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04

ナマエが目覚めると、とっくに陽は登っている。

身体が思ったより疲弊していたらしく、泥のように眠ってしまったらしい。
普段、ナマエは寝坊などしないし、寝過ごすこともない。毎日決まった時間に起きて、決まった時間に研究室へ向かうので、こんなことは本当に珍しかった。

 何か拭えない違和感を覚えつつも、慌てて身支度を整えた。
何食わぬ顔で外を出たが大遅刻…という訳でも無く、シーヌに至ってはまだ起きて来て居ない様子である。

ゴミ捨てでもするかと館のゴミ箱を回っては居たが、驚くほどに物が無い。
 加えて言うと、ゴミが無いというよりは生活感が無い。

この屋敷は人が暮らしていた形跡も十分に見受けられるのだが、それらは全て古いものに感じる。今ではなく過去形。
少なくともあの男以外の家族が存在したことは察されるのだが、あの男とナマエたち以外の生活感が皆無なのである。

それにしては屋敷はそう埃を被った様子も無く、少なくとも先週先々週は人の手入れがあったように思える。
 使用人の姿などは見ておらず、後輩たちが掃除をやるかと問われればノーで、疑念は深まりばかりだった。

この場に居ないシンデール氏たちは長期旅行でもしているのだろうか。学生たちを置いて。
 
踏み込んだことは探るべきではないと承知しているのだが、ナマエは結構ミーハーなところがあったため、どうしても考えてしまう。

────もしかすると留守番を一人引き受けた息子さんなのかもしれない。そう思えば、不機嫌さや嫌味も八つ当たりだと納得が付く。そうかも。そうかも?
 
彼女の悪い癖なのだが、お節介で人に協調しすぎるきらいがある。
 なお勝手に同調しているのだが、実際はあまり理解出来ておらず的外れに優しさを向けているだけ。相手は只々謎の善意を一身に受けているだけである。
そういうところに漬け込む人間が彼女に対して強く出るわけだ。要するに、舐められる要因は彼女にあった。

「おはよう。身体の調子はどう?よく眠れた?」

ナマエは驚きで声も出なかった。
背後から音も無く現れて、低いが耳障りの良い声を掛けられたナマエは肩が跳ね上がる。
 幾ら良い声をしていたって、ビビるものはビビる。加えて、彼は背丈が恐ろしく高い。倍怖い。

「え、ええ。はい。おかげさまで…大変快適です」

「そう、それは良かった。しっかりと眠れないと、作業の効率が下がるからね」

「寝過ぎもいけないんですけどね…」

「…それは考えたことなかったな。人体は脆いから、休めば休むほどコンディションが整うと思ってたけど…」

「やったことないんですか?寝過ごして身体がバキバキになるとか」

「俺自身は決まった時間しか睡眠に使わないからね」

「ああ、そういう…」

「今度から気を付けるよ」

軽やかに声を転がして、彼は機嫌が良い風だ。
なんか知らんけど、知見を得たらしい。それにしては他人事というか、違和感があったが。

ナマエがバキバキの肩を回しながら答えると、青年はやけにズッシリとした荷物の乗った台車をナマエに託した。

「これ、棄てに行ってくれる?今朝出たばかりのゴミなんだけど」

バカでかい荷物は全て廃棄物だと言う。
 これが全てブラブナなのだと思うと少しばかり心が痛む気もしたが、研修なので致し方が無い。分かりましたと答えれば、彼は笑顔を消して冷ややかな目をする。
 
顔の美しい男の真顔はそれだけで圧のあるもので、顔にこそ出さなかったがナマエは少し萎縮してしまった。

「君は疲れている風に見えたけど、どうして無理をして繕うの?それ、利点ある?」

淡々としているが、別段敵意は感じない。純粋に不思議だと言うような声で、ストレートな問い掛けをする。
意図を掴めず困惑するが、だんまりを決め込むのは不躾であるし、嘘を付くのも忍びなかった。

「疲れてはいますが、手伝いを断る程ではありません。気を遣われるのは逆に疲れますし」

「そう、君はそういうタイプなのか」

納得したような反応をした彼は、今度はにこやかに微笑む。

「俺の研究に興味はある?」

彼には質問されてばかりである。ナマエの質問には答えてくれないくせに、一方的に取り留めのないことばかりを聞かれる。
しかし、興味の有る無しで問われればそれはイエスであり、少しばかり悔しく思ったが、彼の作ったというブラブナに大変興味があるのも事実であった。

「はい、かなり」

その答えに満足したのか否か、男はとびきりの良い笑顔を浮かべた。

「それなら君は最後にしよう。他のヤツより、君が一番賢そうだしね」

「はあ…」

「ああ、そうだ。茶色と黒と青と黄色、何色が好き?」

やはり男の質問は大方意図が読めない。何故突然好きな色を聞かれたのか意味が分からなかったが、ナマエは「黄色」と答える。
 
別に特別好きというわけではなかったのだが、なんとなく今直感で選んだのが黄色だったというだけである。
 直前に話したのがシーヌで、記憶に残っていた色だったからなのかもしれない。

「そう。じゃあこれも棄てて来て」

台車に瓶が乗せられる。空の小瓶は三つあって、ラベルが貼ってあるようだった。
 AA、BA、CDと規則性の無いアルファベットが記載されていたが、意味は分からなかった。
 
ナマエはすぐに聞こうとしたが、男は既に踵を返していた。
 身長通りに足も長いので、すぐに背中は遠くなる。諦めて台車を押せば、びっくりするくらい重かった。

ゴミ捨てを済ませて戻って来れば、他に手伝いは無いようだった。
 鼻は慣れた気がしたのだが、外から戻ってくるとやはり頭が痛い。もう数分の辛抱だと思うが。
 
暇を気遣ってか、自由にブラブナの観察をしているようにと指示が出る。
 ついでのように、書庫にも入って良いし勝手に物色して良いしなんなら借りて行っていいと言われた。

ナマエは水とおやつを持って、柵にはまったままのブラブラの元に訪れる。
彼は変わらず元気であったし、ツヤとハリも変わらない。多分であるが、仲間のブラブナたちも水を運んで世話をしているのだろう。
 
だが残念なことに、他のブラブナたちはナマエの前に現れない。あんなにフレンドリーな生き物なのに。
 恐らくであるが、用事がある時以外は意図的に現れないのだろう。想像を遥かに超える知性を有していると思うと、益々観察がしたいわけなのだが。

となると他にすることもないので、有り難く書庫を間借りすることにしよう。図書館には置いていない書籍を拝見するには良い機会だ。
シンデール氏は名のある有識者だけあって、所有している本も初めて目にするものが結構あったし、学園の図書館では持ち出しは愚か閲覧さえ許可制となっている珍しいものが平然と並んでいた。
 
ナマエは現金であったので、見ておいた方が得だとなんとなく思い(貧乏性である)手に取る。
 そうして、間に挟まっている紙に気が付いた。

その紙は子供が描いた古い絵で、大きな丸が二つと小さな丸が二つ描かれている。
 もしかしなくとも、この家の誰かが描いたのだろうと理解した。
 
大きな丸の一つは恐らくシンデール氏で、もう一つはきっとその妻。後の二つは子供達なのだろう。クレパスでぐるぐると塗られた家族は揃って茶色の目である。

なんだか微笑ましいものを見た気持ちになって、その紙をそっと戻す。詮索は宜しくないので、努めて詳細は考えないことにした。
そのまま読みたいものを数冊手に取り、自室へ戻ろうと書斎の扉に手を掛ける。
 
廊下に人の気配を感じた。ナマエはなんとなく開けるのを躊躇い、扉に耳を付ける。
 多分シーヌなのだろうなと思ったので、余計な雑用を押し付けられるのを危惧したからである。

扉の前を通過するのはやはりシーヌのようで、その横には多分あの男も居るのだろう。
彼女は大層彼…というよりは彼の顔を好んでいるようだったから、よく響く高い声をしている。

何を話しているかは分からなかったが、足音と高音が下へ下へと降りていく辺り、恐らく地下へ行ったのだと思う。
過ぎ去った音を確認して外へ出れば、昨日と同じようにブラブナたちがトランクを運んでいる。彼らはとても働き者だと感心した。

しかしながら、前回の申し出は断られているので、そのまま通り過ぎる。
 彼らの横を通り過ぎた時、やはり一層強い甘い香りがする。予想通り、分泌された蜜の香りなのかもしれない。
 
ちらりと振り返ってブラブナを見やれば、彼らはどこか悲しそうな顔をした、気がした。
 きっと、ナマエが感情移入しすぎているだけなのだろうが。

 ▽

 汚れた実験器具を洗って、台車に乗せる。
青年は毎日研究熱心なことで、機材は驚くほど汚い。仮にも生き物の体液なのだから、汚いとか言うのは良くないのだとは分かっているのだがキツイものはキツイ。
 赤い。茶色い。生臭い。

銀のナイフを一つ一つ綺麗に洗浄して、布で丁寧に水滴を拭いていく。

そうして一仕事終えて、少し早いがとっとと道具を戻してくることにした。
男が使っていた道具一式には古い汚れ…というか、洗浄ミスのようなものが多く見受けられた。きっとイマもカーラもシーヌも雑に洗ったのだろう。

だから彼はそれも加味して「ゆっくり洗ってきていいからね」と言ったのだと思うが、ナマエは数年間そういった人の後始末をしてきている。
自信を持って言うことでもないが、こういう雑用は人より丁寧でかつ速い。場数が違うからである。…言ってて少し虚しくなってきた。

台車を押して長い廊下を歩けば、地下室に続く階段前の扉が開いているのが見えた。
外に置くようにとは言われているが、開いているとなると中に戻した方が良いのかもしれない。

押して入れば、昼間にしては薄暗い部屋に酷い鉄臭さが臭う。
 この部屋ではなく、地下が恐ろしく臭いのだろう。

気にせず踏み入れば、部屋の隅から何かが転がってきて、ナマエは驚いて立ち止まった。
真っ赤に染まった皮袋…というか中に入っている何かが、がさがさと大きな音を立てながら転がってくる。
 
それはナマエの背にある光源に向けて移動しているようで、ドアを閉めれば動きが止まった。
 啜り泣くような、獣の声が聞こえる。

思わず後退りをすれば、大きな影がナマエに掛かる。
 視線を上げれば、例の男がにこやかに佇んでいた。

「やあ、早かったね」

穏やかに、それでいて優しく、圧を掛けるような声を出す。
中身の分からない皮袋よりも、底の見えないこの男の方がよっぽど中にバケモノを飼っていそうなものである。この男が裂けて異形の怪物が飛び出して来ても普通に納得してしまいそうだった。
それほどまでに、彼は浮世離れしていたので。

「効率が良いのは好ましいけれど、部屋に入った選択はかなり失敗だったかな。俺がキョウジュなら、君のことはラクダイさせているかも」

「ええっと…それは…すみません」

言外にナマエを責める男の足元で、くぐもった空気の抜ける音がする。
暗いのでそれが何であったのかはわからないが、皮袋の中身は激しく動いている様子だった。思わず後ずされば、男は一瞬冷たい目をする。

「ダメだよ、暴れたら」

爪先が鈍い音を鳴らす。
男はその生き物を蹴って、場に屈んだ。

「大丈夫だよ。話はすぐに終わるからね。お前の相手はその後だから、待っていられるだろう?」

優しく、子供をあやすように言う。
頭の中で激しく警笛が鳴る。このひとはやばいと。
 それを理解したのか否か、見ぬふりをしているのか、彼は気にした風も無く、世間話をするような気軽さで視線を寄越した。

「今からゴミになるんだけどね。君の仕事が随分と早かったから」

嫌味と一緒に彼は深く溜息を吐いた。
男の言葉に反応したそれは、また激しく暴れ出す。一度蹴られると、すぐに静かになったが絶えずしゅこー、しゅこー、と荒く深く息を吐いている。
 時々漏れる鳴き声は、やはり呻く獣のものだろう。

「そ、れは」

「実験に使わせて貰ったんだ。君も知ってるだろ?毎日棄てて来てくれたんだから」

にこにこと微笑を浮かべて、血だらけの右手をひらひらと揺らす。
何をどうしたらそこまで汚れるのだろうかというくらいに彼の両手は真っ赤に染まっているし、それにしては彼自身は全く汚れていないようで、どこかちぐはぐに感じた。

「だけどやっぱり上手く行かなくてね。この屋敷に来た時に一体、後から二体、今使った一体。それに、もう一体あるんだけど…この調子だと全部ダメかも」

「はあ…」

「でも君の頑張り次第で上手く行くかもしれないんだけど…体力ある?」

「ええ、まあ、程々に…」

「へえ!いいね、それは!やっぱり身体が資本で財産だからね。どんなに強くしようとしても、元が弱ければ壊れるだけだし」

これみたいにね、と彼は皮袋を蹴る。硬いブーツが肉袋に当たって、それはくぐもった音を出す。
もう用済みなのだろう。廃棄も決まっている。だけれどそれにしたって心が痛むのは事実であったし、ナマエは実験動物であれ無碍に扱うのを是と出来ない。
 だがそれがエゴだとも分かっていたので、「蹴るのは止めてください」とだけ言う。

「どうして?これ、今からどうせ棄てるんだけど」

「見ていて不快だからです」

獣がぅぅぅぁぁぁと音のような音じゃないような哀しげな呻きをあげる。
同情を向け過ぎて言語に聞こえてしまうなんて、この道に進む人間として不適切すぎるなとナマエは内心で自虐した。
 
男の方も癇に障った…というか、純粋に理解が及ばないといった顔をする。
 当て付けのように袋を踏み付けて、悪魔のように鋭利な瞳でナマエを見下ろす。

「君はもう助からなくても、君に関係の無い生き物でも、君にとってどうでもいい存在でも、そうやって何の得も無い偽善を向けるわけ?」

冷たい問いと凍えた目。
やはり男を同じ血の通う人間だとは思えなかった。どうして、こんなに非道いことを出来るのか。どうして、こんなに惨いことを出来るのか。
 
ナマエはこの道が向いていないと痛感した。
 しかし、言い返さなくては、彼は納得しないだろう。だから正直に言う。

「そうですね。私がそうしたいと思ったのなら」

ナマエはきっと感情論を捨てられない。
 そうして反感を持たれて、漬け込まれて、お人好しだと利用されるのだろう。

「君って損をするタイプだね。無駄なことばかりして、貧乏クジを持たされるでしょ」

「否定はしません」

「それで最終的に良いとこは取られて、面倒事だけが手元に残るのかな?」

「…黙秘します」

品定めするように見定めた男は、心底くだらなそうに視線を逸らした。そして、問い自体に興味を失ったのか袋を持って踵を返す。

「まあいいや。まだ少し掛かるから、適当に時間を潰して来てくれる?」

煩わしげに、だけれど取り繕って微笑んだ男はやはり顔は美しい。
返事を返せば満足気に頷かれる。きっとまた従順なのは効率が良いとか思っているのだろう。

「あ、そうそう」

男は思い出したように呟いて、ナマエは足を止める。

「運が無ければ先生に会えるよ。夜になったら此処においで。次は君の番だから」