ブラブナの肉の味を調える研究に行き詰まり、研究室の模様替えの真っ最中だったサタナキアを呼び付けたのは、うんざりした顔のアンドレアルフスである。
ナマエが泥酔して寝てるから、引き取りに来いと渋い顔で彼は言う。
当然サタナキアとしては、自己管理が出来ていない助手のようなものを回収する義理は無いと思ったし、ナマエもまたそう言うだろう。だから断ったのだが、意外にもアンドレアルフスは食い下がらなかった。
口論をするのも無駄な時間の消費であるので、諦めて広場に向かえば、生暖かな視線と冷ややかな視線が同時に注がれる。
意味が分からなかったが、本当に泥酔しているナマエを見たとき内心少し驚いてしまった。聞いてはいたものの、彼女がこうなるまで酒を飲むタイプとは思ってもいなかったからだ。
彼女の腰に手を回し、俵を担ぐようにすればブーイングが上がった。
が、気にせずそのまま持ち上げる。常人離れした怪力を持つナマエだったけれど、その身体は只の一般ヴィータだ。脳のリミッターが外れているだけで、普通の個体よりも筋肉量は少ない。あっさりと運ぶことが出来た。
そのまま研究室に運んで、実験用の台の上に適当に降ろす。
今や遠い記憶となりつつもあるが、嘗てのことを思い出した。あの時も、ナマエを適当に台の上に置いた。見た目こそ、嘗ての面影など無くなってしまったのではあるけれど、彼女は少しも変わっていない。
人肌が離れて、寒気を感じたらしい。
ゆっくりと開けられた両の目は、変わらない輝きでサタナキアを見た。涼やかで澄んだ瞳は、色を変えたはずなのに少しも変化が無い。が、心情の変化はあるようだった。
「サタナキアさんのバカ!」
「開口一番ひどい言い草だね」
「バカはバカですよ!バカにバカって言って何が悪いんですか?」
「馬鹿はお前の方だと思うけど…こんなになるまで酒を飲んで、明日に支障が出ると効率落ちるよ」
「そうですよ、分かってますよ!でも飲みたかったんです!」
「衝動的に行動を起こすのは感心しないな。もっと順序立てて、頭を使ったら?その辺のヴィータだって分かることじゃないか」
「言われなくても分かってますよ!私がその辺のヴィータと同じだって!」
彼女は少し支離滅裂な言動をしている。呆れて溜息を吐けば、ナマエは強く睨み付けてくる。
作り物の目玉が薄い膜を浮かべた。
「私なんか、たまたま居るだけの何処にでもいる人間ですよ!」
ナマエは言わずとも理解する聡い個体だったし、サタナキアもまた説明せずとも分かるならそれに越したことはないと思っている。
今でもそうだし、そのスタンスは変わらない。
甘やかさなど無いのがナマエとサタナキアで、それ以上でもそれ以下でも無い。
元はなかった筈なのだ。
だが、だけれど。それでも、わざわざ口に出す重要さも、サタナキアは知っている。
解かなくても良い誤解と、解いた方が良い誤解があるのだと、サタナキアはちゃんと分かっている。
アシュレイを殺したことは事実で、サタナキアの友人であり、理解者であり、対等の研究者であったアシュレイが二度と帰って来ないのも事実だった。
故に、プルフラスにとってのアシュレイも二度とは帰って来ないし、復讐相手がサタナキアであるのもまた事実。
実際には先に裏切ったのはアシュレイの方であったし、アシュレイは”最初から存在しない“架空の男である。
オレイが模造した人格である心優しい男は、記憶の引き剥がしによって死に、“同じ姿を持っているだけの別人”は存在しているものの、あの時の彼は二度と戻って来ることがないのである。だからサタナキアが殺したのは間違いでは無い。
サタナキアが認めた男はアシュレイだ。オレイではない。
だからプルフラスの誤解は解かなくていい。それは誤解では無くて、事実だ。アシュレイを仲間として認めたからこその矜持で、拘りで、何より重要な…個人的な感情故のものだった。
プルフラスを騙していると言われれば、そうも取れなくはないが。気付かないあいつがアホなだけである。
”アシュレイは死んだ“のだ。
カルコスの相棒のオレイは生きているけれど、サタナキアの同僚も、プルフラスの兄も、オレイなどでは無い。それが事実で、それが答え。
死んでも言う気は無い。意味のないことであったのもそうだし、オレイとアシュレイをイコールで結んでしまえば、サタナキアを友人と呼んだアシュレイに対する裏切りだとも思っているから。
認めた相手に対して誠実でありたいと思うのは、下らないことだろうか。
…そうではないと、サタナキアは最初から知っている。
─────じゃあ、ナマエは。
アシュレイに良く似た女のヴィータ。
眼鏡の下の穏やかな瞳が、馬鹿みたいに間抜けな言動が、それなのに明晰な頭脳が、サタナキアを苛つかせるこの女は。
彼女の正体にサタナキアは気付いている。
アシュレイに似ている意味も、予測は付いている。
サタナキアもプルフラスも、ナマエがアシュレイに似ているのだと思っていた。
彼女を手元に置こうとしたのだって、万が一にもナマエがアシュレイの転生先だったら困るからだ。
だけれど、そうではない。真実は違う。“アシュレイが”ナマエに似ていたのだ。
オレイはヴァイガルドに付いて調べていた。
元々逃亡先を探していたオレイは、下調べもしていたのだろう。だけれどプルフラスという存在を大切に思ってしまった彼は、より一層ヴァイガルドに執心することになる。
それは単純に、アシュレイというヴィータ体が固有に持つ人格に、オレイの魂が引きずられていたからである。
近しいモデルを上げれば、サタンの部下である犬などが居る。メギドである彼は、器に引きずられた精神が犬へと変貌していたのだ。
それと同じ現象が起きていた彼はオレイの変化先の一つであったけれど、決して今のオレイではない。アシュレイというのはオレイの“個”ではなく、あのヴィータ体が持つ、特有の性質だったからだ。
夢見の者にヴァイガルドを調べさせていたオレイ。
ヴァイガルドに住むアシュレイによく似たヴィータ。
本当は存在せず、どこかのヴィータの姿を模倣し作られたアシュレイという人格。
導かれる答えなど、一つしかないのだ。
そう思うと、皮肉な運命というのを感じる。
サタナキアはそういったものをあまり信じては居なかったが、こうして出逢ったのも何かの縁で、なんとなくで手元に置き続けている。
彼女が優秀であろうことは五年前から知っていたし、実際この目で見ていたことだ。
人をからかうのが好きなのも、気に入った人物に執着するのも、大切に守ろうとするのも、少し過保護すぎるのも、それのために全てを捨てても良いと言うのも、分かっていたことだ。
だが、彼女はアシュレイか?
─────それは、違う。
オレイがアシュレイでは無いように、彼女もまた、アシュレイでは無い。
だからこそ代わりでも良いと暗に言ったナマエを拒んだのだし、ナマエはナマエとして、サタナキアの研究室に置いているのだ。
器と魂、二つの要素があって、メギドの“個”は決まる。
魂は器に影響されるし、器もまた、魂に影響を受ける。
オレイが持つ理解し難い美学をナマエは持ち合わせては居ないし、ナマエが持つ過剰すぎる慈愛をオレイは持っていなかった。
だけれど、その器に魂を持っていたアシュレイは、オレイの愚かさを持ちながら、同時にナマエの愚かさをも持っている。二つがあるからこそ、彼はアシュレイ足り得たし、それが満たされない姿だけのアレはアシュレイではない。
つまり。詰まる所、だ。
ナマエが自身をどう思っているのか知らないが、サタナキアは別にアシュレイの要素を求めて手元に置いているわけではない。最初に目をかけた理由はそれでも、今はナマエという個体を見ている。他の誰でも無い、ナマエというヴィータだからこそ、サタナキアは助手のようなものとして手伝わせている。
…だから、彼女が勘違いをしているのは全くの不本意であり、訂正するべき誤解だとも思うのだ。
「ナマエ」
「なんですか!」
「おいで」
手を差し出して、眉間に深く皺が刻まれた彼女を真っ直ぐに見た。
両手を斜め下に向ければ、ナマエは心底嫌そうに顔を歪めて、くそう、と悪態を付いて、おずおずとその手を受け入れた。女のヴィータにしては背が高い方ではあるが、サタナキアに比べれば全然小さい。
相手がアシュレイなら、こんなことは絶対にしなかった。
どうにか労って、パフォーマンスを上げようなどと。何か杞憂が在るらしいから、聞くだけ聞いてやろうなどと。
絶対に考えなかったし、思い付きもしなかった。完全個人主義なので、自己調整は勝手にやってろのスタンスだったからだ。
ナマエはそれを理解しているのだろうか。
「はいはい。よーしよし、お前はよくやってるよ。えらいえらい」
柔らかい髪を撫でる。ハイドンは淵を撫でると喜ぶし、ブラブナも密袋を撫でると喜ぶから、彼女もそうであれば楽だと思ったが、ナマエは機嫌を損ねたらしい。
その細腕でボディをぎりぎりと締め上げてくる。うっ、とつい呻けば、彼女はキッとサタナキアを睨み上げた。
「なんなんですかー!そうじゃないです!構って欲しいって言ってんじゃないです!わたしを庇わないでって言ってるんですよ!」
「お前より俺の方が打たれ強いし、指輪の補助で取り返しが効く。そうした方が安定性がある」
「だからって、毎度毎度私の前に立たないでくださいよ!」
「お前もすぐ前に出ようとするだろ。使い捨てで運用する気は無いから、後ろに下がって大人しくしてろって前も言ったと思うけど」
「なんですか、それ!サタナキアさんらしいこと言ってる風で、私を失うのが嫌みたいな言い方じゃないですか!」
「そう言ってるんだけど、分からない?」
ナマエはやっと黙った。
ここまで言わないと分からない大馬鹿だが、誤解させたサタナキアにも非がある。普段の彼女であれば、揚げ足を取って笑っていそうなところであったが、本当に予想外だったらしい。
驚いた顔でサタナキアを見る。
「貴方、オレイさんですか?そうとは知らず、取り乱してすみません」
失礼なことを言って距離を取ろうとしたので、腰を強く引き寄せた。
密着したナマエの体温はいつもより高かったが、それでも普通のヴィータよりはずっと冷たかった。
サタナキアの飼っている実験動物。被験体の彼女。どれだけ酷いことを言っても、味方で居ると笑う馬鹿な家畜。ナマエは、そういう存在だ。
「はい、口を開けて」
「…それが、酔わないコツですか?」
ナマエの口内に糖分を落とす。
熱い舌が指に触れて、溶けたチョコレートを舐めとった。あまいと呟いて、もごもごと口を動かす。
「そう。アルコールの分解には糖が必要だからね。血糖値を下げ過ぎないよう、糖分を摂取するのは効果的だし、ペース配分をなるべく落とすのもポイントだよ」
黙って聞いているナマエに水を渡した。
ナマエとサタナキアはよくつるんでは居るものの、互いに完璧に自立しているし、生活面で助力をすることなどは殆ど無い。
だからされるがままの彼女は珍しかったし、世話を焼くサタナキアも滅多に無いことだった。
眠そうにぼんやりとするナマエなど、見たことが無かったかもしれない。
ソファに寄せて膝を叩けば、彼女は素直に従う。褪せた水色に、燻んだ桃色の髪が垂れ落ちた。
置いてあるブランケットはナマエの持参品だが使われた形跡は無い。自分用では無く、サタナキアの為に置かれた物だと気付いてはいた。
「出来るだけ殺したくはないと思ってはいるからね」
ナマエの髪に指を絡めて言えば、膝の上の頭は笑った。
いつでも殺せる位置で、直ぐにでも死ぬ生命体が微睡んでいる。
「出来るだけ、出来るだけですか」
「そう。出来るだけ」
「必要な犠牲の時もありますもんね。私も、貴方も」
「よく分かってるじゃないか」
「でも、今回みたいなのは嫌ですよ」
「それは俺の台詞だよ。そもそもお前がヘマをするから」
「…気を付けます」
擦り寄る身体を、ハイドンにやってやるように優しく摩る。ナマエは複雑な顔をして腹に頭を寄せた。
アシュレイがサタナキアに対して、こんな依存心を抱く筈が無い。目的のために頼ることはあっても、”サタナキアが目的“であることなど、絶対に無いのだ。
だから言わずとも、サタナキアにとってナマエは替えの効かない唯一の存在である。
絶対に裏切らない、プルフラスにとってのアシュレイ。オレイにとってのカルコス。
それでいて、プルフラスの為なら誰だって殺してみせるアシュレイではなくて、オレイの為ならなんだって出来るカルコスではなくて、ナマエはサタナキアの指示で死んでくれる。…なるべく殺したくはないけれど。
彼らとは違う、歪んだ信頼。二枚舌など必要の無い、正直だからこその狂った関係。
これはきっと、仲間の定義からは外れている。彼女の言うような、友人でもないと知っている。
誰かの一番に成れなかったサタナキアに手を差し出すのは、無意味な寄り添いをしようとする愚か者は、サタナキアにとっては不要な、ハタ迷惑な偽善を向けて来るのは、どこへ行こうとナマエだけ。
「…代わりにも成れなかった私は一体、貴方にとっての誰なのでしょうか」
にも関わらず。
ナマエはくだらないことを言った。サタナキアは呆れて、つい「馬鹿な質問をするね」と吐き捨ててしまう。
「お前はお前だろ。俺を選んだ、変わり者のヴィータさ」
そうでしたね、と彼女は不貞腐れたように呟いた。
いつかどこかで聞いたようなやり取りに、ナマエは気付かなかったらしい。サタナキアは覚えているというのに、結構適当なやつである。
彼女という定義。
ナマエという個体は、サタナキアだけを赦す悪辣な聖母であり────そしてサタナキアだけの、従順で可愛いモルモットだった。