では死ぬわけにはいかないと言ったくせに、彼女は無抵抗のままだった。腹に何個も穴を開けられて、血の塊を吐く。薄い色の頭髪が、瑞々しい赤で染まる。
きっと彼女は、こうなると理解っていた。絞られ尽くされた魔神柱は、もう彼女に力を貸せなかった。
あはは、と感情の無い笑い声のような声が響く。
おかしそうな言葉であるが、大の字で寝転がる彼女は笑ってなどいない。
「私の愛は一方的でいい。満足している。例え依存されていただけでも」
からからと空虚な音が鳴る。無感情のままに、中身の無い言葉が読み上げられる。
愛し合うことすら捨てて、与えるだけを選んだそれは、もう愛などでは無いと思う。しかしそれは間違いなく愛なのだろう。そして彼女という概念は終わる。
この特異点で消えて無くなる。歪んだ妄執の果ては、そんなものだった。
全てが無に帰すと分かっている。今の彼女は此処で無くなると知っている。彼女は彼女であって彼女ではないと、理解している。
だがそれでも、龍馬は問い掛けた。
「ナマエさんは以蔵さんに好かれてただろ。どうしてそんなことを言えるんだい?」
死にゆく彼女は、不思議そうに首を傾げる。「どうしてって」青い瞳が龍馬を射抜く。「あのひと、」か細い声が転がる。
「好きだなんて言わなかったよ」
彼女は、どうしようもなく救えなかった。
少女だったものはボロボロと崩れ、悍ましい柱が姿を現わす。だが、それも身体を保っていられないらしい。
夜の帳に溶けるようにして、魔神は姿を無くしていく。次の寄生先を見付ける時間さえも無い。本当に、骨の髄まで食い潰していたようだ。
世界が崩れる音がする。
空間は裂け、時空は焼き尽くされる。呪いにも似た祈りは、ここで折れる。
当たり前だ。魔神柱を喰らった彼女という禊は壊れ、特異点は修正される。
結局、ナマエの世界は慶応二年を迎えなかった。岡田以蔵は二十九を迎えられなかった。夏を越えるだけじゃ満足出来なかった女は、次の年を望んでしまったから。この都合の良い人類史を、肯定してしまったから。繰り返せば目に止められなかった小さな揺らぎを、大きな箱に変えてしまったから。
ここの以蔵がそれを知る筈も無かったが、それは酷く、寂しいことだと龍馬は思う。
彼女がそれを望んでいても、それで幸福が作れたとしても、その為に出会いを無かったことにするのが正しいとは思えなかった。
求める愛を捨てて、与える“だけ”を選ぶことが最善とは思えなかった。
だって彼女は、以蔵がああいう英霊だったからこそ、サーヴァントであったからこそ好きになったのに。それを否定することは、全てに対する冒涜であり、破壊である。
そのことに気付いたからこそ、あっさり殺されたのだろうとは思う。
やはり龍馬とナマエは根本のところで似ているのだ。大切なものを守ろうとして、手を広げすぎて、結果的にそれも自分も滑り落とす。後悔だらけなのも同じ。選択自体には無いが、もっと上手くやれただろうと悔やみ続ける。
苦笑すれば、相棒は不思議そうに言う。
「全然似てないぞ。リョーマはニンゲンどものため。あいつは自分のためだ。リョーマの方がエライんだ。羨ましがること無いだろ」
だからこそだよ。そう言えば、お竜は「難しいな、ニンゲンって」とくるくる回った。夜は、二度と明けない。