トランクを引きずりながら、長い廊下を歩く。
外観同様に広い屋敷内は、うっかりしていたら部屋を間違えてしまいそうだと思った。
それに、進めば進むほど頭が痛くなるような甘い香りがする。ナマエはこの香りを何処かで嗅いだような気がするが、なんだったか思い出せない。
加えて言えば彼の背はナマエよりもかなり高く、当然の如く足も長い。
歩幅がかなり違うので、既に置いて行かれそうだった。
「地下は俺の研究室になってるから、勝手に入らないでね。危ないし、怪我をされたら困るから」
分かりましたと了解の意を伝える。
この部屋は物置、この部屋は実験器具置き場と説明をされる。幾つか客間があるからそこで寝泊まりしろとの指示も出た。
しかしナマエは突っかかりを感じた。
言う事はそれだけなのだろうか。あえて触れてないのかもしれないと気を回そうとしたが、触れない理由が思い当たらなかった。
きっと忘れているのだろう。肝心の教授の紹介が無い、なんてことは考え辛い。
「あの、シンデール先生は…」
学園からはデニス家のシンデール先生を紹介されている。表札は間違いなく合っていたが、この男では若過ぎるのだ。
卒業過程に関わる事なのでと念を押して聞けば、青年は驚いたように少しだけ目を開いた。
「君は他の子よりも懸命だね」
彼は薄く微笑む。
顔こそ美しく笑っているが、どうしてだろう。目もそうであるとは思えなかった。
「いずれ会えるから。気にしなくていいよ」
要するに、彼はシンデール氏ではないと言う事だった。 男は一層笑みを深める。そうして優しく、子供をあやす毒親のようなことを仰った。
「君は余計なことを考えなくていい。分かった?」
はあ、と生返事を返せば、男は微笑みながら「良い子だね」と言う。
若く見えるだけで、かなり偉い立場の人間なのかもしれない。少なくとも、留守を預かるだけの権限は持っているのだろう
そういえばとナマエは思い出す。
「あの、私の先に他の学生が来て居た筈なのですが」
予定通りならば、シーヌと研修期間が少し被っているはずだ。
聞けば、男は少し思い出すような仕草をしてから答える。顎に指を添えるだけで絵になるのだから、顔の良い男は得だと思った。
「ああ。二人はまだ居るよ。一人は帰すように頼んで置いたから、もう居ないけど」
二人?つまり、ナマエを入れて三人だ。
期間が被るのは二人までという話だったが、何か不測の事態があったのだろうか。疑念が顔に出ていたらしい。
男は人当たりの良い柔和な顔で、穏やかに言う。
「大丈夫だよ。君の到着は遅かったけれど、だからと言って役割が無くなる訳じゃないから。焦らないで良いからね」
焦るも何も、研修期間は規定で決まっているのだが。それに内容を詳しく教えて欲しい。
色々疑念が残るのだが、家主代理がそう言っているのだから保留にすべきだろう。
加えて言えば、質問責めで申し訳ないのも事実だった。その問いはゆくゆく分かるだろう。確かに、焦る必要は無いのだし。
ナマエは思考を切り上げて、別のことを考えることにする。
後でご飯が出たら、ブラブナにも持って行ってあげよう。
▽
「ナマエ!遅かったのね!」
白衣にゴム手袋とマスクを付けた女学生…シーヌである。
きらきらとした黄金の瞳が瞬いて、ナマエの腕を取ろうとし、少し迷ったように手を下げた。手袋が汚れていたからだ。
「ちょっと色々あって」
色々が何かは言わなかった。
地下から出てきたらしい彼女は、所々に茶色い染みを作っている。それが何かは聞かなくとも良いだろう。忖度は美徳である。
挨拶もそこそこに、彼女は手に持っていた荷物を広げる。そして手袋を外して、ゴミ袋に投げた。
そのまま口を縛ってナマエに差し出した。
「廃棄場所を教えるから、付いてきて」
歩く道すがら手伝い見習いとしての仕事を伝えられる。
食事は自炊すること、規則正しく起床すること、夜は出歩かないこと、研究室には入らないこと、あとゴミ捨て行ってくれると嬉しいこと。
男がシーヌ…ではなく、最初に訪れたイマに伝えた内容は大凡それで全てだそうだ。
ゴミ袋を屋敷の敷地の奥に捨てれば、薬品臭さが蔓延する。
しかしそれさえ一瞬に感じるほどに、辺り一帯が臭い。腐敗臭、といえばいいのだろうか。泥、木、腐葉土、それに、肉。
いきものが腐ったような刺激臭がする。
もしかすると、先程戸口で見たブラブナはここに廃棄されているのかもしれない。
シーヌは構わず作業をしている。スコップを地面に突き立て、浅めの穴を掘ったらしい。
此処に捨てろと目配せをされたので、袋の中身をひっくり返した。やはり中身は実験動物だったらしい。モツ。モツ。なんかのモツ。
こんなとこに肉を捨てまくって良いのだろうか。バケモノは来ないにしても、獣が寄ってくるだろう。
「ところで」
スコップで土を掛けながらシーヌは口を開く。彼女にしては珍しく濃い紅が付いていて、薄暗くて気付かなかったが白粉も叩いているらしい。
ナマエはなんとなく、会話の内容を察した。
「あの人かっこいいよねって話?」
「そう!そう!ナマエでも思うのね!」
格好が良いのは事実であるのだが、どちらかと言えば件の人は美しい。
紫煙に巻かれたような銀の髪。切れ長の瞳はカンランセキのように薄い光が通っている。
物語に出てくる妖精のような耳も、彼の人外じみた造形美に拍車を掛けているのだろう。
加えて言えば、その美貌より何より、耳に残る不思議な声が人を惹きつける。少し掠れたような、優しげだが全くそうでは無い刺々しい声である。
スタイルも整っており、まあ確かに一目で惹きつけられる容姿をしている、と思った。
そんなことよりナマエは、ブラブナが気になって仕方がないのだけれど。
正直にそう伝えれば、シーヌは視線を鋭くする。
「私、ここの研究が気に入ったんだ。人はいつでも大歓迎って言っていたし、良かったら…応援して欲しいんだけど」
牽制されている!
人の気持ちに割と鈍いナマエでも分かるほど露骨に牽制されている!
彼女がナマエに何かを言うこと自体は多々あったが、ここまで強く出られたことがあっただろうか?いや、無い。
それほどまでに男の顔は美しいのだと、ナマエは他人事に認識した。
「分かった。応援してるね」
そう返せば、機嫌を良くしたシーヌはナマエにスコップを手渡す。
言われずとも分かる。後よろしく、と口が動く前に「やっておくよ」と笑みを作った。
彼女の後ろ姿を見ながら、気付く。そう言えばランタンは一個しか持っていないのだった。
今更声を掛けることも出来ず、仕方なく直感でスコップを下ろせば柔らかいものを突く感触がする。
適当に山を盛れば、まあ、埋まるものは埋まっただろうといった感じである。
一仕事終えたナマエは、空き過ぎて哀しくなってきたお腹を労わりながら振り返る。
当然ながら森の中は真っ暗で、月の光も差さない。足元に気を付けて帰ろう…と諦めると、淡い光が近付いてくるのが見えた。
ひとつではなく、ふたつ、みっつとゆらゆら揺らぎながら距離を詰めてくる。
幽霊。亡霊。悪魔。
実はやっぱりあの男は人ならざる者で、幽霊を従える死者の国の冥王だったとか。そう言われても納得の美貌であったし。
怯えながら目を凝らせば、視覚情報よりも先に音が耳に入った。
真っ暗闇の中では、聴覚は機敏に物を感じ取るのだと、だいぶ昔に習った覚えがある。
かさ…かささ…ぷぴ…ぷぴぴ…
間抜けな音である。
ナマエは困惑と同時に、デジャヴを感じた。これを聞いたのは、昼間。そうだ、あの変な生き物。
恐る恐る屈めば、緑の平たい球体がぼんやりと浮かび上がる。
ぼんぼりが薄く発光している彼らは、一列になって整列した。
なんだこれと一瞬狼狽してしまったのだが、それが彼らの善意であると理解した。
辿れば、一本道になっているからである。ナマエは本当に賢い生き物だと舌を巻いた。ブラブナは聡明で、仲間意識の高い生物なのだろう。
「ありがとうね」
ナマエの前を歩いてくれるらしいブラブナのぼんぼりを撫でれば、ぽひゅ…とやる気のない音がした。