彼は言う
いいかい いつか君は一番大好きな人に出会う そうして彼のために世界さえ変えようとしてしまうだろう だけれど ボクと彼女のことは気にしないでいいんだ だってボクは誰より ずっと 昔から
君の幸せを祈っているのだから
茶をしばいた帰り道。
元来た道をゆっくりと引き返す。そこまでして貰うわけには、とナマエは断ったのだが、押し切られるように紙袋には団子が入っている。
寮に帰ったら食べるといい、と浮竹さんは朗らかに笑って、半ば強引に土産を持たせた。
「こんなに良くして貰って、やっぱり申し訳ないです」
「気にするなと言っただろう。俺がそうしたいんだから」
片手に団子を引っ掛けて、もう片方の手で白くて大きな手を握る。
引率される子供のようであったが、いつかの日の父を思い出す穏やかな心拍であった。ナマエは少し、懐かしくなる。
そのまま歩いていれば、帰路が嫌に静かなことに気が付いた。
森は騒めいているのに、恐ろしいほど冷ややかなものを感じる。浮竹さんは小さく目配せをして、「下がっていてくれるか」と言う。
ビリビリと霊圧が揺らめいて、木のうろから馬鹿でかい虚が現れる。
よく目にするような個体よりも全然大きくて、ただ、ナマエはそれに見覚えがあった。確か、先日。それは、過去で。
何故、この個体が此処に。そういえば過去のこれも、ナマエの顔を知っていた。あそこにあいつを出したのは。あそこにあいつを押し付けたのは。
足元に粘性の高い液体が散る。じゅう、と焼け付いたそれは当たったら不味そうだと考えずとも分かる。
思考を無理やり引き戻せば、吠えるような叫びが鼓膜をつんざいた。浮竹さんはナマエを庇って一歩踏み出したが、この人は戦えないと京楽さんが言っていた。実際、俊歩を少しで息が乱れている。
ナマエはどうするべきかと考えて、彼の前に躍り出た。なまくらが虚の爪を弾いて、嫌な金属音がする。浮竹さんが咎めるように名前を呼んだが、そんなものは知らない。
粘液がナマエの肌を焼いて、痛みが走る。だけれど、浮竹さんはもっとキツイだろう。だって、たった少しの俊歩で息が切れている。きっとナマエのために、無理をして外出を重ねていた。ナマエは本当に馬鹿だ。今更、優しさに気付くなどと。
人を遠ざけて、失った後に大切だったと思い返す。それでは遅過ぎると知っていたではないか。
そうするべきだと思った。彼を、守りたいと思った。守るべきだと思った。
その心に間違いなどは無い。なまくらを握れば、酷く手に馴染んだ。まるで、ナマエの心に応えるように。
みたせ。
満たせ、充せと、声がする。満ちる時が来たと声がする。ナマエのからっぽの心は、既に溢れていた。受け止めずに流していたのは誰だ。ナマエ自身だ。
斬魄刀の声は響く。剣を取れと。選択をするべきだと。お前には未来を変える力があると。時は満ちたと。目覚めはすぐそこ、いつでも側にあると。
息を吸って名を呼ぶ。
「充せ、依代這子!」
錆びた鈍は輝きをまとって、装飾過多の短剣が現れる。
祭事に使うようなそれは、ぴったりとナマエの手に馴染んだ。鈍色のそれを振っても威力などは見越せないだろう。だけどナマエには、それの使い方がなんとなく分かった。
ただ、飛ばすだけでいい。指に挟んで、短剣を放る。
命中した部位から煙に撒くように消えて、剣だけがカランと音を立てた。虚は跡形も無く消えてしまったけれど、その行き先をナマエは知っている。そして、ドンマイと内心で過去の自分に詫びた。
しかしそんなことよりも斬魄刀だ。ナマエの手には正真正銘に始解の終わった刀がある。
「見ましたか、浮竹さん。いま、私の斬魄と、」
振り向けば、酷く青ざめた顔の浮竹さんがナマエの手を取る。
そのままぺたぺたと触って「怪我は」と短く聞いた。浮かれた心がすっと冷めていく。きっとナマエは地雷を踏んだ。
無いと答えれば、腕を引いて抱き竦められる。驚いて顔を上げようとしたが、表情は伺えない。斬魄刀の話どころではない、とナマエが黙っていると、浮竹さんは消えそうな声で言う。
「俺を庇わないでくれ」
ナマエは咄嗟に理解する。浮竹さんの優しさの理由を。過保護が過ぎる理由を。ナマエという人間を、見張るように顔を見に来るわけを。
今までも気付いて無かったわけでは無い。予兆や手掛かりは幾つもあった。ただ、それが思い上がりであればと、考えすぎであればと思っただけだ。
それが正しければ、ナマエは酷くこの人を傷付けて、いずれ冷める夢を見せたからだ。きっと、未来のナマエは。
この人を庇って死んでいる。
未来のナマエの態度の悪さも理解した。恐らく今のナマエと同じように未来に渡ったナマエは、全てを知り得て、過去へと帰ったのだ。悲しませるくらいなら関わらないようにしたのだ。
だけれど彼は良い人だったから。ナマエを嫌うことが出来なかったのだろう。
わかる。だって、ナマエならばそうする。
「やめてくれ」
彼は言った。縋るように、小さく強く言う。
元から青白い肌がより一層透けるように白くなる。揺れる瞳は、哀しみよりも恐れを携えて。
痩せ細った風なのに力強い指が、ナマエを搔き抱いた。背中に腕が回って、ナマエのものよりもずっと速い心音が鳴る。恐怖だ。彼の肝を冷やさせて、ナマエは酷い女だ。
「君は優しいから、辛い道を選ぼうとする。俺を遠ざけて、狡いだろう」
色の抜けた髪が肩に掛かった。ナマエの手は彷徨って、その場に降ろされる。
何も答えられず、何も言えない。自主性の欠けた人格は、適切な言葉をいつだって紡げない。だからナマエは父であった人に感謝を伝えることが出来なかったし、きっと、浮竹さんにも何も言わずに正しいと思うことを行ったのだろう。
それを受けた人が、どう思うかを知りながら。
「すみません」
口から出るのは謝罪だけだ。
阿散井くんの言葉を思い出す。ナマエの転機を、彼は知っていたのだろう。情というのは、人を強くするのだと知った。
「謝らなくていい、お願いだ。どうか、俺の言うことを聞いて欲しい」
回された腕が一層強くなる。小さく震えているのはナマエではない。
浮竹さんは優しい。素敵な人だ。魅力的な人だ。ナマエを大事に思ってくれている人だ。無償の愛を、誰かに注げる人だ。
きっとナマエが彼を庇っていなくても、この人はナマエを大切にした。恩があると彼は言った。だが、無くても同じことだとなんとなく分かる。浮竹さんは、優しい。
「君に庇われて生き延びたって、少しも嬉しくない。俺が死ぬのは決まっていたことなんだ。代わりに君が死ぬなんて、間違っている」
激しく撃つ心臓は、借り物なのだと言う。
死ぬ予定だった運命を捻じ曲げて、延滞して、返す時。ナマエが急に割り込んできて、浮竹さんは助かったのだと言う。
そうして、命の代わりに喪失感を伴ったのだと言う。自分は死んでも良い、ナマエはダメだと、言うのである。でも。だけど、それは。
「私は、無駄死にでしたか?」
ナマエは問う。一つの疑念を、彼女の意味を。
胸を叩いて離して、浮竹さんを真っ直ぐに見た。琥珀色の瞳は揺れて、少しだけ口ごもってから、「それは、」と呟く。
「俺が死ぬ筈だったんだ。君は、死ぬ必要なんて無かった」
それはナマエを決意させる動機として十分で、自己の為に働けないナマエを突き動かす、唯一のものだった。
浮竹さんはやはり優しい人だ。ナマエよりも自分が死ぬべきだったと言いながら、ナマエの死が無駄であるとは言わなかった。押し付けられた命を正しく理解して、ここのナマエを責めることはしても、無意味であるとは言えなかった。
ナマエが代わりに死んだことに憤ってはいるけれど。ナマエが浮竹さんを庇ったこと。彼を救おうとしたこと。彼女の生きた意味。そのどれもを、尊んでいること。
それが理解できたナマエは、もう迷わない。
父が愛した美徳。そうして満たされる心。それを理解すること。ナマエは最初から、答えを持っていた。
「ごめんなさい」
もう一度謝れば、浮竹さんも困った風に笑う。彼はきっと、ナマエの気持ちを分かっている。ナマエがどんな人間であるのか、誰よりも知っている。