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心惑わぬ仮面の女 01

サタナキアは常々、疑問に思っていることがある。

普段であれば考慮する意義に欠けるものだったし、今現在思考することになんの意味も理由もない。
ただ現状、研究に割けない時間というのがあまりに虚無であるから、なんとなく“モルモット”のことを考えてしまうというだけだ。

色素が半端に抜け、ネズミのように燻んだ灰。勝手に入れ替えた琥珀の眼球。メスのヴィータにしては大きいが、転生メギドに混ざってしまえば小さい方だとも思う、肉付きの微妙な身体。
ナマエという実験体は、取るに足らない容姿に、特筆する点を持たない平凡な才能を持ち、そこにサタナキアが異常性を外付けしたヴィータである。

勿論、目に掛けるだけの理由は存在する。
単純にナマエという個体が異端であったからだ。

アナキスに寄生された少女とは違い、彼女は彼女自身がメチャクチャに改造されている。
加えて言うなら、前者は未だにメギドのことを理解しては居ない。だが、ナマエはメギドのことも、サタナキアの悪事も理解した上で研究に手を貸していた。

サタナキアは元々ヴィータへの関心は一切無く、それは今現在に置いても変わらないことだ。
だからナマエという個体を見ても、平和ボケした下等生物である以上の感想は無かったわけであるし、言葉を話す代わりに酷く脆い、フォトンを蓄えることの出来る幻獣程度に思っていた。

しかし、ナマエ以外のパターンも多く知った今日に置いては、これは極めて稀有な個体であったと知る。
ヴィータは確かに知能で劣り、言葉を話す割には愚かな生物であったけれど、それにしたってナマエは別格だった。

サタナキアは彼女を実験動物とすることを、ヴィータの慣習に例えて“按手礼”のようだと小馬鹿にしていた訳であるけれど、近からず遠からずであったのかもしれない。

ナマエというヴィータは、呆れるほどに善良だったのだ。
それこそ名誉ある冠を与えられるような。聖人の認定を受けてもおかしくないような。異常なほどに、器が大きく懐が深い。

それがサタナキアにとっては興味深い事例であると同時に、呆れ果てる要因でもあった。合理性に欠ける馬鹿の相手は疲れるのである。

同じ純真で騙されやすい精神性の人物だと、プルフラスやソロモン王などもそうではあるのだが、彼らはサタナキアの思惑の上で転がせるので、限りなく無害だった。
…ソロモン王は勘が良いし、プルフラスは単純にしつこいので、面倒臭いとは思っているが。ナマエのような”タチの悪さ“は無い。

サタナキアは彼女とアシュレイの面影を重ねるなどと言う、クソほど下らない稚拙な感情で己もナマエも振り回した。今振り返っても、無意味であるし無駄である。
彼女はその感情にゆっくり名前を付けたらいいと言っていたが、そんな面倒な真似をする意義も、その程度の答えを出せない事なども、当たり前に無かった。

だから明確な区別化の為に、サタナキアが思考を終えたことを“わからせる”ために、ナマエを呼ぶときは「君」と言っていたのだが。当の彼女と来たら。

「サタナキアさんって妙なところで真面目ですよね。今更、畏まらなくても」

「…今そんな話してないだろ」

穏やかな微笑みで、そんなことを言う。
笑みが引き攣るのをどうにか抑えて、咄嗟に返した言葉というのは当然、彼女を責めるようなものである。
しかしナマエは益々にこにこと笑みを深めて、ンフフと堪えるように声を転がした。

「大丈夫ですよ、お前で。そっちで慣れちゃったんでしょう」

「別にそういうわけじゃないけど」

「じゃあ、なんですか。私のことを特別な仲間とか…オトモダチだと思っているから、“君”って呼び掛けてるんですか?」

「…君さ、俺が改造した実験動物なの分かってる?確かに特別な個体ではあるけど、そんな理由で区分してるわけじゃない。第一、お前が俺をどう思おうが自由だけど、」

「ほら、お前って言ってる」

「…お前、結構良い性格してるじゃないか」

「ありがとうございます。サタナキアさんのそういうところ、可愛くて好きですよ」

今すぐ処分してやろうかと正直思った。
だが引きつった笑みを浮かべれば浮かべるほど、ナマエはにこやかに笑う。ので、サタナキアは大きなため息を吐くだけに留まるのである。
全体的に無駄な問答だったと、冷静になれば呆れてしまうので。

サタナキアはあれで結構、からかうと面白い。
そして性根が生真面目だからこそ、割と可愛いところもある。最近、ナマエは気付いた。

しかしそれが極々少数派の意見であり、“あの”サタナキアをからかうというハードルの高さも理解している。
頭も回るし、舌も回る。容姿もデカくて、鋭く冷ややかな美貌をお持ちであるから、つついてやろうとかまず思わないだろう。

実際、後輩のマルファスくんがちょっと引いた目で見ていた。
ソロモンさんは「本当に仲が良いんだな」と別方向に感心していたが。…勿論、サタナキアは否定したい様子だったので、そこはナマエがフォローした。

「仲良しですよ」

じっとり睨まれて終わった。
どうやら、徐々に仲良しネタに耐性が付いてきたらしい。別方面のアプローチを考える必要があると思った。

ナマエがサタナキアをからかうのは、純粋に面白いからというのもあるが、今迄散々酷い目に遭わされた意趣返しというのも含まれる。
親から貰った大事な肉体を歪められた訳ではあるけど、やっぱりサタナキアが嫌いになれなかったのがナマエというアホンダラである。
やられた悪行を除けば寧ろかなり好ましいとすら思う。だから、精々こうやって仕返しをする程度で終わっているわけだ。

ふと思う。彼にとって、ナマエはなんだろう。
元々、サタナキアにとってのナマエは、プルフラスの兄の面影を持った誰かだ。その要素は既に無いから、今はただの実験動物枠だ。

先日は友人であるとか特別であるとか言ったが、本当はそんなこと全然思っていない。
サタナキアは、いざという時にナマエを棄てられるだろう。だって、既に“アシュレイ”では無いのだから。

…いつかナマエが居なくなったとき。彼は、感情をどこへ向けるのだろうか。
サタナキアは淡白な気質だったし、ヴィータに近い人情はあまり持っていないメギドである。だけれど決して無感情なのではなく、執着する部分が違うというだけだ。

彼の執着は“研究”それに“効率”だ。そういうのを、メギドの個と言うのだったか。
それらを最優先にした結果、感情を二の次にして動いてしまうから、唯一の友人を死地に送ってしまうとかいう事故が起きるのである。

だからこうして、ナマエという他人の空似を側に置く結果になってしまったわけだし、それを学習しないほど愚かな人ではない。情とか倫理観とか、無駄とは思っているけれど、考慮しないで二の轍を踏むのはもっと無駄だと理解したのだろう。
使い捨ての駒と言いつつも、今の今まで使い捨てられていないのは、そういうことだ。

ソロモン王は人徳者だったけれど、七十二柱を優に越している軍団を、全て見れるわけではない。
サタナキアが如何に研究に依存しているかを理解していないから、プルフラスの復讐の“惨さ”をあんまり分かっていないのだと思う。“個”を奪われている状態は、きっと飼い殺しのようなものだ。

…こう言ってしまうと、理解者ヅラのようで大変居心地が悪いのだが、サタナキアは割と不機嫌さを隠せないタイプである。
軍団に加わる前、屋敷で研究をしていた頃は大体にこやかに微笑んでいたけれど、こちらに所属して暫くは、本当に酷いものであった。しかしそれは自業自得であるから、ナマエは何も言えない。

だが、憔悴してきたある日のことである。
どこでツテを得たのか知らないが、サタナキアは研究する環境を手に入れた。
…厳密に言えば、ナマエは聞いてないけれど。あの上機嫌と不機嫌の解消は、間違いなく何かがある。だから見なかったことにしたのだが、サタナキアの“協力者”はそれが分かっているようだった。
サタナキアの外見であったけれど、決して彼からは向けられない、生温い視線を感じる。

隠れてコソコソ研究をしているサタナキアを思うと、なんだかすごく哀しいような気持ちになる。
ナマエは人間であるから分からないが、メギドにとっての“個”は凄く重要なのだと聞かされたから。無理やり封じて生きるのは、きっと辛い。

サタナキアは倫理観に欠けてはいるが、真面目な奴である。だからソロモンがダメだと言えば素直に聞くし、ここに来てからと言うものの、彼なりに、無いなりに、良心の範疇でやっているのである。
これはナマエの押し付けがましいエゴで、大きなお世話であったけれど、それでも哀しいとは思うものだ。

なんとなく考え始めると、思考はぐるぐる回るものである。
行き詰まって立ち上がれば、向かいの廊下から見慣れたシルクハットが歩いてくる。どうやら此方に用事があるらしい。立ち止まって待っていれば、すぐに距離が詰まった。
足が長いなと思っていれば、唐突に指が眼前に上げられた。

「はい。これ」

口に謎の塊が突っ込まれる。
唐突に指をねじ込まれたせいで、ナマエはサタナキアの指を舐めてしまった。彼は別段気にした風も無く、指に付いた唾液ごと塊────チョコレートを舐め取る。

ナマエは少し驚いてしまったが、サタナキアは特に何も思わないらしい。
特別好きだから気にしないとかではなくて、多分誰に対してもそうであるのは言わずとも知れている。

「良くないですよ、そういうの」

「?なにが」

「思わせぶりな行動ですよ!ヴィータの女の子は、”ウソ…これって実質プロポーズ?“って思ってしまうものなんです!」

「逆に聞くけど、俺が只のヴィータに餌付けすると思う?」

「…ないですね!」

「そういうことだね。お前やブラブナ以外に、餌をやる必要性を感じない」

ただ、彼は特別大層なイケメンだったので、とりあえず言い咎めておくだけである。
だってサタナキアに暫く関わっていれば、この人がどれくらい淡白…というか、情緒発達が微妙であるかを理解できるのだが、初見の人間はそうはいかない。

それでこういう風に、口にチョコレートとか突っ込まれてしまって、更にその指を平然と己の口に運ぶ…なんて真似、若い女の子はドキッとするに決まっている。
応える気も、生産的な感情も無いのに、振り回すだけ振り回すのは酷である。と、思ったのだが杞憂に終わった。言われてみれば、サタナキアがただの人間に餌付けする理由が無い。

「でも、どうしてチョコレートを?私にくれた理由も気になりますけど、なんでサタナキアさんがこんな趣向品を持っているんですか?」

「お前、基本的に失礼だよね」

暗に、サタナキアおまえ趣向品に興味あったのかと貶している。
ナマエが彼に対して、どんな人物像を描いているのかが垣間見えた。

「先日ソロモンたちが寄り道をしただろう。あれ、俺も途中で喚ばれたんだけどね。何かの役に立つかもしれないからって、製造方法のメモを取るように言われたんだけど」

「ああ~サタナキアさん、騙されたんですね。バティンさんか…ウェパルさん辺りに、ソロモンさんがそう指示したとでも言われました?」

「鈍いくせに、そういうところで変な鋭さがあるのが腹立たしいよ」

もう一個、ナマエの口に突っ込まれる。
甘い。おいしい。頭が回る。回ったついでに、疑問が湧き出た。

「サタナキアさん、チョコレートとか食べるんですね。思ったよりいっぱい持ってるし」

「甘いものは疲れに効くからね。お前と話してると、利便性がよく分かる」

そう言って、サタナキアもひとつ口に含んだ。
味って必要?とほざいていたやつも変わるものである。ナマエは少し感動した。ダイレクトにディスられては居るが、そんなことは些細である。

「では、私からもお渡ししましょう。はい、どうぞ」

感動したナマエは、本当はサタナキアなんぞにくれてやる気は無かったチョコレートを出す。
理由は単純に、只々無感動に消費されると分かっていたからだ。だけれど、そうではないと分かった。ならば、渡さない理由も特にない。
が、やはり行動の意味が分からないらしい。不思議そうにナマエのチョコレートを受け取った。

「俺は自分の分を持っているんだけど。もしかして、借りだと思っているの?」

「違いますよ。バレンタインってご存知ですか?」

「チョコレートを送る催しだろう。それで、ホワイトデーにお返しをすると。…最初は意義が分からなかったけれど、こちらとセットの行動であるのなら、まあ分からなくはないね」

ナマエはそれで去年のホワイトデーはちょっとテンションが高かったのか…と今更納得した。
よく分からないが、腑に落ちたらしい。送る側の損が気になっていたのだろうか。

「サタナキアさんがチョコをくれましたから、私も返すべきだと思いました。そういう催しですからね」

「そう。じゃあ、貰っておくよ」

「あ、待って」

そのまま片付けようとするサタナキアに、ナマエはストップをかけた。

「…なに?」

「ここで開けてください。本当はあげる気なかったんですよ。渾身の作品だったので」

面倒臭そうな顔をして、サタナキアは包みを返そうとするが、ナマエはそれを手で制した。
開けてくださいね、と念を押して言えば、彼は呆れたように溜息を吐く。そして、包装紙の中の、ナマエの作品を見た。

「…これには何の意味があるの?」

「かわいいでしょう」

「俺は意味を聞いているんだけど」

ブラブナに似せて作ったチョコレートクッキーである。
ハート型を歪めて押したまんまるボディに、つぶらな目と眉毛をチョコレートで描いてある。流石に蜜袋や足を生やすのは形成に難があったので、本体だけではあるけれど。

「お前は無駄なことばかりするね。食べられれば別になんだっていいのに」

「でも、ちょっと面白いでしょう」

サタナキアはノーコメントのまま、ブラブナクッキーを齧った。さくさくと生地の砕ける音がして、ナマエの口にも突っ込まれる。
面倒になった時や、都合が悪くなった時に餌付けをされているのだと、最近やっと気がついた。

…沈黙は肯定だと、自惚れることにする。