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世界を壊すミステーク

ことん、と黄金の杯が置かれる。
目を白黒させる名前の前に、水羊羹も置かれた。「あげるよ」と至極当たり前のように声が掛かる。

「水羊羹を?」

「いや両方」

事の経緯は数分前。土産を手にインターホンを鳴らした坂本龍馬は、家に上げるのを渋ったナマエを言い負かして居間に座り込んでいる。
 押し売りの撃退には多少の自信があったが、あっさりと丸め込まれてしまった。
 
そうして座布団の上に胡座をかいた彼は、あろうことか聖杯と水羊羹を並べて「あげるよ」と宣った。訳が分からない。

「なんで、聖杯を?」

指で突いて質感を確認する。こんこんと金属特有の鈍い音がするし、魔力の波長も感じる。
 質の悪い粗悪品かと疑ったが、内側に微かながらナマエの魔力の残滓を感じる。これは間違いなく、セイバーの使った聖杯だ。

「僕はいつ消えるか分からないからね。抑止力として現界したはいいけど…排除すべき要素は現れなかった」

「その話、初耳なのですが…」

「前に少し話しただろ。僕は聖杯の悪用を避けるために…もとい、世界を滅ぼす要素を抹消するために現界している」

抑止力。世界の崩壊を阻む、アラヤとガイアの意思。
 魔術を使うものならば万人が知っている概要だ。魔術師は根源を目指しながら、その到達前に抑止力に阻まれるという矛盾を抱えている、のだと記憶している。坂本龍馬はそれの守護者だったらしい。
 
ナマエは根源到達がどうでもいい。
 何代も何代も研鑽を重ねて、やっとこさ完成する直前に必ず世界に殺されるとか馬鹿らしいと思うからである。

 飛びかけた意識を戻せば、読めない紫の目とかち合った。ナマエはこの目が、少し苦手だ。

ナマエさんたちが倒したのだろう、と彼は言う。
セイバーとナマエは五組のサーヴァントとマスターを葬っている。生存者は居ない。全員斬り殺して、解体して、ナマエの魔術の動力源として回収させて貰った。

 我ながら暴れ過ぎの酷い戦歴だと思うが、無我夢中だったのだ。死にたくなかったのだ。
 今思うと凄まじく運が有ったが、ナマエが最弱のマスターだったことも幸いしたのだろうと思う。誰しもがナマエとセイバーを舐めていた。

 だから、不意打ちで倒しまくれた。
 よその家から見れば、最悪の連続だろう。根源を目指さない魔術使い崩れが、正当なる魔術師を殺しまくって、その上で刻印も奪って藻屑にしたのだから。
 
 だけどやっぱりそれは幸運が過ぎているもので、そこに坂本さんの言う、抑止力に阻まれる何かが入っていたとしても可笑しくは無い。

「壊すか迷ったんだけどね。以蔵さんもナマエさんも、悪用はしないだろう?」

「私はしませんけど、セイバーまでは分かりませんよ」

「ああ、そうだね。でも以蔵さんのことだから、聖杯に願うのも沢山のお金とかじゃないかな」

それなら別に問題無いよ、と坂本さんはからから笑った。
 流石のセイバーでもそこまでストレートなことは願わないんじゃないだろうかと思ったけれど、そういえばナマエは聖杯への望みを聞いたことが無かったな、と閉口する。
 長い付き合いの幼馴染が言うのだから、案外と合っているのかもしれないし。

「そういえば、坂本さんは最近何してるんですか?」

ふと、疑問に思ったことを口にする。彼の仕事は既に終わったと言う。だから聖杯をナマエたちに寄越しに来たと言う。
 なら、今は何をしているのか。大したことのない疑問だが、少し気になった。

「そうだなあ。海で探し物かな。まだ見つからなくって」

以前触れていたものの話だろう。役目とか役割とか関係無く、個人的に探しているようなニュアンスだった。

「見付けたら、私にも見せてくださいね」

「ああ、一緒に挨拶しに行くよ」

一緒に挨拶しに行く、ということに引っ掛かりを覚えたが、軽く流す。船か何かだと思っていたが、もしかしたら意思を持った何かなのかもしれない。
 なんにせよ、ナマエが干渉していい話でも無いだろう。そう判断したので、楽しみにしてますとだけ返す。話が終わったと判断したらしい坂本龍馬は、手土産だけ置いて立ち上がった。帰るらしい。
 ナマエも立ち上がって後を追う。

「それじゃ、以蔵さんに宜しく」

 玄関を出て行く坂本龍馬に、ふと、魔が差す。黒い感情が渦巻く。あっさりと以蔵さんに宜しくだなんて言うことに、セイバーに会わずに帰る気だろうことに、どうせ最初からナマエにしか会う気が無かっただろうことに、思考を支配される。
 外に出た彼に問い掛けるために、呼び止めるために、ナマエは口を開いた。

ねえ、坂本さん。

「私もセイバーを裏切れば、貴方みたいになれるかな?」

世界が凍る。
酷く冷たい時が流れる。
静止したかのように、油の足りないブリキのように、ぎこちない動きで坂本龍馬は足を止める。

酷い事を言っている自覚はある。
 だがナマエには許せなかった。世界を取った彼を責める気は無い。夢を取った彼を責める気は無い。人には人の人生がある。だから、それはいいのだ。
 
 ではなにが────。
 それは、ただ一つ。岡田以蔵に人並みの弱さがあることを知りながら、付かず離れずの距離を選択する狡さ。許せないのだ。その不誠実が。

振り返った坂本龍馬の目は、驚愕に見開かれる。
 直ぐに平静を取り繕って「それは、どういうことかな」なんて茶化して見せるが、この男は賢い。

 腹の中の黒い物を隠して、そうやって何でもない顔をする。
 やはり、今までナマエが出会った誰よりも怖い男だ。

坂本龍馬は馬鹿じゃない。セイバーが怒る理由を知っているだろう。分かっているだろう。殺す気が無いのも、気付いているだろう。

それは何故か。簡単だ。セイバーは口では憎いと言うが、坂本龍馬に責任が無いことを分かっている。
 己の非業の死は他人のせいでは無いと理解している。だが割り切れるほど達観した人では無い。行き場の無いわだかまりがある。罪が無いとは分かっているが、置いて行ったことには怒っている。

 それでいて聡い人だから、その感情の理不尽さも知っているはず。つまるところ、あれは八つ当たりなのだ。

セイバーは坂本龍馬を今でも慕っている。そんなの、ナマエにだって分かる。だからこそ腹が立つのだ。

そうだ、これは“嫉妬”だ。

「羨ましいですよ、坂本龍馬という存在が」

言葉にすれば、簡単に胸に落ちる。
許せない。許さない。それは、羨ましいから。
ナマエでは絶対に手に入れられないもの。どれほど望んでも手の届かないもの。それを持っていながら、いつでも手に届く場所にありながら、簡単に捨てられる彼が、セイバーの心に居座り続ける坂本龍馬という概念が、どうしようもなく憎い。

「私は死んだらそこで終わり。セイバーの記憶にも、記録にも残れない。だけれど貴方は別。
 ここで消えても、どこで死んでも、もう会うことがなくても、セイバーは無関心になれない」

だって生前の記録は未来永劫のものだから。
 そう自虐すれば、坂本さんは酷く哀しげな目をする。さあ、なんて言うのか。なんと返すのか。
 渇いた喉を誤魔化すように唾を飲み込めば、握り締めた指は湿っていることに気付いた。ナマエは、坂本龍馬に恐怖している。

迷ったように帽子に手を触れた維新の英雄は、「そうだね」と「そうだけれど」と歯切れの悪い返答をする。
 逃げるのか、と睨みあげれば、予想に反して穏やかな目とかち合った。そういうところが、怖いと言っているのだ。

「僕だって、ナマエさんが羨ましいよ」

は。零れ落ちた言葉はそれだ。どの口が、と噛み付こうとすれば「あんなあ、ナマエさん」と聞き慣れた訛りが耳に入る。
 酷く優しい目が、酷く落ち着いた紫の色が、ナマエを捉える。

「わしはのう。昔のように、以蔵さんと仲良うすることが出来んがじゃ」

ひゅ、と喉から息が抜ける。ナマエは理解してしまう。納得してしまう。お互い様だと知ってしまう。
 思わず一歩下がれば、坂本龍馬は一歩を踏み出した。部屋のドアが閉まる。もう、彼に対する敵対心は失せていた。
 
未来永劫残り続ける記憶。何度呼び出されてもリセットされる人間関係。彼は、坂本龍馬は、岡田以蔵に恨まれ続ける。逆恨みを抱かれ続ける。
 悔しいが、その苦悩も分かってしまった。ナマエと坂本龍馬、互いに無い物ねだりの嫉妬をしていると気付いてしまった。

「以蔵さんのこと、宜しくね」

君になら、大事な幼馴染を任せられる、と坂本さんは微笑んだ。愚かだったのはナマエの方だと分かってしまった。
付かずなのは、ナマエが居るから。自分が無理に干渉せずとも、彼の弱さを理解した人間が側に居るから。離れずなのは、縁を切りたくないほど岡田以蔵に愛惜を抱いているから。
 
ナマエよりも何枚も上手だった。箱庭の中を見ているナマエとは違って、彼は開けた世界を見ていた。スケールが違ったのだ、最初から。
 恥ずかしくなって「ごめんなさい、」と顔を伏せれば、ぽん、と頭に手が置かれる。

「ナマエさんが以蔵さんのことを考えてくれちょるのは、ようく分かっちゅうちゃ。僕が狡いがも、分かっちゅう。分かっちょるのに、以蔵さんの優しさに漬け込んどるぜよ。そがいなこと、糾弾されて当然だとも。
 じゃからナマエさんは悪うない。あんま気にせんで欲しいがよ」

優しい手付きで撫で付けられる。顔を上げれば「えい子じゃ」と更に撫でられた。
 いつの間にか手袋は外していたようで、するすると髪の間を指が抜けて行く。「さらさらじゃのう」と耳に髪をかけられる。狡い人だと分かっているのに、拒めない。

 酷い人だと思いながらも、嫌いになれない。苦手だと思いながらも、諭されてしまう。笑えない話だ。
 擽ったくて身を捩れば、ふと、回るドアノブに気が付いた。てゆうか、あ。うわ。

「さ、坂本さん…」

「どうしたんだい、ナマエさん」

一転してニコニコと笑う坂本さんは、両手を広げている。多分、ナマエのことも妹のようなカウントをしているのだろう。さあおいでと言わんばかりである。
 完全なる末っ子気質の坂本さんは、多分年下の兄妹に飢えている。セイバーのこともそうだが、ナマエのことも妹分の身内として認識してしまったのかもしれない。おにいちゃんムーブを始めてしまったのかもしれない。
 
いや。それはいい。今はいい。それは置いておこう。問題なのは、ドアノブ。きい、と開いたそれに坂本さんは気付かない。
 じり、じりと近付いてくる。ひ、とナマエの声が上擦る。入って来た人物が、激しく怒ってるのが見えたからだ。

「よう、リョーマ」

「お楽しみのところ、まっこと申し訳無いのですけれど」と酷く冷めた声だった。土佐言葉をやめないで。突然の敬語は怖すぎる。てゆうかセイバー敬語使えたんだ。
 
失礼なことを思えば、一円硬貨が脳天を直撃した。
 アルミでも痛いもんは痛い。ひりひりする頭を抑えれば「何わしの居らんところで乳繰りあっちょるんじゃ!」と睨み付けられる。

 乳繰りあってはない。浮気はしていない。それだけは誓って言える。信じて欲しい。
 セイバーは少し声が震えてる。怒りか悲しみか。後者だったらと思うと酷く心が痛む。頭も痛む。一円硬貨にやられたダメージは大きい。

やっと事を理解した坂本さんが「やあ以蔵さん」と反射で返す。
 その声は動揺でブレブレである。ナマエはもう声も出ない。「ナマエ、おまんも後で覚えちょけよ」と投げ掛けられた。

「こいつを始末してから、どうしゆうか考えるきのう」

 追い討ちを受ける。言い訳は聞いてくれないらしい。いや弁解が許されたところで、先程の会話は言えるはずがないのだが。どっちにしろ、坂本さんもナマエも腹の括り時だった。

ちゃきと聞こえる鍔鳴りに、頼むから賃貸に傷を入れないでくれよと祈ることしか出来なかった。