傘を忘れた。今朝は晴れていたから、ついうっかりであった。
だけれど今時期の季節、午後から泣き出す空はよくある話である。
ざーざーと凡庸なオノマトペを鳴らす雨音は、帰り道を鬱蒼とした気分にさせた。ブレザーに濃い色の染みが出来て、それもまた憂鬱さに拍車を掛ける。
仕方無しに折り畳み傘を出して、裏門に回る。自転車登校を止めてから一緒に下校するようになった同級生は傘を忘れたらしく、当たり前のように入って来た。
更に傘を奪い取るとかいう図々しいムーブを自然に行った彼女は「なんか人が妙に集まってない?」と疑念の声をあげる。
…確かに。言われてみれば。
普段はさっさと人が掃けるはずだが…いつまでも傘の群れが無くならない。むしろ、出入り口に近付くほど密集していないだろうか。
だが、帰るには抜けなくてはいけないので、少々強引にだがキノコの群を掻き分けて進む。
疎らな人の群れを縫って外に出れば、人影が見えた。どうやら、皆一様にあの人を見ているらし、い、って、あれ。
「あ、」
せいば、と出掛けた声を抑えて口を噤む。
ちょっと前に買い与えたばかりのTシャツとジーンズを身に付けた彼は、ナマエの傘を持って立っていた。
人集りを作っていたのが身内だったとは。
しかし、普段ツンケンしてるせいで実感を得られないが、やはり彼は格好良いのである。雨で少し湿気った髪も、鬱陶しそうな顔も、まあ絵になる絵になる。身内贔屓があると言われればそれまでだが、無しでも同じ感想を抱いていた、と思う。格好良い。
「ナマエ」
ナマエの名を呼んだセイバーは、周りにきゃーきゃー言われてることに気付きつつも理解出来ない様子だった。全く持って困ったさんである。
自分のことに対して評価が低すぎるのだ、セイバーは。もう少し剣の腕以外も自信を持った方が良い。まずはその顔。人類の九割に勝てる顔だ。
同級生がナマエの腕を小突く。「やだ~ちょっとナマエ、誰この人。彼氏?うっそ、なんで言わないのさ」きゃっきゃっとはしゃいで人の腕をぐりぐり捏ねるが、周りの人間も興味があるらしい。
黄色い声がナマエとセイバーを取り巻いている。
彼氏、彼氏かあ。それは正しくない。セイバーとナマエはそういう関係ではない。
ナマエは彼が好きだけど、恋人かと言われれば、違う。主従関係というのも怪しい。セイバーが受肉した今、ナマエに付き従う理由は無い。
じゃあなんだ?同居人…と答えようとして、ダメじゃねーか!と冷静になる。
不味いだろう!華の女子高生が!恋人でも無い二十代半ばの男を!家に住まわせてるとか正直に言ったら!不味い!世間体が不味い!
なんて答えようかと頭を抱えれば、痺れを切らしたらしいセイバーがナマエに傘を差し出した。
「おまん、傘を忘れよったな。間抜けじゃのう、暫く梅雨は明けんき、傘が要るちゃ自分で言うちょった話ぜよ」
や、やさしい!それでわざわざ持って来て出待ちしてくれたの!あまりの優しさにくどい言い回しが全く頭に入って来なかった!
知っていたけど、この人は大変面倒見が良い性格をしている。ついでに言うと、雑そうに見えて細やかな心配りをする人間でもある。多分、長男気質なのだろう。いや絶対そう。
しかし、この場でその優しさは不味い。それ、バレる。一緒に住んでるの。
「増田さんって、この人と知り合いなの!?」バレた。外野がざわざわしている。大人しそうな女子生徒とチンピラ寄りの男前の関係性を邪推している。肉体関係の有無を囃している。
無いから。無いですから。セイバーは意外にも硬派なのでそういうことしないです。ナマエに合わせて現代の常識と世論と雰囲気に従ってくれてます。案外と尽くすタイプの男なんです。傘持って来てくれたしね。
しかしそんなことを言えるはずもない。内心でそうぼやきながら、若干パニクったナマエは苦肉の策を決行する。
「し、親戚の岡田さん!傘持って来てくれたの!親戚の岡田さん!ありがとう親戚の岡田さん!」
親戚の岡田さん。キツイ。キツすぎる。三回言ったのもキツイ。何もかもキツイ。しかし案外と外野はそれで収まったらしく、なんだなんだとつまらなそうに掃けていく。嫉妬がましい目も掃けていく。
セイバーは何言ってんだコイツと言わんばかりの目をナマエに向けるが、特に言及はしなかった。そういう気遣いが出来る男なのだ。案外と空気が読めるしノリも良いのである。身内に対して激甘なのだ、お互いに。
いつのまにかフェードアウトしていたらしい同級生は、かなり遠くから手を振っている。ちゃっかり人の傘を持って。が、ん、ば、れ、じゃねーよ。やはり言い訳は苦しかったらしい。ナマエの一人暮らしがバレてるのも痛かった。完全にセイバーとナマエの関係性を邪推された。もうマジ無理。そういう気を使われすぎたカップルから破滅するのが現実だぞ。知らないのか?
怪訝な顔をしたセイバーは「なんじゃあ…訳分からんぜよ」と零した。ほんとに鈍い男なのだ、彼は。
あと抜けてるところもある。だって、持っていたのだ。折り畳み傘。ナマエは結構用意周到なタイプなのだ。いや、まあ友人にパクられたけど…それは置いておこう。
だがナマエは狡い女でもあった。傘を差し出すセイバーに、甘えたいとか思ってしまう。
ありがとう、と傘に入れば「は!?なにしゆう!?」と距離を取られた。ナマエの肩が濡れる。
まさかこの人、傘押し付けてそのまま自分はズブ濡れで帰る気だったのだろうか。一緒に帰る気無かったんだろうか。そういうとこ、ほんとに不器用でどうしようもない。
▽
ざぷざぷ、と水浸しのローファーが泥を跳ねる。
修繕されていないコンクリートの道は、どうしたって足が浸水する。諦めて気にせずに歩くことにした。
既にびっちゃびちゃである。雨の日の不幸あるある、スピード出した車に泥跳ねられる、だ。ワイシャツに点々とするシミは早急に落とさねばあるまい。
咄嗟にセイバーが庇ってくれたが、悲しいかな幸運E。一台目から完全に守られ、気を抜いたところに二台目が通って一網打尽。運が無かった。
だから彼は悪くないのだが…目に見えて落ち込んでいる。それは庇いきれなかった不甲斐無さかと思ったが、多分違う。ナマエにも分かる。
だって聖杯戦争中のセイバーなら、あんなの食らってたはずがないのだ。
気の緩み。平和ボケ。形容する言葉は幾らでも出る。要するに、鈍ってるのだ。穏やかな日常で、弱くなってしまったのだ。
ナマエは別に構わないのだが、セイバーはそうではない。当たり前だ。この人の自己承認は、己の強さだけなのだから。鈍った剣の価値について思い詰めるのは、当然の結果と言えた。
セイバーとナマエは既に主従関係ではない。
受肉した今、令呪の無い今、岡田以蔵がナマエに従う理由は無い。意味も無い。
だが、変わらず彼はナマエの元に居る。恋人?違う。家族?違う。崇拝だ。
彼はナマエを上げている。自分を下げている。酷く低い自己肯定では、そういう風にしか人と付き合えないのだろう。哀れに思うが、可愛いとも思ってしまう。哀しいけれど、愛しいと思ってしまう。
この人は、結構マゾいのだ。他人を見下し支配したいように見えて、ほんとは支配されたいのだ。
“害する敵を見下して、崇める上位存在に認められたい”。彼の精神構造は単純で、浅ましい。可愛らしいことこの上無い、生粋の忠犬属性なのだ。
だからナマエは甘やかそう。歪んでいるのは結構。知っている。分かっている。彼は思考を放棄することを望んでいる。誰かの剣として、使われる道具として、そういうものとして、何も考えずに献身したいのだ。惚れ込んだ相手に身も心も使いたいやつなのだ。だから、望むままにそうしよう。欲しい言葉をくれてやろう。
「次は頼むよ。仕事はきっちりこなしてくれないと」
緩みすぎないようにね、と返せば「…わかっちゅうわ」と苦々しげに返された。ほんとはボケボケになってもいいのだ。
でも、彼はそれを是と出来ない。だって、岡田以蔵は人斬りという一点でしか己を評価できない。
ナマエは人斬りを肯定も否定もしない。ナマエは岡田以蔵の存在価値はそれだけだとは思っていない。居るだけでいい。斬れなくても、殺せなくても、弱くっても、ナマエを守れなくっても、構わない。変わらず愛している。
だが、それは結果論だ。岡田以蔵が人斬りでなければ、岡田以蔵が人斬りという価値を持っていなければ、ナマエは彼と会えなかった。
だから、人斬りじゃなくてもいい、他の価値がある────なんて絶対に言えない。人斬りだからこそ、だったからこそ、ナマエは彼を好きになれた。
もっと自信を持てばいいのに。彼の信じるナマエを信じて欲しい。そうは思うが、無理だろう。
何をしたって堂々巡りになるだけだ。未完のまま終わった岡田以蔵という英霊は、未来永劫悟りの極地に辿り着くことはない。
だから甘やかすことしか出来ないのだ。ナマエという箱庭の中で、庇護することしか出来ないのだ。
まこと、愚かな話であるが。
「ねえセイバー。私さ、学校卒業したら、フリーの傭兵でもしよっかなって思ってるんだ」
はあ、と呆れた声が帰ってくる。
「おまんが?」
馬鹿にした声が帰ってくる。
「そうそう、私がね」
軽く返せば「はあ~?本気で言いゆうがか~!?」と喧しいくらいに聞き返される。揺れた傘から滴る雨水が冷たい。
大袈裟に驚けば、こちら側の面積が増えた。何度も言うが、ほんとに気遣いが出来るやつなのである。
「まあえい、付き合っちゃるわ。ナマエはまっこと弱いき、何処ぞで犬死にされる方が困るぜよ」
「あはは、そうだね。これからも、助けてもらわなくっちゃ」
「そうせえ。今後も、わしの仕事は変わらん。おまんの敵を斬るだけじゃ」
面倒臭そうに言う。でも、ナマエは知っている。その声に滲んでいるのは、使われることへの、必要とされることへの、喜色であると。
セイバーは愚かだ。ナマエが一人では生き残れないと思っている。セイバーは可愛い。当たり前のようにナマエに付いて来ようとする。セイバーは甘い。一度懐に入れた人間を手放しで信用してしまう。
それを感じ取って、ついつい幸福に浸ってしまう。ダメな人を更にダメにしてしまうとは理解しているが、楽な方に流れてしまう。セイバーを甘やかすナマエと、ナマエに尽くさせるセイバー。
ナマエもセイバーも、別に人を殺したいわけじゃない。楽しいわけじゃない。快楽があるわけじゃない。
ただ、人を斬る必要があるだけだ。善も悪も無い。それが承認欲求を満たすと知っているから斬れ斬ると言うだけだ。
正しさなんてありはしない。一応、斬らせる相手は選ぶつもりだが、殺さないで済むならそうするつもりだが、いずれ殺してしまうだろう。
セイバーは罪を重ねる。ナマエもまた、罪を背負う。毒のような堕落の果ては、きっとロクでもない。知っててそれを続けるのだから───馬鹿なのは、お互い様なのだ。