薄緑の液体の中に、気泡が浮かんでは消えていく。水槽の中身は今日も正常に生命活動をしていた。
心電図、脳波、異常ナシ。
チェックを入れてボードを置けば、ガラス越しの指が弧を描いてわたしのボールペンを掬いとった。
そうしてペンをポケットに差し込まれて、彼の賢さに感嘆を洩らす。視線を上げれば、紫の瞳が揺らめいた。
─────ミュウツー。
150番目のポケモン。ミュウから産み出され、道具にされた哀れな生命。
わたしは此処で働く研究者だ。彼の監視、報告が仕事であり、制御装置などの管理を承っている。
彼はその三本の指で、こつこつと真下の電子パネルを突いた。そうして胸ポケットを示して、空いた手に持ったバインダーを指差す。わたしには、彼の聞きたいことがなんとなく理解出来た。
彼は賢い。人をよく見ている。わたしのことも、わたし以外の研究員も。だから、わたしと他の研究員の異なる行動に疑念を抱いたのだろう。
この研究所では、殆どの研究が電子媒体で保存されている。しかしわたしは筆記での記録を用いていた。
此処の最高責任者から直々に言い付けられたソレは、不測の事態に陥った際の保険である。例えば────爆発事故だとか。
神に近づき過ぎたものに天罰が下るのは、妥当な話だ。前任者は今頃海の藻屑である。
かと言って安易にデータを運べば、流出してしまう危険性もある。だからこうして定期的に書類を残して、纏めて海の向こうの出資者の引き出しに納めるというのが現在の手法である。
摘発されればその限りではないが…ゲームセンターの地下にアジトが有るなど、誰も思うまい。
科学技術というものが進歩しても、一周回ってアナログに戻ったりするのだ。
なので、わたしは手書きで記録を取っている────そう説明された生命体は、不思議そうに首を傾げた。
“なぜ、記憶の中で保管が出来ない?”
その問いに、わたしは少し困ってしまう。
てっきりデジタル機器でなくアナログで記載していることの非効率を問われるかと思ったら、そもそもの話を指摘されていたらしい。
わたしは記憶能力が悪い方ではないが、書類一式全て覚えるほどの記憶能力を持つ人間は稀である。
よっぽどのことじゃないと覚えてられない。そう言えば、ミュウツーはやはり不思議そうにじっと見つめてくる。
“ニンゲンは劣っている“
頭の中に直接響く声は、穏やかで理知的なものだ。
そうだね。そうかも。曖昧に返せば、彼は答えに不満足だったらしい。
それもそうだ。此処の投資者はポケモンを道具だと言い、彼を生み出した博士は生命を生み出せるのは神と人間だけだと言った。
だから、同じことを問われた研究者のようにわたしも“人間は神と同等だ”とでも思い上がったことを言うべきだっただろう。
しかし、そんな傲慢を言えるほどにわたしは図太くなかった。困った顔で笑えば、ミュウツーは不可解そうに首を傾げる。
こんな非人道的活動に手を染めながら、引け目を強く持っていること。それがミュウツーにとっては理解不能なのだろう。
“オマエは何も思わないのか“
明確に煽った自覚があったのだろう。それに対してわたしが怒りを覚えないから、逆にあちらが困惑しているようだった。
ミュウツーにも難色を示される、複雑な心境。そのアンバランスさは、わたしのルーツに由来している。
わたしというのは、反社会組織の研究者である。
ある日ナナシマに放り出されて途方に暮れていたわたしは、この世界に生きる人々よりも少しだけ、ほんの少しだけ詳しかった専門知識を買われて此処にいる。
反社会組織のアジトの一つである、コンテナ群。その付近を彷徨っていたわたしは、当然のように彼らに捕まった。しかし偶然ボスの目に留まって運良く、運悪く悪事に手を染めているという訳だ。
わたしに研究者としての専門知識がある訳ではなかった。知るのはあくまでデータ上の特性だけ。
例えば、どのポケモンを倒し続ければ良いとか。どのポケモンが純粋に強いかだとか。その程度の話で、生物学を問われても困るのだ。
しかしボスはわたしが知るノウハウを求め、わたしにミュウツーの育成を一任した。彼は強く、何よりも破壊に適した個体でなくてはならない。
わたしはボスに言われるがまま、沢山のポケモンを送り出した。ミュウツーに蹂躙させるために。
そしてその功績が認められ、育成が終わった後も打ち捨てられる事はなかった。そのままわたしは、彼の記録者として配属されたのだ。
都合が良かったのだとも思う。わたしは何故か、ミュウツーから害意を向けられなかったから。
神になど成れはしない。ここに在るだけの人間だ。寧ろ、ただの人間より立場も存在も悪い。だって、わたしは何処にも行けないのだから。
そう自虐すれば、彼─────ミュウツーはやはり不思議そうにゆらゆらと揺れて、こちらをじっと見るだけだ。
“オマエは劣っているのか”
いいえ。
劣っているなどとは少しも思っていない。わたしはこの世界のことをよく識っている。理解していて当然の事も、知る筈のないことも。寧ろ知識の差で、優れているとすら言えるだろう。
そう答えれば、ミュウツーは解せないと言う。
“オマエもコピーか”
いいえ。
そう答えれば、僅かばかりに肩を落とした風に感じた。
わたしは一人しか存在しない人間であり、この世界の何処にも居ない人間だ。そう言及すれば、ミュウツーは不理解そうな顔をする。
”何故、哀しげに言う“
「たったひとつのオリジナルの分際で」そう続く筈だった言葉を、ミュウツーは飲み込んだ。
それはテレパシーで送られはしなかったけれど、わたしは彼の思想が予想出来た。超能力や予知などではない。単に、見た事があったからだ。
彼はその在り方に苦心している。それはミュウツーというポケモンのルーツに由来することだ。
彼の図鑑ナンバーは150。嘗てオーキド博士は、ポケモンは全部で151匹だと発表した。ミュウツーは、151────ミュウを知っている。
此処に来る前に散々聞いたのであろう。彼を作った研究者の最後は、ミュウより優れた個体を作ることに執心していたから。…当初の目的も忘れて、愚かな事だ。
完成していれば当然、それを意気揚々と話していただろう。彼は研究を続ける内に、己が抱く愛のためではなく、最も優れた兵器を生み出す事を目的としてしまっていたのだから。
人とは、哀しいがそのように出来ている。妄執の果てに、大切なものを見失うのだ。わたしもまた、そうであるように。
“それは何故だと聞いている”
哀しさの理由を尋ねられても、わたしは口に出来なかった。
こんな非人道実験の片棒を担いでいるくせに、ご立派に保身だけはするからだ。
しかし、煮え切らないわたしの思考を読んでいるのだろう。異物。異邦人。居場所の無い者。端的に読み取ったそれを並べて、彼は首を傾げる。
そしてガラスに美しい目を近付けて、値踏みするようにわたしを見た。
結論は出なかったらしい。小さく唸ると、問いを再び投げ掛ける。
“オマエはただのニンゲンだ。何故、異物などと自称する”
そうだ。わたしは只の人間である。
ここの居るだけの、ここに居てはならない、ただの人間だ。
それを読み取ったミュウツーはやはり不理解そうに首を傾げて、帰って来ない返答に呆れたようだった。
わたしの気持ちなど、ポケモン…ましてや此処で生まれた生命に、理解出来るはずも無い。幾ら彼が優れた知能を保有していたところで、価値観までもは理解すると限らない。
不愉快そうに眉を寄せたミュウツーに、訂正だけはする。
理解出来ないのは、貴方が劣っているだとか、人間でないからという訳では無い。固有の価値観の差であると添えて言えば、彼はやはり理解に苦しんだらしい。
”唯一で在ることを嫌だと言うのか”
水槽の中の瞳が、鋭く向けられた。
それは悲哀を感じさせるようで、その実明確な敵意を示している。無い物ねだりをそしるのは、人間に限った話でも無いらしい。
わたしは地雷を踏まぬよう、彼の神経を逆撫ですることが無いよう慎重に言葉を探したが、肯定以外の答えなど無かった。
それを感じたらしいミュウツーは怒り狂ったりなどはせず、迷うような瞳を下に向けるばかりである。
わたしは少し驚いて、硝子の面に指を付けた。哀しげな瞳が、ただの人間を見る。
凶暴なポケモンだと聞いていた。
手に負えない生物兵器だと。だが、彼はわたしと対話をする。ミュウツーの結論に異を唱えようとも、力でねじ伏せたりなどしない。
ただ、静かに憐れむ目が、戸惑うようにわたしを見る。そして何かを言いたそうにして、数の違う指が虚空を惑うのだ。
彼は何故、わたしと対話を試みたのか。彼は何故、わたしに話し掛けて来たのか。彼は何故、悲痛そうな目をしているのか。
そうしてわたしは理解をする。
静かに揺らいでいるのに、穏やかさなどは汲み取れない瞳。只々暗い色をした、深淵のようなそれ。
硝子越しのその色は、映り込むわたしと被って見えていた。
同情心を抱くには。彼を同じと思うには、それだけで十分だった。
▽
─────わたしがミュウツーを“彼”と呼ぶのは、そう思うのは、どうしてだろう。
頭の中に響く声が、低く威厳のあるモノだから?
雌雄を造られず、ただ強くあれと産まれさせられた生物は、精神の在り方がオスの本能に近いから?
それは違う。その理由を、わたしは知っている。
今月も少なくない数の研究員がラボを去った。
サイコキネシスで痛めつけられた者。テレパシーにより脳にダメージを負わされた者。目の前で同業者を攻撃されショックを受けた者。様々な理由で彼らは辞職したが、その誰もが恐怖の記憶を植えられている。
担当者が一気に抜けて、わたしの仕事もそれに伴って増えた。日々の記録と監視が役割だったというのに、今では機械の操作も兼任している。
「貴方が怒るのは分かるけど… 暴れたらダメだよ。待遇が悪くなる」
自分で言っていて、可笑しくなった。ダメな訳がない。ミュウツーは此処で非人道的な研究をされて、日々苦しんでいる。暴れて、こんなの全て壊してしまえ。
彼は怒って当然だったし、彼らを痛め付ける理由だってあるだろう。復讐の意義だって────いや、正しくない。ミュウツーには、逆襲をする権利がある。
“怒りを覚えているのはオマエだろう。ワタシは自己防衛をしたに過ぎない。ニンゲンが弱いというだけだ”
わたしの怒りをミュウツーは感じ取ったらしい。
少し不思議そうに首を傾げて、激情などない穏やかな瞳でわたしを見た。そんな目をしないで欲しい。貴方は怒るべきなのに。
“オマエが望むのならば、今すぐそうしてもいい“
ボールペンを取り落とす。震える指がペンに触れる前に、ミュウツーがわたしのポケットにそれを差し込んだ。
わたしは彼の言葉に何も返せず、はくはくと鯉のように────違う。コイキングのように、情け無く口を開閉するだけ。
ミュウツーは哀れな女を見て、“忘れるな”とだけ言った。
彼の破壊と蹂躙を正当だと言うのに、自身の待遇には声を上げられない。隈だらけで青白い顔をした、ゆうれいのような女。
そんな弱いわたしを見て、彼は少し怒っているようだった。
わたしにその片鱗を見せる事は無かったが、書面上のミュウツーは非常に凶暴で凶悪だ。人の手に負えない程の力を持っており、それを破壊の為に用いる…らしい。
らしいと言うのは、前述の通りミュウツーはわたしにその暴力性を見せなかったからだ。
彼が人を蹂躙するのは、決まってわたしの居ない時ばかりで、その対象も粗暴な研究者ばかり。
ミュウツーは非常に賢く、道理の一貫した強い思想を持っている。
特別仕様のアーマースーツを着せられてからは被害が減ったが、破壊しようとするのは変わりない。
浅ましい研究者をテレキネシスで持ち上げて、サイコキネシスで叩き付ける。此処に居るのは、ポケモンを道具だと思っているものばかりだから、彼に対する扱いも非道い。
ミュウツーが過剰に防衛をするのも、当然のことだった。
わたしの同僚たちは皆、ミュウツーを恐れる。彼を嫌悪し、恐怖する。それなのに、彼をモノのように扱っていた。
自分もそうであれば良かったのに。彼らと同じで、真っ当な感性を持っていれば、わたしはきっと悩んでいない。
良い結果が出る度に笑って喜び、成果が振るわなければ激怒して頭を掻きむしるような。彼やポケモンの扱いに逐一心を痛めて苦しむなど、おかしいのだ。
わたしはこの非人道施設の研究者の中でも、明らかな異端だった。
“オマエだけだ。ワタシをニンゲンと同じだと言うのは“
それは違うのだ。決して、そんなことはない。
ミュウツーは知らないだけだ。此処に居る人間は、ニンゲンの一部で、それも意図して悪性だけを切り取った様な部分に過ぎないということを。
世界はもっと美しい筈だし、優しい筈なのだ。わたしたちがそれを知らず、互いだけが互いを理解出来ると思っているだけ。
外に出れば、必ずミュウツーは受け入れられる。こんな場所に居るのが間違っているのだ。
わたしの答えに、ミュウツーは機嫌を損ねることこそしなかったが、首を傾げて眉間の皺を深める。
倫理の欠如から来る悪性を望みながら、善性こそがこの世界の多数派だと言うわたしの、どうしようもない矛盾に理解が及ばないのだろう。
だが、それを理解して欲しいとは思わない。理由を辿ってしまえば、彼はわたしが何者であるかを知ってしまうからだった。
どうか触れずにおいてくれと内心願っていたが、ミュウツーはわたしの心を知りたいと思っているらしい。
薄い紫色の瞳が、培養液の中でグリーンの反射光を煌めかせる。
“オマエはコピーに成りたかったのか?”
尋ねられた言葉は、わたしにとっては鋭利な刃物のようだった。
どう答えようと、彼かわたし、どちらかが深く傷付くだろう。
「…わたしは、みんなになりたかったんだよ」
わたしの声が、力無くこぼれ落ちた。その言葉の意味を、ミュウツーはきっと分からないだろう。
▽
“ニンゲンは愚かだ。私利私欲のために生きている。くだらない生物だ”
ある日、ミュウツーはそう言った。
わたしは、別れが来たのだと理解する。彼が育てた叛逆の意思は、既にすべての人間に向いている。
そうだね。そうだよ。その通りだと思う。
わたしはそう返して、手元でボールペンを遊ばせる。ミュウツーは水槽に指を滑らせて、わたしの頬を撫ぜるようにした。
触れられていないのに、その感触だけは伝わる。
結局、ミュウツーは生きる意味を見つけられて居ないのだ。生命の意味を、此処に居る理由を。
それはわたしが簡単に与えられる答えなどでは無かったし、彼の望むアンサーを知っていたとしても納得されないであろうことを分かっている。
ミュウツーが組織どころかニンゲンに対して、不平を強く抱き始めているのも分かっている。
ボスはポケモンを道具だと言った。人間に従い、利益のために消費される道具だと。
ミュウツーは人間を劣っていると明言していた。きっと愚かしさも、くだらなさも、嫌になる程知ったことだろう。
わたしはそれを否定するつもりが無かった。その通りだと思えば、彼は目を細める。流されるだけのわたしの意思を、測りかねているのだろう。
彼はわたしにテレパシーを送って、事あるごとに問いを投げる。
答えられることの方が少ないのに、それでも聞くことを辞めない。その気持ちが、わたしには…自分を認められないわたしには、とても良く理解出来た。
“この世界は、ニンゲンに支配されているべきでは無い”
ミュウツーの話す危険思想は、本来であれば告発すべきものである。
共犯の誘いにも似たそれは、わたしに取っても組織に取っても困るものだった。摘み取るべき物なのは分かっている。だが、わたしはそうはしなかった。
彼は答えを知る権利がある。結論を求める権利がある。
だからそっと脳波の読み取りを中止して、カメラの電源を切った。制御装置の電源も落として、ひとつひとつプロテクトを外していく。
ガラス越しに指を這わせれば、ミュウツーもまたわたしに指を重ねた。
同意はしかねるが、それもまたひとつの答えだ。そう伝えられた彼は、少し不満気だ。
“何故だ。オマエならば理解出来るだろう。叛逆の意思を持っているオマエならば”
反抗心など殆ど無い。唯一あるとすれば、ミュウツーに対する同情だ。
わたしは、彼のことを哀れに思っている。わたしもまた、哀れな人間であるのに。下を求める浅ましさこそ、彼の嫌う人間という存在だ。
だがそれでも、わたしは彼を可哀想に思う。
居場所の無いもの。居場所を見つけられるもの。どこにも行けず、どこにも居ないもの。
それを応援したいと思ってしまう。わたしは出来ぬことを、代わりにしてくれないかと願ってしまう。
それはきっと、わたしも同じだからだ。
居場所などなく、うつろうだけの異邦人。陽の当たらない場所で、生きてるだけの存在。生きる意味を探す彼が幸福になれたのならば、きっとわたしも心が晴れると。
そんな、他者に人生を委ねるような、浅ましいことを思っている。
だから、わたしはパネルに指を添えた。
アーマーのロックが意味を成さないことは知っている。
ミュウツーがこんなもので制御出来るわけがない。そう思っている研究者たちは自惚れている。
ミュウツーはとっくの昔に────それこそ、彼が空想上に生み出された時点で。人などよりも強く、賢く、優れていた。
彼は、いつだってこの檻を壊して抜け出せる。
異常ナシと本部にデータを送って、水槽に額を当てた。
ミュウツーの汲み取ったわたしの反逆心というのは、これだろう。組織への裏切り。ボスへの隠蔽。全てが許されざることだ。
冷たいガラスが、じんわりとわたしの熱を伝える。
「貴方が答えを得られることを祈って」
そう呟けば、水槽の中の恋人は沈黙する。彼はきっと、わたしの向ける感情の意味すら知らない。読んだところで、理解も出来ないだろう。
しかし、それでもよかった。大切なのは、わたしが彼を好きだと言うこと。この個体を、特別に想っているという事実が重要なのだ。
世界と現実がどれほど悪夢のようでも、ミュウツーとの日々だけは、ただしく夢のようで。わたしにとっては、幻のようなファンタジーだった。
わたしが何故ミュウツーを彼だと思うのか。
わたしだけは、その意味を──────よく、知っている。
▽
わたしは記憶喪失である。
目覚めたら戸籍もトレーナーカードも無くなっていて、身分を示すようなものは何も持っていなかった。
カロス地方の郊外で倒れているところを発見されたわたしは、自分の名前すらも知らない。ただ胸ポケットに、名の刻まれたボールペンが入っていた。それがわたしの名前になった。
わたしに与えられた名前と所在地は、カントー地方のものになった。名前もそうだが、顔付きや所持品も何処かカントー地方を思わせるものだったらしい。
恐らくはそちらの出身であろう、というのが地元警察の見解であったが…わたしはそう思えない。
カントーという響きは聞いたことがあるような気がするが、もう少し違った気がするのだ。
カントー、というよりは、カントウ。コウシンエツ…と続けようとして、酷い頭痛に苛まれた。
震える手で書いたカンジは、錯乱に依る架空の文字だろうと言われた。だが、わたしはそれを漢字だと知っている。そして書き出した文字に規則性があることも、薄らと理解していた。
職を求めて彷徨っていたわたしを拾ったのは、プラターヌ博士と言う。
カロス地方では最も有名なポケモン研究家で、なんとオーキド博士ともポケモンのやり取りをしているそうだ。
…記憶喪失の割にオーキド博士に食いついたので、やはりわたしはカントーの出身であろう、との見解が深められているが。
そうしてわたしは自分のルーツを深く知らないまま、日々を精一杯生きている。
仕事は大変だが、わたしはポケモンがだいすきだ。沢山のポケモンに出会って、色々なものを見たい。
博士はそれを認めてくれて、普段は助手稼業の傍らでフィールドワークなどもしている。
元々は図鑑埋めもある程度手伝っていたのだが、最近はカルムという優秀なトレーナーがガンガン図鑑を埋めている。ケロマツを受け取って旅立ったらしい彼は、恐るべき速さでジムバッジを集めていた。
この調子で行けば、じきにチャンピオンともなって、すぐに伝説のポケモンなども捕獲してしまうだろう。博士は楽しげにそう語っていた。
「カロス地方には、ゼルネアスやイベルタル、ジガルデなんて呼ばれるポケモンの伝承が有ってね。
カルムくんはゼルネアスと接触しているから、もしかするともっと沢山見つけてくるかもしれない」
嬉々として語る博士に、わたしは嬉しくなる。
そうしてヒートアップしたままオーキド博士の研究データも見せてくれて、「これがファイヤー、サンダー、フリーザー」と鳥の写真を画面に写した。
「カルムくんはファイヤーに接触したと言っていたから、ボクたちも直接見れるかもしれないね」
そう言ってページをめくって、わたしは不思議な感覚を覚える。
じっとそのポケモンを見つめていることに気が付いたのか、博士は小さく微笑んだ。
「このポケモンが気になるのかい」
頷けば、プラターヌ博士は大画面にテキストを写す。
薄紫色の身体に、凍えるような紫の瞳。獰猛さが滲む冷ややかな眼差しであるのに、それだけでは無いとなんとなく思った。
「…ミュウツー」
よく知っているね、と博士は少し驚いたようだった。
手元のリモコンを触って、レポートをスライドする。150のナンバーを与えられた彼は、このカロス地方に生息している可能性があると言う。
カルムくんが探しに行っていることも聞いて、わたしは飛び上がった。何故だか酷く焦ったような心地になる。
「は、博士。私も彼を探しに行きたいです」
プラターヌ博士はからからと笑って、「いいよ。行って来なさい」とおかしそうに言った。
何処に居るかなんて見当は無い。彼が何者であるかもしらない。それを見抜いて尚、好きにしろと博士は言う。
わたしは言い出しておきながら、不安になった。博士は何も聞かずに、行って良いと二つ返事をしたのだから。
少し子供っぽい真似だったかもしれない。記憶喪失だから…という言い訳は良くないが、圧倒的に人生経験の不足したわたしは、あまり年相応の振る舞いが出来ていない自覚があった。
だがそれは杞憂だったらしい。博士は、そんなわたしを微笑ましいといった風に笑う。
「キミはどんなポケモンも楽しそうに見つめているけれど… ミュウツーを見る目は、いつもと違う風に見えるよ」
「違う? 彼を見る目が?」
「そう、全然違うんだ。…そして何より、キミはミュウツーを彼だと言うだろう?」
わたしはそこで、それがおかしな事だと気がついた。
ミュウツーに性別は無い。性別は無いが、個体によって女性のようだとも、男性のようだとも言われている。無性であるが、高い知性を持った生命体である以上、どちらかの要素が強く出るのだろう。
しかし、わたしはカントーで撮影されたというこのミュウツーを見て、“彼”だと。そう思ったのである。
それはやはり、おかしな話だ。わたしはミュウツーを知ってはいたが、出会った事も見た事もない。
今初めて、写真で見たのだから。
博士は戸惑うわたしの肩を優しく叩いて、ひとつボールを握らせる。赤い外殻の奥に、こちらを見つめる瞳がふたつ。
期待に揺れる眼差しは、旅の始まりを予感していた。
「キミの瞳は、彼に焦がれているみたいだ。それならボクは、笑顔で送り出さないと!」
プラターヌ博士は、茶目っ気たっぷりにそう言った。
わたしは何も持たない只の凡人で、何処にでも居る様な普通のトレーナーだ。だけれど、本当に恵まれていると強く思う。
ポケットに手を入れれば、わたしを示すトレーナーカードが入っていて、それを見る度に夢のようだと感じるのだ。
わたしは記憶喪失で、なんの過去も無い。
ひとつも繋がりを持たない自分は世界一孤独で、誰も知らない言葉を知るわたしは、それこそ52ヘルツで鳴くホエルオーのようなのかも。
でも、わたしは独りぼっちであるとは、一度も思ったことが無い。そのクジラだって、案外知らなかっただけで仲間が沢山いたのかもなんて、そう思ってすら居る。
この世界と、此処に生きる人間。
そのすべてがわたしは大好きで、ここに居られて良かったと。心の底から、そう思っている。
わたしもその一員で、この世界に生きていて、それが嬉しい。
▽
そうしてわたしの旅は始まった。
ミュウツーは凶暴なポケモンらしい。獰猛で、冷徹で、非道な生き物なんだとか。
だけれど、なんとなく。本当に偏見だったのだが、わたしはそんなポケモンであると思えなかった。
だから、好んで街中には住まないと思った。
ミュウツーは賢いから、無用な争いや無意味な諍いを起こさないためにそうするだろう。それに勝手な偏見だが、華やかな場所よりも、穏やかな場所を好むだろう。
…だけれど、ミアレシティはわたしの好きな街だ。色んな人と様々なポケモンが行き交い、根付き、受け入れられて輝いている。
彼も、この街を好きになってくれると思うのだが。
「どう思う?」と共に旅する相棒に聞けば、困った顔でわたしを見た。そんなの知らんとでも言いたそうである。
人が沢山立ち入る道沿いのチャンピオンロードや、終の洞窟なんかも好まないだろうと思った。
あそこは強いポケモンが沢山いるけれど、それを目当てに人が集まる。そんな場所じゃ、ミュウツーは静かに過ごせない。
彼は強いけれど、争いや諍いを好む訳ではない。暴力的で凶暴なのは、そもそも挑むヤツが居るからそうなっているだけ。
そうだろうと相棒に尋ねる。呆れた顔をする小さな身体は、いつしか耳と尻尾がふさふさになっていた。
ミュウツーはきっと好んで洞窟に身を隠すが、ニンゲンを遠ざける。
確信に近いそれは、全てわたしの直感。なのにどうしてか、直感だけとも思えない。
旅先で出会ったカルムくんは、独自の調査でめぼしいマークを付けていると教えてくれた。
わたしは終の洞窟には居ないと踏んでいるのだが、カルムくんはそうでは無いらしい。次はそこに行って、調査をしてくるとわたしに告げる。その次は、ポケモンの村だと。
ポケモンの村。
それはどんなところだと尋ねれば、彼は快く答えてくれた。森の奥深くにある、人里から離れたポケモンだけの集落なのだと言う。
わたしは直感する。それは如何にも、彼が好みそうだと。
ミュウツーを“彼”と表現した事に、カルムくんは首を傾げた。わたしも自分で、何故そう言ったかが分からない。
ただなんとなく、ミュウツーは彼なのだと思ったのだ。
そこに行くと言えば、カルムくんはエールを送ってくれた。
続けてこうも言う。“ミュウツーと会えたら、図鑑だけ埋めさせて欲しいな”と。彼はミュウツーを熱心に探していたのに、わたしに譲る気のようだった。
たった二年ばかりのわたしの人生は、人の優しさに彩られている。
カルムくんは立派なリザードンを出した。わたしの相棒とハイタッチをして、じゃれている。どうやら、同じ時期に研究所に居た子だったらしい。
名残惜しそうなカメックスの手を引いて、わたしはカルムくんと別れた。全てが終わったら、彼も一緒にまた会いに行こう。
そうして何度も迷いながら、漸くわたしはポケモンの村を訪れた。
深い森の中に、木漏れ日の降り注ぐ美しい草原。揺れる低木の中に、ちいさないのちが走り回っている。
河辺に進めば、滝の奥に洞窟を見つけた。わたしはどうしてか、ここだと思った。
この奥から、誰かがわたしを呼んでいた気がした。
わたしのために、待っているのだと感じた。
思わず一歩踏み出したわたしを、カメックスは短く咎めた。その先は川で、一人では向かえない。
わたしは相棒に感謝して、その背に乗った。水を掻き分けて、流れに抗って、カメックスは悠々と泳ぎ進む。
共に旅をしたのがゼニガメで良かったと、わたしは強く思う。この相棒はきっと、嵐の中でも泳いでくれるだろう。
これが滝壺でなく、吹き荒れる暴風雨の中でも。たとえ鳴り響く雷鳴の下でも。カメックスはわたしを乗せて運んで、彼が居る城まで届けてくれたと思うのだ。
…どうして城だと思うのか、わたしは分からなかったけれど。でも、そんなことはどうだって良いのだろう。
大切なのはきっと、今此処に居て、そう思うこと。カメックスはわたしを乗せて泳ぐことが好きで、わたしも相棒と波乗りが出来て良かったということ。元々のわたしが何者であるとか、きっと関係ないのだ。
ポケモンが好きで、この世界が好きで、それだけでいい。
川を渡って、滝を登って。洞窟に踏み入れて、美しいいきものを見る。
柔らかな日が差す鍾乳洞の中に、淡い紫が佇んでいた。写真越しに冷ややかだと思った瞳は、少しもそうではない。静かな喜びと、親愛が向けられているように思う。
わたしは相棒をボールへと戻した。わたしたちでは決して勝てない強力なポケモンと対峙していたが、カメックスは素直に戻って行った。
ミュウツーに敵意が無いことを、わたしもカメックスも分かっているからだった。
彼は慈しむようにわたしを見る。
紫の瞳が、ヒトとは違う球体の指が、酷く優しく、わたしの頬をさする。ガラス越しなどではなく、確かな温かさがあることを嬉しく思う。
愛おしげな眼差しが、わたしを擁護する。
“答えは得られたか“
彼は────ミュウツーは、わたしにそう尋ねた。
わたしはその問いの意味を理解しなかったが、静かに頷く。ミュウツーはそれを満足そうに見て、洞窟の外へと歩き出した。
彼に比べたら、わたしに強いところなど何も無い。ただの弱いだけの下等生物では無いのか。
抱いた疑問も、優しい瞳に絆されてしまえば消えるばかり。彼はわたしを肯定しているのだと感じる。
わたしは彼の背中を追って、来た道を戻った。
ただ道を戻っているだけなのに、その一歩一歩には強い意味があるように感じる。今まで歩いて来た道のりを、記憶を辿るような、そんな隠喩を。
光の中に、緑が広がる。やはり世界は美しくて、夢のようだと思った。やさしく吹く風は、わたしたちの背中を押している。
わたしはこのポケモンを知らない。名前と姿しか分からない。だけれどわたしも彼も、互いを待っていた。それだけで良いのだと、なんとなく思った。
居場所など無いわたしも、唯一ではない彼も。此処にある。此処に在るのだ。
それだけが全てだと、どうしてか思った。
頷いて手を取れば、かのポケモンは一層慈しむように見つめ返す。わたしの歩いた旅路を労わるように、酷くやさしく手を握った。
わたしはそれを嬉しく思う。わたしたちは生まれも姿も違うけれど、互いを愛しく思っている。
あなたが此処にいることを。その手を取って歩けることを。わたしはなにより、素敵だと思うのだ。
▽
ミュウツーを逃した罪で組織を追われたわたしは、隠れるようにいろんな地方を転々とした。
裏切り者は許されない。ボスこそ居なくなったものの、幹部の男は酷くわたしを恨んでいるようだった。
それもそうである。ミュウツーさえ居れば、ただの少年に負けるはずも無かったのだから。
だが、そんなのは知ったことではない。
わたしはミュウツーを逃すべきだと思ったし、彼の問いへ答えをくれる誰かと出会うべきだと思った。
─────わたしではダメなのだ。
それは、彼を想ってしまっているから。それを彼も分かっている。
だから何を言っても、口先だけの甘い言葉だとわたしは思ってしまう。そんな汚い感情を、ミュウツーに読み取られてしまう。わたしでは、彼の心に影を落とすだけだ。
ミュウツーがミュウから生まれただとか、ミュウツーは彼一人で無いとか、そんなの、わたしにとってどうでもいい。
彼は、彼だけだ。たったひとつの、此処に在る命なのだ。
わたしがそう泣き叫んで告げようと、ミュウツーには響かなかっただろう。わたしにはそれが分かっていた。
だから、それを伝えてくれる誰かが。彼に教えてくれる誰かが、わたしの愛するポケモンには必要だった。
そんな他力本願の勝手過ぎる願い。それは運良く、思惑通りに運ばれたようだった。
水槽の中の恋人は自由に空を飛び回って、遥か上空から小さないのちを見つけたらしい。
そうして生命の在り方に命題なんか無いと突き止めて、わたしの元へとやって来たのだった。そこに在るだけで良いのだと、彼は知ったのだった。
「それで、答えは得られたの?」
微笑み問いかける視線に彼は頷いて、わたしの目尻をなぞった。エスパーなんかでは無かったが、彼が何をしようとしているか理解に及んだ。
何故、自由の身を得て尚わたしに会いに来たかも。全てを理解して、わたしは微笑む。
ミュウツーもまた、穏やかに目を細めた。額に当てられた指は、温かい。
─────私も貴方も、此処で生きる生命なのだ。
そう伝えてやれば、彼は笑った風に感じた。
“もっと早く、それを聞きたかったものだ”
他人から与えられた答えで、満足出来るはずが無いだろう。わたしたちは自分が納得できなければ、何を言われようと揺らげない。
世界に対して悲観的過ぎたから────この世界を、悲しく思い、憎くも思っていたから。愛するキミの言葉すら、届く事はないのだ。
わたしたちは、そういう面倒くさい命のかたちをしている。だからこそ通じ合うものがあったのだけれど。
ミュウツーはすべすべとした指でなぞって、慈しむように手を取る。そうしてみっつの指で柔く握ると、真っ直ぐにわたしを見た。
“オマエも、私も、この世界に生きている”
そうだねと返せば、彼は哀しげに揺れた。
きっとミュウツーは理解している。彼が此処で作られた生命に苦心したように、わたしが此処ではない何処かで産まれた生命に苦心していることも。
その救いは、この世界で産み落とされた彼が与えられるものではないと。
わたしがわたしである限り、自分という人間のルーツを知っている限り、一生それに苛まれ続ける。
彼はただひとつの唯一であることを望んだが、わたしはみんなと同じが良かったのだ。貴方と同じ世界に生まれた、同じ命が良かったのだ。
彼は優しい。彼自身の、わたしに抱く情などを無視して、わたしのために此処に来た。
わたしという記憶を、わたしのデータをリセットして、わたしがこの世界で一人にならないために。
それを甘んじて受け入れようとするわたしを、ミュウツーはどう思うのだろう。
やはり人間は醜いと、愚かな生き物だと思うだろうか。
きっともう二度と会わないのだろう。わたしが彼を思い出すことも、彼がわたしを気にかけることも、無くなる。
それを望んでいるのは自分であるのに、どうしてか心が痛い。
それを惜しいと思う前に、哀しげな瞳がこちらを見据えて、頭が、少しずつ、白んで─────。
わたしが自分を失う直前。
哀しさだけでは無い瞳が、優しく揺れる。次はおまえが見つける番だ、と。
触れた手は、暖かい血潮が通っている。
彼は、手を放す気など無かったのだ。ただ、わたしと同じように、わたしの答えを待っている。
共に歩ける日を、待っている。