屋敷に戻れば、着替えが済んだらしいシーヌが件の彼と話している。
そういえば、彼の名前を聞いていなかった。
性は恐らくシンデール氏と同じだろうが、そちらで呼ぶのは不都合が生じるだろう。先生も同じデニス性なのだから。
シーヌに悪いし、後で聞くことにしよう。踵を返そうとしたところで────男は振り返った。
ナマエは完全に死角から来たのだが、足音がうるさかったのだろうか。気付かれる前に立ち去ろうと思っていたので、少し驚く。
ナマエの動揺も、シーヌの不機嫌さも気が付かないのか、気にしていないのか。彼はその長い足で早々に距離を詰める。
面食らう間も無く、美しい顔がすぐ近くまで迫った。
「おかえり、それにありがとう。手伝いをしてくれたのかな?
ランプはこれ一個しか渡して無かったけど、足元見えた?君は、夜も目がよく見えているのかな?」
「ええっと…」
「ああ、ごめんね。驚かせたかな。実験に必要な情報だから、聞いておきたかったんだ。
ヴィータの…君の身体レベルが知りたくてね。なるべく多くのパターンを知っていた方が、結果的に無駄が減るんだよ」
恐ろしいくらいに捲したてる人である。ナマエに質問をしてはいるが、本当はそんな行程要らないのではと思う程に頭も舌も回る様子だ。
というか、一応学園からは胎生のいきもの全般が研究対象だと聞いていたのだが、もしかして人間もカウントしているのだろうか。
てっきり動物に限ると思っていたのだが、この感じ人間も動物ですとか言いだしそうな雰囲気である。
「足元は見えませんでした。夜はもっと見えません。目が悪いので…」
ナマエは日常生活に支障は無いが少し目が悪い。
眼鏡だって掛けている。そしてついでになんとなく、この男は目が良いのだろうなと思った。
目が悪ければ夜目が効かないなど当たり前で、暗ければ暗いほど全てが見辛いものだ。
視力が良かった頃は色合いでなんとなく判別が付いたものの、境界がボヤける今では不可能に等しい。
そう伝えれば、彼は満足そうに頷く。
「そう。理解ったよ。ああ、君は?視力は良いのかな?」
そう振られたのはシーヌの方である。
彼女は先ほどの不機嫌さをすっぱりと隠すと、ニコニコと答える。
「私は明るいところでも暗いところでも、変わらず。
視力だって下がったことは無いし、遠くまでハッキリ見えます」
濁りの無い綺麗な目は、見た目だけでなく性能も良いらしい。
ちらりと此方を見たアンバーは、優越感の滲んだ色をしている。
ナマエはどちらかと言えばこの男が少し…いや、だいぶ苦手だった。
正直割って入る気も対抗する気もないのだが、視界とは反対に思考は曇っているらしい。
異性の存在は人を熱くさせ、盲目にさせるのだとよく分かる。
「いいね、君の目は!俺の研究に役立ってくれそうだよ」
心の底から嬉しいといった顔をして、彼は少し興奮したような様子である。
直接パーツを褒められたシーヌはというと、満更でも無く大変嬉しそうだ。
「じゃあ、大地の恵みは?アルスノヴァ…そんな言葉を知っている?」
シーヌは首を傾げた。ナマエもアルスノヴァなどという名詞は初耳である。
男は「まあそうだろうね」とさして気にした様子もなく、再び質問を再開する。
ニコニコ、ニコニコと二人して笑っているが、幾ら愛想が良いと言ったってやはりナマエはこの男が苦手だと思っている。
それにシーヌの牽制を知っている以上ニコニコとすることも出来なかったので、ぎこちないだろうが小さく笑っておいた。
そのまま得意なことはあるかだとか、体力には自信があるかとか、精神面は強い方か、なんて取り留めのない話が展開される。
ナマエは彼らに急ぎの用事が無かったし、今日は身体疲労も気疲れも蓄積されているので早く休みたかった。
それじゃあこれで、と自然に抜けようとして、腕を掴まれる。
汚れを気にしないのだろうか。神経質そうに見えるのに。
的外れな感想を抱きながら見上げれば、作り物のように澄んだ瞳が輝いた。
「もう一人に声をかけてきてくれるかな。実験は君の番だから、後で地下に来るようにって」
雑用だった。はあい、と返事をすれば、彼は満足気に微笑む。
「従順なのは良いことだよ。俺に反感を覚えようと、ただの人間に出来ることは少ないから」
その言葉に対しては、はあと生返事を返すことしか出来なかった。随分上から目線な発言だと思ったが、それにしては地位を鼻に掛けるような言葉ではない。一体何視点なのか。
気の無い息を吐きながら、ナマエは思い出す。聞きたいことがあったのだった。
疑問は適当に片付けて、ついでに聞いておくかと口を開いた。
「あの、そういえば貴方のお名前は?」
「それ、知る必要ある?」
ナマエは知った。
効率だけを突き詰めたら、人間性は破綻するのだと。合理性の行く末は、コミュニケーションの崩壊なのだと。
あとやっぱり、この人は好きになれないなと。
▽
長い廊下を歩いて、己の部屋…の一つ隣。もう一人の学生が間借りしている部屋のドアをノックする。
「こんばんは、ナマエです」
名乗りつつ戸口で待てば、施錠を外す音がしてガチャガチャとドアノブが回る。立て付けが悪いのかもしれない。
「ナマエさん!遅かったですね、いつ着いたんですか?」
「夕方くらいかな。思ったより道が悪くて」
「あはは、体力無いなあ」
そうカラカラと笑うのは、後輩のカーラ。
細められた目は海のように青く、在り来たりな容姿をしているナマエは少し羨ましい。
彼女はさらっと人を小馬鹿にすると、「それで?」と聞いた。
「もう、人を揶揄って…」
あの男の要件を伝えようとして、ええーっと、と言葉が詰まる。彼をなんと言うのか迷ったからである。
やはり、名前を知らないのは不便だと思った。
「ここの屋敷に凄く顔が綺麗な人、居るでしょ。次の研修はカーラの番だから、呼んできてって言われたんです」
「はあ、なるほど。それで先輩が。わざわざどうも、ありがとうございます!
じゃあ、先輩と入れ替わりでイマは帰ったんだ」
会いました?とカーラは聞いてくる。
ナマエは会っていないと正直に伝えると、彼女は怪訝そうな顔をした。
「おかしいですね。イマ、昨日の夜に研究室行った筈なんですよ。朝方聞いたら、もう居ないって先生も言ってましたし」
「私、結構森で迷ってたから、気付かないうちにすれ違ったのかも」
先生というのはあの男のことなのだろう。
どう考えたって彼はシンデール氏では無いと思うのだが…便宜上、そう呼んでおいた方が分かりやすいのだと納得した。
ついでに彼女の疑念に答えれば、カーラは可笑しそうに笑った。
「そうなんですか?ナマエさん、抜けてますよね。ああ、悪い意味じゃなくて!良いと思いますよ!そういうの、ウケがいいし!
同じ学科の根暗たち、みーんな「僕だけがナマエさんの良さを知ってる…!」みたいな顔してるじゃないですか!」
「な、なんですかその話は…」
「ええ?先輩を見る目がキモいから、早く恋人とか作って下さいよって話です!」
この後輩は少し短慮なところがある。感覚派なのか、やたらと直感は良いのだが、こうも思ったことをストレートに言ってしまうのは頂けない。
悪気は無いと分かっているので適当に流すが、シーヌなんかは絶対に許さないだろう。
「まあ、そういうことなので。要件は伝えましたから、後は大丈夫そうですか?」
「大丈夫です!それじゃあ、また明日!荷物取りに戻るんで、そん時にもう一回挨拶してから帰りますね。シーヌさん、うるさいし」
「ははは…また明日」
足早に駆けていく彼女の背中を見送れば、倦怠感が一気に襲ってきた。
いい加減食事にするべきだ、と先程キッチンの方から拝借してきた保存食を手に自室へ戻る。自由に食べて良いと聞いているので、ありがたく好きなものを選ばせてもらった。
森の中にあるだけあって、保存食の類は重用しているらしく、やたらと種類があった。
特に、干した果物。シンデール氏は甘党なのかもしれない。
行儀が悪いとは重々承知しているのだが、保存食を食みながらトランクの整理をする。
ノート筆記用具バインダー程度は出しておこう。いつでもメモが取れた方が良いのは何処へ行っても当然なのだが、特に此処の先生は二度の説明とかを嫌いそうだ。
一纏めにして机の上に置こうとして、気付く。
机に薄っすらと、古そうな落書きがしてある。
指でなぞると、子供の字のようだ。おねえちゃん、わたし、と姉妹の存在が浮かぶ。
だが、この屋敷に居るのはあの男だけだ。もしかすると彼は女性で…と思ったがそんな訳はない。
家の住民の部屋を人に貸し出して良かったのだろうかとナマエは疑念に思ったが、妻子に逃げられた壮年男性を思い浮かべて少々申し訳なくなった。深くは聞かない方が良いだろう。
見てはいけないものを見てしまったような気持ちで意識を逸らせば、隣から物音がしていることに気が付いた。
カーラが忘れ物を取りに来たのだろうか。出来心で隙間を空けて覗けば、居たのは彼女ではなかった。
ブラブナたちがトランクを運んでいる。
丸太を運ぶ奴隷のように、体の上に大きなトランクを滑らせて、バケツリレーのようにするすると。
ビックリして身を乗り出せば、プピピピと彼らは鳴いた。それが酷く焦ってるように見えて、ナマエは見てはいけないものだったのだろうかと困惑する。
しかし理由も無く勝手に部屋に入ることなどはないだろう。彼らが賢いのはナマエも分かっている。
荷物もよく見れば重そうだ。
彼らの小さな体では、少し潰れた格好にならなければ運搬出来ない。可哀想にと持ち上げて横に置けば、ブラブナは不思議そうに鳴いた。
慣れたはずの甘い香りが鼻を刺激して、彼らの香りなのだろうかと思考を巡らせる。だが何故だかすぐにどうでもよくなってしまった。
「手伝います。どこまで運べばいいですか」
半ば冗談混じりに語り掛けたのだが、ナマエの想像以上に彼らは知能が発達しているようだった。
相変わらず気の抜けた音を鳴らして、提灯のようなそれを左右に振る。どうやら、手伝いは不要だと伝えたいらしい。本当に賢い生き物である。もしかしたら、獣では無いのかもしれない。
断られた以上、善意を押し売るわけにも行かない。
仕方なくそこにトランクを置けば、彼らはカサカサと枯れ葉が擦れるような音を鳴らして去っていった。
カーラは一度挨拶に来ると言っていたが、あの様子だと真っ直ぐ帰らされるのだろう。
そうしてふと、先ほどの会話を思い出す。
「森って、一本道じゃなかったっけ」