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02

研究の手伝いをしてくれと言った割に、彼が手伝わせたのは雑用ばかりである。
ゴミ捨て、雑草むしり、ブラブナの世話、ナマエ自身の生命維持。

研究をすると言ったのに、彼自身も特になにもしていなかったし。しかし無駄に言及して面倒事が増えると厄介であったので、何も言わなかった。

聞きたいことは沢山あるのだが。
例えば、身体のことだとか。ビリビリと痺れるように、脳髄の端から焼かれているような錯覚がする。それに恐怖を抱かないのも大変なことだと知覚は出来るのだが、イマイチ危機感が無い。だから後でも良いかなと思ってしまうのである。
それが何故かと言えば、多分────。

ナマエの人権を奪った男はソファに腰を沈めて、大量を文書を読んでいる。それはナマエの知らぬ文字の物が大半であり、不可解なものであった。

好奇の目が見て取れたのだろう。彼は紙束から視線を外して、此方に目線を寄越す。

「気になるかい?」

素直に頷けば、彼は紙を机に置いた。
そう、こういうところだ。男は冷酷で残虐なマッドサイエンティストでありながら、ナマエを実験動物だと言いながら、こちらとの対話に積極的だ。少なくとも、すぐに殺されることはないとナマエは踏んでいた。

彼が提示したのは複雑な文字────というより、ナマエと同じ文化圏の文字では無い。
かと言って、辺境の田舎や島で使われているような独自の文字でも無い。ナマエの知る文化とは「完全に違う」ものだ。
中には読める単語もあったが、虫喰いの状態で読んだところで本質を捉えることは不可能だろう。それは最早、翻訳に等しいことだ。

「読めません」

「そりゃそうさ」

正直に申告すれば、彼は当然のように答える。

「これはメギドラルの文字だからね。お前はヴィータだから、読める筈が無い」

尤も幻獣がベースなら話す知能も無いけど。そう彼は口添える。
人間をベースに、幻獣の能力を繋ぎ合わせて「殆ど幻獣の気配になっている」ヴィータが現在のナマエなのだという。
ナマエは幻獣と獣と人間の気配の差など分からないが、彼は感覚で察知出来ると仮定した方が良さそうだ。

「メギドラル?」

「そう、メギドラル。ヴァイガルド…この世界とは別の、キミたちヴィータから言う死者の世界。
近頃は異形の怪物が出るだろう?あれらは全て、メギドが作っている生物兵器なんだよ」

彼は親が子に教えるように…というよりかは、犬猫オウムに教えるように、ゆっくりと言い聞かせるような風である。
しかしとんでもない話を聞いてしまった。ナマエは聞かなかったことにしたくなる。

同じ町、同じ国、同じ大陸の住民の誰かを殺したバケモノ。
幻獣という名称が付いたそれらを送り込んでいる連中…メギドラルに片棒を担がされていることを知ってしまった。
それに、つまり、この長い耳が珍しい彼は。

「あなたも死者の国の?」

「今更だね」

座れ、と指で指示される。大人しく正面のソファに腰を沈めれば、彼は再び文書に目を通し始めた。だが此方と会話をする気があるらしい。
少し間が空いたのち、話し出す。

「俺はメギドのサタナキア。此処には研究の為に来てる。他に聞きたいことは?」

随分とあっさりした自己紹介である。確か一度聞いて、その時は紹介不要と言われた気がするのだが。彼は名乗りが必要だと判断し直したらしい。
青年はサタナキアと言うのだと、一週間程過ごしていて初めて知ったことに何とも言えない気持ちを抱きつつも、飲み込む。

「私の名前は、」

「一度聞けば十分だよ」

一瞥もしないままにザックリと切り捨てられる。恨みがましく睨めば、そんな視線すらも知らないと言うように鼻を鳴らされた。
気を取り直して疑問、疑念…それらを鑑みれば、聞きたい事は山積みであったことに気がつく。

「なんの研究をしているのですか?」

「護界憲章を擦り抜ける方法とアスモデウス細胞について」

「ごかいけんしょう…アスモデウス細胞…」

「お前には不要な話だよ」

「そうみたいですね」

さっさと切り上げれば、サタナキアという名の悪魔は訝しげに視線を上げた。

「興味が無いの?」

「有りますけど、聞いても理解に及ばないと思いました。事前に前知識を揃えて、再度聞いた方が賢明だとも思います」

「へえ。利口だね」

その口振りは感心したというよりは小馬鹿にしたような声である。
この人はナマエのことが嫌いなのだろうかと思ったが、比較対象が無い以上なんとも言えなかった。

ただ、彼がナマエを見る目はどこか憎らしげで、哀しい。ナマエを通して誰かを見ているのだろうか。
それにしてはウェットなものではなく、重ねて見ている相手は少なくとも恋人などではなさそうだ。

そこまで考えて、一つ疑問が湧いた。ナマエに誰かを重ねるならば、その人物は少なくとも人間の形を取っている。
それに目の前の男も人の形をしていて、見ただけではメギドなどという生物だとはとても思えなかった。

「メギドは人間の姿をしているのですか?バケモノ…幻獣は怪物の姿をしているのに」

「言っておくけど、これが俺の本体である訳じゃないよ。「これも俺」だけど、「これだけが俺じゃない」んだ。
ヴィータを模した形を持っては居るけれど、メギドとしての俺は君が言う「怪物の姿」だからね」

「怪物の姿とは別に、人間…ヴィータの形を持つんですか?…それは…何故?どういう目的で…?」

バケモノである方がきっと人間の身体などよりも強い筈。その強さと優位性を捨て、脆弱なヴィータを模倣するのは些か不自然である。
自由に姿形を形成できるのであれば、常に強大で、戦う事に特化した姿を取った方が合理的に思う。

「どうしてだと思う?」

質問に質問を返される。分かっていたことだが、サタナキアはかなり意地の悪い男だった。
いや、正しくは「ナマエを見定めている」のだろう。無意味に煽り、曲がった問い掛けをして、ナマエという人間を観察しているように感じる。
確かに、人間の本質は平常では無い時に現れる。手っ取り早い方法であるとはナマエも思うが、それに乗るのは相手が低脳だった場合だけだ。

「そうですね。怪物の姿であるよりも、その形を取っていた方が紛れ込みやすいからでしょうか」

「それは偶然だね。ヴィータ体を持つことで、結果的にそういう利点が発生してるというだけ。それで、他には?」

「…本来の姿になれない理由がある?」

「へえ。思っていたよりは勘が良いじゃないか」

「ありがとうございます…?」

「別に褒めてないけどね。────まあ、それが護界憲章。メギドは此方側で本来の姿に戻ってはいけないというルールさ」

「ルールさえ無ければ、バケモノの姿で居続けても良いってことですか?」

「そうだね。わざわざそうする意味は無いけど、問題はない」

「意味は無い…?」

「ヴィータ体の方が燃費が良いんだよ」

ナマエはそこで、話の本質を理解した。
獣だってそうだが、賢く、機能に富んだ生物は必要とするエネルギーが大きいだろう。人間だって肉体が優れた者や、身体が大きく、肉付きの良い個体は他より食事が多い。

それが人よりタッパの大きく、人よりも頭も発達して居そうな異邦の怪物であれば、人間よりも莫大な維持費が掛かって当然だ。

「メギドはフォトン…君たちの言う、大地の恵みを使って身体を維持するんだ。メギド体はヴィータより大きくて複雑だからね。コストも必然的に多く掛かる訳さ」

「省エネルギーの為ですか…」

「感想が浅いね。君、研究者なんだろ。これほど開示されてそれだけって、随分程度が低いみたいだな」

ストレートに馬鹿だと言われた。凄まじく相手に嫌味を言う人…悪魔である。

他に悪魔の知り合いが居ないので基準が測れないが、メギドラルではこういったジョークがお国柄ならぬ世界柄なのかもしれない、とナマエは判断する。
偏見で相手を見てはいけないが、異界の人だし。

「それじゃあ私を改造した理由は?その…アスモデウス細胞?とかが関係あるのですか?」

「全然ないけど」

即答である。清々しい解答に衝撃を受けるのと「私は何故改造されたのですか?」と聞くのは殆ど同時であった。

春の木漏れ日のように色だけは麗らかな緑は、一瞬にして寒空のような色になる。切れ長の瞳が細まると威圧感が強い。
彼は酷く冷え冷えとした声で、念を押すように言い放つ。

「不測の事態が起きた時に、お前を使う為だよ」

微笑んで、そう言う。恐怖は無いのに、手が震えた。
心と身体が剥離しているのだとナマエは此処で理解することになった。

無理やり形作られた愛想笑いに気付いたのか、悪魔はそれはそれは嬉しそうに微笑んで見せる。
まるでそれが幸福なことであるかのように。

「もう気付いてると思うけど、お前には痛覚も恐怖も既に殆ど無い。
加えて言えば、判断能力も既に鈍り切っている。それはお前自身、自覚あるだろ?」

「まあ…それは。頭に靄が掛かったように、思考が遅いことを知覚できます」

「そうなの?元からバカなのかと思ってたよ」

ひどい。

「それはこの際良い。お前が低脳でも、賢くても、俺の命令に従っていれば問題は無いから」

「はあ…」

「研究を完成させる前に死ぬわけにはいかないからね。手頃な幻獣を用意するより、ヴィータを使う方が効率的だった。そういうことだよ」

どういうことだ。ナマエは話の飛躍を感じる。
ナマエの身体は改造されて、人間よりもブッ飛んだ性能を持ったのは分かった。だが、そうして「使う」とは。何に。
首を傾げたナマエに、サタナキアは何か思い出したようだった。

「ああ…そうか。説明してなかったっけ」

「はい」

「俺は今、面倒臭いヤツに追跡されてるようでね。暫く此処から動きたくないんだけど…自分で指揮を執るにも限界があるだろ」

「なるほど。私を追跡者の足止め、或いは撃破に使うんですね…」

「察しがいいね。そういうことだから、それなりに働いてもらうよ」

ナマエに翡翠の瞳が向いた。
背が凍るのを感じるが、やはり怖いとは思わなかった。これが、彼の言う恐怖の無い状態なのだろうか。

指は動かず、視線を外すことも出来ないのに、只々無感情。
気持ち悪いと思うことすらないので、サタナキアを見つめる瞳はさぞぼんやりとしているのだろう。

「いいかい、お前は俺の管理下に居る。勝手に何処かへ逃げる事は許可していないし、認めない。お前自身の判断も必要無い」

そんな横暴な…と文句を零せば、サタナキアはナマエの首に手を添える。
それは以前よりも優しい手付きであったが、頚動脈を撫ぜるように触れるので、脅しであるとすぐに理解に及んだ。

「少しでも長生きがしたいのなら、どうすれば良いか…流石に分かるよね」

それは大変に理解出来ていた。

「ええ、まあ、そうですね」

切れの悪い返答をすれば、呆れたような顔をされる。

「もう少し危機管理能力を残しておけば良かったかな」

ぼやかれたので「そうですね」と相槌を返せば、やはり不満そうに溜息を吐かれるのであった。

「おはようございます」

声を掛ければ、書斎のソファで仮眠を取っていたらしいサタナキアが目を覚ます。

布団で寝ないのかと疑問に思って聞けば、移動時間が惜しいらしい。
時間は有限であり、一刻の猶予も無いのだと言う。
 
だがその割には実験をしている様子は無い。鞄に餌をやったり、ブラブナを整列させているところばかりを目にする。

好奇心が抑えきれずに聞いてしまえば、なんでも実験に必要な検体が逃げてしまったそうで、それを探してるらしいのである。
ナマエのことも、その空き時間でパパッと…やられたのは堪らないのだが、そう言った時間配分だったらしい。暇潰し兼、手駒として使えそうだったので適当に。末恐ろしい話だった。

低血圧なのか、サタナキアの寝起きは少し機嫌が悪そうに見えるのだが、話してみるとそうでもない。
よく分からない人である。

「おはようございます」

「…」

シカトである。
ナマエのことをガン無視したサタナキアは、一瞥もしないまま立ち上がって何処かへと歩いていく。

それを見送って書斎を何となく片付ければ、机の木目が現れた。そうした作業を済ませた頃にサタナキアは戻って来て、呆れた声を出す。

「時間無いから出しといたんだ。それでも整理してあるから…触らないでくれる?」

「床に置くことは整理とは言いませんよ」

「お前は昨日の話を聞いていたの?」

そう言うと、先程本棚に片付けたばかりの本を引っ張り出して、ソファの周りに配置し始めた。

これは屁理屈では無いのかと思ったが、ナマエは閉口する。
本人がそう言ってるのだからそういうことにしておくのが良いと思ったからである。サタナキアという男は、柔軟でエキセントリックな視点を持った異界人、というのが強い印象であったが、変なところで頑固であるとも思った。

ふと、彼の衣類が目に付いた。
ナマエの衣服は己が持参したものに加えて、サタナキアが屋敷内のものを使っても良いと言うので作業着などを借りて着回して居たのだが、彼は記憶にある限り、ずっと同じ服装をしている。

良くある物よりも少しだけ装飾過多に感じるロングコートに、派手だと断言出来るシルクハット…は、室内だからか何時も机の上。

彼が持つと丁度良いが、ナマエが持つと大変に長く感じるステッキに、何とも言えないデザインのカバン。それはペットのハイドンちゃんと言うらしい。(何度かブラブナをあげているが、その度に噛まれないか心配になる)

その辺はまあ良い。外装、装飾であるからだ。
しかし、彼は毎日同じ長袖のシャツを着ている。地味な色なのに、ツギハギだらけで派手なデザインに感じるそれは、余程お気に入りなのか使い古されて味が出る…と言うのだろうか。

ナマエは革製品に詳しく無かったが、それが何かの動物の上等な皮を滑したものだということは理解出来た。
だが毎日着るのは衛生的に微妙だと感じる。

「それ、洗濯しないんですか?良ければ、洗いますが」

指差しをすれば、目に見えて怒気を孕んだのが鈍いナマエにも分かった。
驚いて指を下ろせば、明らかに怒っているが、勤めて平坦であろうとするような、何ともアンバランスな対応をされる。

「必要無いよ。時間が無いって言っただろ。そんなことしてる場合じゃないんだ」

そうして薄く微笑んで、線を引く。
どちらかと言えば綺麗好きのナマエ的には面倒であるなら代わりに洗いたかったくらいなのだが、当人に拒まれてしまっては仕方が無いだろう。

「変わったデザインですけど、素朴でステキですね!」

「それ以上喋らないでくれるかな」

茶を濁すために適当に褒めようとしたが、逆効果であった。
驚く程に激怒していることが分かる。感情の希薄な男かと思っていたが、そうでも無いらしい。

「サタナキアさん結構オシャレですよね。正直、意外でした」

「お前ね…本当に人の話が聞けないね」

「まあ、そうですか?」

「そうだよ」

雑に返した彼は、既に怒りの感情を薄れさせている。
何故怒ったのかは明白であったが、どうして怒ることを止めたのかもよく分からない。忙しいと言う割に、サタナキアはナマエの相手をするし、短気そうで気が長い。揶揄うと面白いタイプであった。

床に放られたままのハイドンちゃんを起こして、埃が付着してしまっている部分を叩くと、嫌そうにギザギザの歯を見せた。噛まれそうだから叩かないことにした。
そして机の上に放られているハットの埃も軽く叩いて渡せば、ぼんやりとした目で彼は受け取った。

薄い色の髪をかきあげて、欠伸をしたサタナキアは帽子をラックに掛けた。
どうやら、机の上を定位置にするのは手間だと判断したらしい。ナマエもそれには同意である。

雑に放られたロングコートを手に取ろうとする前に、細長い指がそれをすくい取る。
そうしてさっさとそれを羽織ってしまうと、荷物を無くした指はなんとナマエに伸ばされる。

驚いたものの、そのままじっと見つめて居れば、少しも揺れない瞳が同じように見つめ返してくる。
指は何処へも行かず、力を失って下へと降りる。

「突然外敵に手を伸ばされれば、驚いて飛び退いたり、瞳を逸らすのが正常な生物だと思うけど」

何を言いたいのか分からない。サタナキアの話は難しいことばかりであったし、ナマエに何を求めているのか相変わらず理解が出来なかった。
しかし、返答を求められているのは分かったので「そうでしょうか」とだけ言及する。

「そうだよ。お前は何もかもが変わっている」

「普通ですよ。サタナキアさんが異界の人だから、そう感じるんじゃないですか」

まさか!と彼は大袈裟に肩を竦めた。小馬鹿にするように、愉快な仕草である。その目は、全く笑ってなどいない。

「疑おうとは思わないの?お前を使って実験をしたんだから、恐怖、怨恨、疑心、どれも有って当たり前だと思うけど」

澄んだ色の瞳である筈なのに、その問いは深く、暗い。
問われているのはナマエであったが、どうしてかそれを聞きたい相手はナマエでは無いような、そんな気がしてしまった。後悔と懺悔を感じるような、割り切れぬ感情を匂わすような、何とも言えないものである。

だから、率直な疑問を口にしてしまうのは、無意識の内だった。

「責められたいのですか、貴方は」

例えば、私と同じような境遇の誰かに。

その言葉が声となって発される前に、悪魔は一つ手を叩く。

「この話は終わりだよ」

感情の見えない顔で微笑んで、とっとと踵を返して行った。廊下の向こうから、酷く冷ややかな声がする。

「そんな筈は無いよ。予定通りの最善さ」

既に彼の顔は伺えず。真意を知ることは出来ない。