のそり、と人が起き上がる気配を感じて目が覚めた。
寝ぼけ眼を擦って体を起こせば、セイバーがぼんやりとした目で座っている。
時計を見れば早朝。セイバーは早寝かはともかく、それなりに早起きで規則正しい生活をする方だ。
しかしこれでは老人どころかおばけの起床時刻だ。太陽はまだ上がっていない。
眠れないのかな、とセイバーを見遣れば、ぱちりと目が合う。赤い目が、困ったように揺らいだ。
「…すまんのう」
今朝は普通に平日だからだろう。申し訳無さそうに謝罪したのち、ナマエの頭をぽんぽんと撫でる。セイバーは基本的に性根が腐っているが、こういう時は優しい。
面倒見の良さも垣間見える。意外なことだが、謝罪が出来る男なのである。
撫でる手付きは優しく、規則的だ。はよう寝直せ、と暗に言っているらしい。
「セイバーは?」と問えば「寝付けんがじゃ。まあ昼過ぎには寝るき、気にせんでえい」と言う。
と言われても。何をするでも無く座ったまま微動だにしないセイバーを見ていると心配になる。
怖い夢でも見たのだろうか。いや流石にそれは無いか。放って置いて寝るべきかと考えてから、だけれどセイバー繊細だしなと頭を悩ませる。無視をしたらしたで、暫く機嫌を損ねそうだ。
デジタル時計をもう一押しすれば、かちりと日付が表示された。
青緑の蛍光色がぼんやりと浮かび上がって、七月三日と表示される。なんて事の無い日付だが、ナマエはどこか妙な突っかかりを覚える。
この日に、何かあったような。海の日はまだ先だし、六月は祝日が無い。
イベント事では無かったようなとぼんやり思考して、アンニュイな横顔が目に入る。あ、そうだ。
「もしかして、命日?」
「阿呆。わしらの暦と日が違うんじゃ、感慨深くなぞならんわ」
げにまっことすっとぼけた女じゃのう…とセイバーは呆れた様子だ。
言われてみればそうである。新暦では七月の三日でも、旧暦では五月の十一日だったか。季節的には今だと言っても、日付が合致しなければイマイチ実感が無いのだと言う。
それもそうだと納得し、では何故眠れないのかと疑問が振り出しに戻る。
「気にせんでえい言うちょるじゃろうが。はよう寝ろ」
そう言ってはいるが、本心では無いだろう。セイバーは嘘を付くのが下手…というより、パターンが分かりやすい。
こういった時に意地を張る人間だとも理解している。だが思い詰めて燻るタイプなのだから、早々に相談して欲しいと言うのが本音だ。
「気になるよ。隣に座っていい?」
「…好きにせい。起きれんくのうても知らんぜよ」
ナマエを撫でる手が止まった。分かりやすく溜息を吐いたセイバーは手を彷徨わせて膝に置く。
宙を切る手には少し、迷いが見て取れた。理由を考えたが思い当たらない。
考えても出ない答えは諦めるとする。ほんの少しだけ距離を詰めれば、鬱陶しそうな顔が目に入った。
詮索されたく無いのかと思ったが、そうであれば好きにしろなんて言わないだろう。多分、自分の感情に戸惑いがあるのだ。セイバーは割とそういうところがある。
「なにを悩んでるの」
問えば益々呆れた顔が深まった。眉間に皺が寄る。本当に眠れないだけなのかも、と思うほどに不機嫌だ。
困ったナマエはどうにか場を和ませようとして、慌てて口を開く。
「一緒に羊を数えてあげようか」
「一人で数えちょれ」
機嫌が更に急降下してしまった。
先程まで此方を向いていたセイバーはそっぽを向いて怒っていますよアピールをしている。いや、本人にしてみればそういうわけでは無いのだろうが…彼は分かりやすくてかわいいのである。
口が裂けても言えないなと思いつつも「ほんとにどうしたの」と聞けば、少しだけ機嫌の悪さが緩和されたらしい。チッ、と一つ舌打ちを鳴らしたのち、こちらに向き直す。
「大したことやない。えいから寝ろ」
三度目の催促が返された。
寝ろ、と言う割には名残惜しそうな様子を感じてしまう。もう半身分そばに寄れば「まっこと話を聞かんのう」と憎まれ口を叩く。
何を今更と返せば、愉快そうに喉を鳴らした。知ってますよと言わんばかりの顔だ。そうして、ぽんぽんと膝を叩く。何の真似なのか分からず見つめ返せば「転がりいや」と言う。
まさかと返せば、形の良い口が性格悪そうに弧を描いた。
「寝かし付けちゃるわ」
選択権は与えられていないらしい。
軽く腕を引かれて、前のめりによろける。痛くは無いのに重心だけが傾くのだから、純粋に凄いと思う。こういうところに見えるセイバーの才に感嘆してしまう。
容易にナマエを受け止めた身体に支えられて、仰向けに引っくり返される。
そうして硬くて高い膝に頭を乗せられて、引かれた腕にはいつの間にか指が絡んでいる。ナマエを見下ろす赤い瞳は、何処か優しげにも見えるが、どちらかと言えば面白がっているらしい。もう片方の手は人の髪に指を通したり、耳に触れたりしている。
「ほれ、とっとと寝ろ。おまんが寝付くまで、わしは寝れんがじゃ」
熱い指が頬を撫でる。酷く優しい手付きで、熱を移すように下降する。
セイバーはナマエが意識を手放すまで寝る気が無いらしい。それは明らかに、おかしい。
寝れないと言ったのに。わざわざナマエを側に寄せたのに。何故ナマエが寝付くのを待つ必要があるのか。
やっぱりセイバーは何か思うところがある様子だ。じゃなきゃこんな柄にも無いことはしない。
そこにあるのはなんだ。瞳の奥に見えるのは、なんだ。覗き込めば、少しだけ揺れた。
撫ぜる手が止まる。それは、怯えか。恐怖か。一体何に。いや、一つしかない。ナマエという名の小娘が、岡田以蔵に与えられる恐怖など、一つしか思い当たらない。
動きがすっかり鈍くなった指を絡め取って、心臓に当てる。驚いた顔がナマエを見下ろした。
「私は、裏切らないよ」
驚愕に染まっていた顔が、歪む。恐ろしく冷たい目がナマエを映し込んだ。先程までの優しい色は何処にも見えない。怒りと、哀しみと、苦しみが見えた。ナマエは、地雷を踏んだらしい。
心臓に当てていた手が思い切り胸ぐらを掴んで、締め上げる。驚いて咳き込めば、目の色を変えたセイバーが、そがいなこと、と酷く低い声で呟いた。
「知っちゅうちゃ、そがいなことは!」
叩き付けるように怒鳴られる。
指が首に添えられる。気道は確保されているのに、指が食い込んでいく。いつの日かのように鋭い眼光が射抜く。誰を斬ればいいのかと問いた声がリフレインする。
しかしあの時のような恐怖は無い。ナマエはセイバーがナマエを殺せないと知っているからだ。彼の甘さを知っているからだ。
だが、その瞳に映るものはなんだ。分からない。
揺れる瞳は、ナマエを見据えて離さない。あの時と同じに思えた。しかし明確に違う。酷く凍えた声が鼓膜に響いた。首を絞めてるのはセイバーなのに、苦しげな顔をするのもまたセイバーだ。
そんな顔をしないで欲しい。力の入った右手に指先を沿わせれば、酷く狼狽した目をする。「のう、ナマエ。おまん、」鈍い赤色がナマエを写した。
「わしを裏切るくらいなら死ぬじゃろ」
息を呑む。
酷く冷たい汗が流れる。
息の仕方を忘れたように、時が止まる。
ナマエは、何も言えなかった。
「ほうら、おまん、なんも返せん。はは、わしの思っちょった通りじゃ」
セイバーは乾いた声で笑う。その掠れた音は、決して喜色を持ってはいない。
口調だけは悪戯の上手くいった子供のようで、その落差を痛ましく思ってしまう。そしてそんな顔をさせたのはナマエであると、嫌でも分かってしまった。
「裏切らんことは知っちょる。痛いほど分かっちゅうよ。じゃがのう、おまん、迷わず死ぬじゃろ。それも分かるがよ」
それはそうだ。ナマエは絶対にセイバーを裏切らない。裏切りたくない。
絶望で締められた岡田以蔵の人生に、尽くした相手に見捨てられた岡田以蔵の人生に、これ以上の裏切りは要らない。だから、その見解は正しい。それ故に返す言葉が無いのだ。だってナマエは、嘘も吐きたくない。
見つめ返すことしか出来ないナマエに、セイバーは苦笑するばかりだ。「…あんなあ、ナマエ」と迷ったように切り返される。
「わしはのう、死にとうない。死にとうないんじゃ。ナマエも分かっちょるじゃろ。分かっちょるから、わしに令呪を切ったんじゃろ。けんど、わしはおまんが死ぬのも嫌じゃ。おんなじくらい勘弁じゃと思っちゅう」
今はもう跡が残っているだけの左手をさすって、セイバーは縋るように言う。
薄く赤く残る令呪の跡は、ナマエの献身の証明でもあり、セイバーとの確かな繋がりの証拠でもあり、彼を依存させた呪縛でもある。
「わしは、おまんの居ない夏が怖なった」
ナマエはずっと思っていた。岡田以蔵の辞世の句は、意味の通りの言葉では無いのだろうと。
だって、彼の人間性や処刑の経緯を考えるに、澄み渡るはずがないのだ。裏切られて、惨めに、一人で、どうしようもなく死ぬのに、澄み渡っているはずがないのだ。
痛いほどの初夏の日差しに、空に。酷く消え逝く献身は、命は。どれほど彼を傷付けただろう。どれだけ彼を絶望させただろう。その記憶が消えないまま、傷が癒えないまま、それでもナマエを信じることは、どれほど怖かっただろう。
自分と全く違う心持ちで、詠んだそのままの意味で、心の底から満たされ、澄み渡り、潔く死に行ったナマエに何を思ったのだろう。
「ごめんね、セイバー」
やっとの事で声を絞り出せば「謝罪なぞ要らんわ」と突っぱねられる。
抱き起こされて、「…悪かった。痛まんか」と首をさすられる。酷く不安定な人だ。冷静なくせに感情的で、優しいのに、非道い。心に比べれば、身体の痛みなど些細なものだ。ナマエだって、謝罪は欲しくない。
「澄み渡るなぞと、言わんでくれ」
セイバーは呟いた。
「もうやめえや。あがいな真似は」
ナマエを抱き締める。とくとくと波打つ心臓の音を確認するように、背中に指が充てがわれる。
セイバーはナマエの心音と、生きている証拠である温度を求めていたのだと、やっと理解した。
この人を追い詰めたのは、ナマエだった。
感慨も無く流れるはずだった夏の日を、恐ろしいものに変えたのはナマエだ。依存。堕落。執着。執心。当て嵌まる言葉は幾らでもある。
これは毒だ。蝕み、溶かす、強いもの。互いを焦がす、悪いもの。だけれど、分かっていて手放すことが出来ない。弱さすらも、愛おしいから。
「あのね、セイバー。約束は出来ないよ。私はどうしたって変われない。裏切るくらいなら、死んでしまった方が良いと思ってしまう」
嘘は吐きたくない。だから正直に言う。セイバーもそれを分かっている。
苦々しく笑って「知っちゅうちゃ」と返す。震える指先に、彼の恐怖を知ってしまう。だけど、それだけではない。ナマエは短く息を吐く。
「だから、」続きを待つ目が、ナマエを捉える。欲しい言葉を求めるように、逃がしてくれるなと言うように。今度はナマエも間違えない。彼の望んだ通りに、与えるだけだ。
「私の敵を斬って。貴方を手放さなくて済むように」
ナマエの懐刀として。ナマエの最強の剣として。誰より斬れる至高のセイバー。
最初から、ずっとそうだったけど。言わなきゃ言葉は伝わらない。呪いは口に出して行うものだ。
いつの間にか震えの収まった腕が、ナマエの左手を持ち上げる。そのまま甲に口を付けた。もう令呪は無いのに、それに縛られる必要は無いのに、セイバーは変わらずナマエとの契りであると言う。
「仕事はきっちりこなすきの、なんなら誓ってもえい」
おまんは誰にも殺させん、とセイバーは言う。
報酬は高く付く?と軽口を叩けば、「ああ、たんまり弾んで貰わんとなあ。わしは高いぜよ」と悪い顔で笑った。そんな法外なものを要求する気なんか無いくせに。賞賛の言葉ひとつで満たされてしまうくせに。かわいい人だ。
「まあナマエは金なんぞ大して持っちょらんからのう。貧相じゃが身体でもえいき、それで我慢しちゃるわ」
失礼すぎる発言も飛び出す。セクハラですよと思ってしまったが、しおらしいより全然良い。「じゃあ今度下着でも買いに行こうか。少しでもえっちな方が嬉しいでしょ」と半ば投げやりで返せば、「若い娘っ子がそがいなことを言うなや。下着も買わんくてえい。身体は大切にしいや」と怒られる。どっちなんだよ。
「ナマエはまっこと冗談が通じんのう。おまんの貧相な身体になぞ興味無いわ。わしはもうちっくと出るとこ出ちょるねーちゃんがえいぜよ」
はいはい、と適当に流せば、微妙な顔をしたセイバーが目を逸らした。言い過ぎたと本人が思ったとき、いつもそういう反応をする。
後々「…怒っちょるか」と聞いてくるくらいなら気を付ければいいと思うのだが…セイバーは割と場の勢いで失言してしまうタイプだ。
困ったように彷徨った視線が時計を捉えて、ウワと言わんばかりの顔をする。
「おまん寝んのか。もうえい時間ぜよ」
起きれなくなっても知らないぞと言っていた割にはナマエの体を心配している。
やっぱり性根の優しい人なのである。ほんとは学校にも行って欲しく無いのだろうが、ナマエの人生と将来を案じてくれているのだろう。いじらしい。かわいい。
「いいよ明日…いや今日ね。学校休むから。一日だらだらしてべたべたしながら過ごそうよ」
メールで休みの連絡を入れ、スマホを放った。
やっぱり心細かった、というかナマエの生命活動に心配を覚えていたらしいセイバーは「ほうか」と素っ気無く返すが、割と嬉しそうなのが見え見えである。きっとまだ怖いのだろう。そんな不安無くなるくらい、嫌になるくらい、死ぬほど心拍を聞かせてやりたい。
セイバーの布団に潜れば、彼もまた横になる。温かい?と聞けば、暑いと返されるが、セイバーはナマエから離れなかった。
抱き込んでおいて「暑いのう」と零すので、大人しくクーラーを強くする。涼しい部屋でベタベタひっつくのは、酷く贅沢だと思った。「よう眠れそうじゃ」そっか。それは、良いことである。