「あなたはプレゼントを貰った事があるか?」
唐突に投げ付けられた質問に、わたしは酷く困惑した。
その問い掛けをしたのは村雨礼二さん────真っ当な医者であり、本人に言えば「私はギャンブラーでは無い」とでも言うのだろうが、真っ当ではない違法ギャンブラーでもある男だった。
そんな彼からの“プレゼントを貰った事があるか”という問いに、わたしは頭を悩ます。要領を得ない質問だったからである。
それは家族から?友人から?まさか、人生全体で尋ねている訳でも無いだろう。
いやでも、このお医者さん。箱入りのお坊ちゃんなのか、著しく一般家庭の感性から掛け離れてるところあるからな────!
「…ええっと、誰から?」
わたしは悩んで、無難な返答をする。
その返しに村雨さんは機嫌を損ねたらしい。“当然の事を聞くな“と言わんばかりに顔をしかめて、ハンバーガー屋の希釈倍率が低いオレンジジュースを啜った。
激安賃貸のペラペラの座布団の上に、スーツ姿の品の良い男が座っているのはそれだけで若干怪しい光景である。わたしは居心地が悪くて、自分のポテトを齧った。
突然召集を掛けられて、集合場所に教えた記憶の無い自宅を指定されて、手土産としてハンバーガーを手に登場した村雨礼二を生涯忘れることは無いだろう。
確かにわたしはジャンクフードがそれなりに好きだが、村雨さんがそれを持って現れることを望んでいた訳ではない。
今日のお昼はハンバーガーを食べよう!と考えていたとしても、先読みされて持参されたら人は怯えるものである。
“あなたは何時どこで顔を合わせても、これを目で追っている。ならば先んじて与えれば、どうなるか。少し興味があった“
…とのこと。村雨さんは非常に人間観察が上手い男であるが、私生活でまで分析されているのは気まずい。それがジャンクフード食べたいという、非常に動物的な嗜好であることも含めてだ。
そういう経緯もあって、わたしは初手から酷く狼狽していたことを付け加えておこう。
因みに、この情報もわたしが飲んでいるコーラも無料である。それは村雨さんの奢りだからだ。
加えて言うならば、ハンバーガーは安価な大手チェーン店のものでなく、ジャンクフードのような顔で販売しているレストラン系の店のものだった。
そういうところが“成分のわからない物は口にしない”と日頃から断言している村雨さんっぽい。
「質問に質問を返すなマヌケ。主語を定めていないのだから、全体に決まっているだろう」
脱線した思考が帰って来る。村雨さんは口角を下げて、片眉を上げている。いつもの文句がある時の表情だった。
そんな彼がジャンクフードを食べる所など今迄見たことがなかったのだが、最近出来たらしい友人(本人は否定するだろうが)の趣味だろうと踏んでいる。
彼はわたしがハンバーガーを好きだからと言って、自身が食した事もないジャンクフードを持参するような男ではないからだ。
友人経緯で、食べる機会に恵まれた。わたしが食べたそうだった。だから持って来た。それ以外に推理出来る線は無い。
わたしは一度冷静になろうと、ナゲットを摘んで口に入れる。
おいしい!村雨さんが二択ソースでわたしが好きな方を買って来たのはやっぱりちょっとキモかったけど、おいしい!
もう一個…と指を伸ばしたところで、片手にバーガー、片手にジュースの食いしん坊スタイルとなっている村雨さんと目が合った。
「食べさせろ」
食べさせろではないが。
わたしは村雨礼二の家族構成を聞いた事は無かったが、上に姉…いや、兄が居るのだろうなと推測している。こいつの挙動の端々に、ワガママ次男ボーイの気配を感じるからだ。
此方にソースをディップさせて、口元までナゲットを運んでもらって、当然のように咀嚼する男。じっとわたしを見てきて、もう一個と言いたげに咀嚼を続ける男。ナゲットを摘んで差し出せば、満足気に口を開ける男。
村雨さんの口の端と歯が、わたしの指に当たる。ビックリするわたしをよそに、彼はそのまま構わずナゲットを食んで持って行った。憶測を見誤るなと軽く睨めば、彼方が鼻で笑ってくる。
「横で持つ方が悪いだろう、マヌケ。人の手から落とさず食べようとすれば、歯が当たるのは当然のことだ」
「行儀悪いですよ… 人の指まで食べて…」
「知っているか? ナゲットのソースをポテトに付けても、行儀が悪いとは見なされない。人に運ばせた程度で、品性を損ねるような食べ物ではないということだ」
コイツ、ぜったい身内に甘やかされている!
兄弟か或いは最近出来たおともだちか。今迄も村雨さんとわたしはまあまあつるんできたが、ここまで露骨に甘えた姿を見せられた事は無い。
知らない誰かが村雨礼二を甘やかし、甘えを進化させた。そうとしか考えられなかった。
「村雨さん、他のおともだちにもこういうことをさせましたか?」
こういうことと言うのは、人をアゴで使うムーブである。
それを許すやつがわたし以外にも居るから、こうして偏屈で態度のデカい先生は許される限りどんどん大胆な行動というか、尊大になっていくのだ。
そう聞かれた村雨さんは、酷く機嫌を損ねたようで口の端を下げた。イーってしている。
「気持ちの悪いことを言うな。私があなた以外に食事を口まで運ばせる訳が無いだろう」
「でも、仲良いおともだち居ますよね。料理が得意な人かな? その人に、普段食べさせて貰ってるんじゃないんですか?」
彼の新しく出来た友人に、料理が得意な人が居るのはまず間違いない。そしてそれはハンバーガーを彼に食べさせた人物ではない。裏付けとなる理由はある。村雨さんは長らくわたしを連れ回して食事をしたりなんなりしていたが、その頻度が落ちたことだ。
では外食を繰り返しているのか?といえば、それは違う。明らかに健康状態が良さそうになったからである。
「食べさせて貰ってはいない。作らせてはいる」
ビンゴだったらしい。しかし、言い草が酷い。わたしは若干相手のことを哀れに思いつつも質問を続ける。
「へえ。料理が得意で、都合を合わせてくれて、おまけにリクエストも聞いてくれる。やさしいですね」
「マヌケの中ではマシというだけだ」
「好ましく思っているんですよね。 村雨さん、好きでもない相手とご飯食べたりとかする感じじゃないし」
「好ましくない相手と食事などする訳がないだろう。あなたはそんなことも分からないのか?」
村雨さんは心底不快だと言った顔をした。わたしはその意図を汲めなかったが、彼の機嫌が突然落下し文句を言ってくることなど割といつものことである。
適当に流してハンバーガーを食めば、今後は村雨さんが質問を投げ掛けた。
「…ところで。あなたは随分この話題に食い下がるな。気になるのか? 私の交友関係が」
気になるかどうか。どちらかと言えばそう。イエスだ。
わたしは頷いて、話を続ける。答え合わせをするためだ。
村雨礼二という人間は、それなりに上品な舌をしている。今迄の食事傾向を鑑みると、味覚が良い部類であるのも分かっていた。
その時点で、餌付けをしているヤツが料理上手なのは明白。
そして彼は医者────勤務医なので多忙。どういう理由かまでは分からないが、相手は都合を付けてくれる。この時点でかなり甘いというのに、“村雨さんが久々に会ったわたしを肉屋に連れて行かない”。…ということは、好物を直近で食べている。
料理上手な誰かさんに、焼いて貰っていると考えるのが自然だ。
ダメ押しにもう一つ理由を付けるならば、ハンバーガーを買って来たこと。今までもわたしの好物を知っていただろうに、自身の食べたいモノより優先することはなかった。
つまり現在、高頻度で好きなモノを食べていると考えるのが妥当だろう。
わたしの推理を静かに聞いていた村雨さんは「そうか」と一言。なにに対してか知らないが、何か納得したらしい。
「…どうやら、あなたは嫉妬をしている訳ではないらしい。私があなたと食事をする頻度を減らしたから、不満を感じているのかと推測したのだが」
「え? 別に。寧ろ村雨さん、少し健康そうになりましたよね。良いことだと思います」
よ。その言葉は発される事なく消えた。村雨さんがわたしの口に指を突っ込んだからである。
突然何をと思ったが、眉間の皺から若干の不服が感じ取れる。なにか気に触ることを言ったらしい。
親指と中指が舌を引っ掴んで、人差し指が舌の上を撫でる。
口をわざわざ開かせた村雨礼二は、空いた手でナゲットを人の口に放り込んだ。指がスルスルと引いて行って、わたしの口内にはナゲットだけが残る。
村雨さんは引き抜いた指をウェットティッシュで拭いて、もう一つナゲットを掴んで食べた。急に人の口に指を突っ込む癖に、衛生観念はしっかりしている。
「あなたの健康状態は悪くなったようだな。私が居ない間、何を食べていた?」
「ええっと、カップ麺とかですかね…?」
「バランスの良い食事をしろ、マヌケ。だが、私は思いやりに目覚めたからな。
あなたが私の健康状態を気に留め、喜んでいるのが理解できる。許そう、悪くない」
自分もおともだちが居なければ肉とお菓子ばっかり食べてる癖に…とわたしは思ったが、こちらの食生活が怪しいことは事実だった。
なんだか少しご機嫌そうに鼻を鳴らした村雨さんは、此方をじっと見ている。わたしは大人しく問診を聞き入れ、村雨さんの栄養状態を整えた“マヌケ”について思考を巡らせた。
村雨さんはかなり偏屈で言い草も酷いのだが、それと私生活でも関わろうと考えるくらいなのだから、余程の頭おか…変わったお方であるとか、もしくはわたしのように流されやすいタイプなのだろう。
まあギャンブラーなんかやってる時点で頭おかしいか!
わたしはそう思ったので、考えを切り上げる。そしてハンバーガーを一個ならず二個食いしている食いしん坊先生に目を向けた。
この人思ったより飯食うんだよな…とわたしはいつも感心している。
「それで、どうなんだ。あなたはプレゼントを貰った事があるのか?」
質問が再び投げ付けられる。こちらとしては理解不能だが、村雨さんにとって重要な話題らしい。蒸し返されて帰って来た。
わたしも再び「何故…?」と非常に困惑したのだが、良い加減に答えないと村雨さんにディスられてしまうだろう。
「ありますけど…」
「では、それはなんだ。あなたは何を貰った? そして、何を考えた? 話してみろ」
なにゆえプレゼントの話がこんな尋問じみた問いかけになるのか。
わたしは頭が痛むのを感じたが、素直に答える。適当に誤魔化しても良いのだが、特にそうする理由も無かったからだ。
「直近で言えば、これですかね」
ハンバーガーを指差す。パティが二枚挟まっていて嬉しい。
しかし彼に自分がダブルを頼む派だと話した記憶は無く、季節限定メニューを選ぶ派だということも言った記憶がない。
それはこの世で最も無意味だったかもしれない”診断“によってジャッジされた結果なのだろう。
暗にハンバーガーが贈り物であると、そう告げられた村雨さんは首を傾げる。そして異論がありそうな顔で眉根を寄せた。
「これをプレゼントとするのは些か不服だな。代金を支払え」
なんだこいつ。
わたしの怪訝な顔を見るまでもなく、困惑の気持ちを心拍やら何やらで彼は感じ取ったのだろう。村雨さんはわたしと同じく、眉間に皺を寄せて言った。
視線は交わり、困惑する大人が賃貸のボロアパートで二人向かい合っている。
「不満があるのか。しかし、私も不服だ。
このような物をプレゼントとして選び、あなたに贈ったと思われるのは困る」
「え、ええ…普通に、嬉しいけど…」
普通に嬉しいけど、なにも言っていないのにハンバーガーを手に突然訪問して、丁度食べたいと思っていたメニューをピンポイントで買って来たのは正直キモかった。
わたしはそれを伏せて、“うれしい”とだけ発言する。
「ハンバーガー、好きですし。村雨さんも、わたしが好きかもって思ったから買って来てくれたんですよね?」
「当たり前だ。あなたの好物を知っているのに、わざわざ他のモノを選ぶ理由が無い。
逆に尋ねるが…あなたはアレルギーや好みを完全に理解していない相手に、リスクを犯してまで別の食品を与えるか? 与えないだろう。それが正常な判断だ」
わたしがジャンクフードを好むことを、彼は確信していたらしい。その上で買って来たというのに、代金を支払えと言うのか。
彼の支離滅裂な言動の意図を探そうと、わたしは村雨さんを注視する。あちらもわたしを真っ直ぐに見てくるため、視線が交差して一方的に気まずくなった。
「しかし、ある程度はあなたの好みを理解をしているが、完全な診断とは程遠い。今後も共に食事へ向かい、様々な料理を食すあなたの様子を眺める必要がある」
そんな食わず嫌い王決定戦みたいなことを勝手に開催していたの?
「聞いてくれたら答えるのに…」
「マヌケめ。人間は自身すらも理解しないところで心に嘘を吐く。実際に目の前で食べさせた方が、正しく診断出来るに決まっているだろう」
もうツッコミどころが多過ぎて頭が破壊されそうだった。
村雨さんは大真面目に天然ボケのきらいがあり、わたしは彼になにを言うか、どこを指摘するべきかを悩んで閉口する。もう好きにさせておこうという達観がそこにはあった。
頭を悩ますわたしを、やっぱりどこかご機嫌で見ていた村雨さんは、ハンバーガーの包み紙を几帳面に折り畳んだ。
そして座布団から立ち上がって、わたしに手のひらを向ける。ここで指差しなどはしないのが、彼のお坊ちゃんらしいところである。
「それに、だ」
ご機嫌で、軽やかな語り口だった。
「プレゼントであれば、もっと相応しいモノをくれてやる」
プレゼントを送ろうと突然思い立ったのも、“マヌケども“の影響なのだろう。
わたしは「別に良いのに」とは思いつつも、何をくれるんだろう?と推測を立てたくなった。
少し考えてみるが、思い付かない。─────もっと細やかな推理をするには、彼という人物像を思い出す必要があるだろう。
▽
村雨礼二との出逢いは4リンクである。四体満足のフォーリンク。
よく考えずとも、村雨礼二は4リンクに居てはいけないギャンブラーだ。ハーフライフから下がって来るにしたって、もっとマシなのが居た筈。
そう思うくらい村雨礼二という男は強く、わたしが出会った中では最悪のカードだった。
結論から言えば、実際わたしは本当にアホみてえなハズレカスくじを引いていて、「こんなボコボコにされることある?」と若干笑えて来るほどの負け方をした。
その時のゲームが、変な所で思い切りのあるわたしにとって不利な内容だったのもいけなかったとは思うのだが、まあなんのゲームで対面したとて負けていただろう。それくらい圧倒的な実力差があった。
ゲーム内容は単純明快。利き腕じゃない方の指に五枚鉄板を置いて、交互に刃を一本振り下ろす。
鉄板は一度や二度じゃ壊れないけど、同じ物を何度も叩けば破損し、最終的には指が剥き出しに。それを毎ターン任意で配置を入れ替えるというルールだった。
勝利条件も単純。
指定されたセットを終えた時、より多くの鉄板を壊していた方が勝ちというだけである。
当然だが、鉄板が割れれば割れるほど“失いたくない指、或いはまだ残っている指に割れていない鉄板を置く”ので、読み勝ちし易くなる。────相手がまともな人間であれば、だが。
「どうした。早く選べ」
わたしは酷く困惑する。
あちらは既に指が三本剥き出しになっている。対するこちらの鉄板は五枚全て健在だったけれど、その全てにヒビが入って今にも割れそうであった。
ルールは単純だったが、ゲームはそう簡単ではない。
鉄板や刃にはそれぞれ個体差があって、適切な刃で効率良く叩けば鉄板はすぐに割れる。同じターン数でも此処まで損害が変わるのかと、わたしは少し感心すらしていた。
では何故困っているかと言えば、それは────。
「なにを選択しようと、あなたの勝利は揺るがない。好きに選べば良いだろう。
何故なら、私がそうするからだ」
─────対戦相手に、勝つ気が無いから。
わたしが読み勝っているから、村雨礼二の指が三本露出しているわけではない。コチラが読み負けて完封されているから、彼の鉄板が順に壊れているのである。
わたしに出来ることと言えば、せめてもの足掻きで無駄話をすることと、指を切断されないよう均等に鉄板を叩かせることくらいだった。
このゲームでは、破壊した鉄板以外に点数は付かない。指を切断しようと思えば出来るが、そうしても加点はされない。つまり、狙う意味がないのだ。
ただし指を狙うフリは無意味ではない。指を狙えば相手は焦るもので、まだ失ってもマシな指────小指なんかの鉄板をナシにして、他の指へと鉄板を分配する。そうなると単純に狙いたい鉄板を叩ける確率が上がるわけだから、有利に読み合いが出来るというわけだ。
…まあ。このゲームでは全く無意味な情報なのだが。
わたしは渋い顔で対戦相手を見た。彼は涼しげに座っており、此方を大して気にしていない様子である。
残金を減らすだけなら、何某かの権利を買って下げればいいと言うのに。よほど急激に残金を失い、ランクを下げたい理由があったのだろう。
内情は知らずとも、なんらかの目的を持ってこのバケモノが上から降りて来たのはわたしにも理解に及ぶ。
「下げランですか。そういうの、良くないですよ」
ただそれを肯定するとかは断じてなく「迷惑ゥ〜!」という気持ちであったが。
反感の意を示せば、あちらは馬鹿にして嘲笑するだろうか。或いは、無駄な怒りだと呆れるか。さてどちらだと冷静に眺めるわたしを見返すのは、少し心外そうな顔であった。
「私にも分かる言葉を話せ。何が悪い?」
わたしは面食らう。ランクを故意に下げる行為を咎めたというのに、相手に通じていない。そこまでは良いが、意味をなぜか直接聞いて来た。
随分マイペースな人だな…とわたしは困惑する。
「ええっと。故意にランクを下げること、かな。
貴方はちょっと、此処に居たら困る強さの人みたいだし… せめてハーフライフに帰ったらどうですか?」
「自分の弱さを他責にするな。…だが、その指摘は正しい。あなたを勝たせた後で、検討することにしよう」
思ったより素直でわたしは驚く。こんなに偏屈そうで頑固そうだと言うのに、こちらの忠言を聞き入れたからだ。
「やりづらいなあ」と苦笑して、ゲームを続ける。お喋りしたところで遅延にしかならないからだ。
わたしが負けるのは分かっていたし、運悪くこのゲームには降参がない。あとは黙々と、ゲームセットまで最善を選択し続けるだけだ。
わたしは元々、表情を表に出しやすいタイプであるし、あちらは“診断”と称して訳の分からない予想を一点読みで一生当てて来る。
あんまりにも当てられ過ぎるものだから、終盤はもはや面白くなって来て爆笑していた。
「気が狂ったかと思ったが…そうではないらしい。あなたは何故、笑っている?」
もう可笑しくて仕方がないわたしに、村雨礼二は関心を抱いたようである。
彼はギャンブルの意図を全て読むのに、こちらの心は分からないようだった。それもなんだか面白くて、わたしは微笑みながら返した。
「だって、何しても読まれるんだよ。笑わない方が無理じゃないですか?」
村雨礼二はじっと此方を見て、そうして診断を下した。
「…その言葉に偽りはない。あなたの心拍は正常で、発汗も無い。何かを隠している様子も見られず、平静そのものだ。
非常に不可解かつ理解に苦しむが、嘘は言っていないらしい」
嘘を吐く理由がないのに、無駄に騙してなんの意味があると言うのか。
まあこれはなんでもありのギャンブル。口八丁で混乱をさせた方がゲームが有利になるのは事実なのだが、わたしは推理の一点だけでこの賭場を渡って来た。
今更騙して出し抜こうなんて気にもなれず、ただ負けを受け入れるだけである。
「ここまでやられると、自信無くなっちゃいますよ。引退したら、闇ダーツの代打にでもなろうかな」
「止めておけ。あなたにこういったゲームは向かない。身の丈にあった暮らしをするのが賢明だな」
ぼやきすらも完封される。お手上げであった。
わたしは淡々と次の手を選択し、あちらも表情を変えず選択をする。少しくらいは足掻こうと奇策を用いて見ても、それすら読まれて利用されるだけ。
消化試合を淡々と行う最中、不意に村雨さんはこちらをじっと見る。彼に視線を合わせると、それを待っていたように口を開いた。
「そもそもあなたは何故こんなことをしている?」
こんなこと。それはこの違法賭博のことか。
村雨さんの口振りは、わたしがこの場に似付かないと言外に語っていた。
「楽しんでいる様子はなく、金やモノを欲するような人間でもない。
あなたから読み取れるのは義務感だけだ。こんな場所に、なんの責任が?」
怪訝そうな声である。それが心底不理解でならないと、渋い表情と態度が示していた。
わたしは特に隠しておく理由もないので、素直に話す。
「あー。仕事なんですよ、これ」
「…なんだと?」
わたしはそもそもギャンブラーではない。調査サービス業────格好良く言えば、探偵である。
たまたま依頼が“行方不明になった家族を探して欲しい”というもので、調べている内にカラス銀行に辿り着いたというだけ。
そして尋ね人が人身売買されたことを突き止めたが、現在の残高では購入出来ない。仕方ないので、4リンクに上がるまで数戦やっていたというのが事の発端である。
正直こんなイかれた状況、蹴るべきだっただろう。
だが前払いでお金貰ってしまったし、時給だし、依頼者は子供だったし。
わたしは既に貧乏くじを引いていたが、そのくじを返却はしなかった。お父さんを連れ戻して来ると、指切りしてしまったからである。
「軽率に指切りをした結果、本当に切ることになるとは思いませんでしたけどね!」
ケラケラ笑うわたしを、彼は静かに見つめる。
此方を品定めするような視線だったが、その目は少しだけ────ほんの少しだけ、怒りに燃えるような。そんな赤色だった。
「あなたは他者の為に不要なリスクを背負い、指を落とし、私に勝利した金でマヌケを買うのか」
わたしは頷く。幸いにも村雨さんは勝つ気が無かったし、彼とのマッチは賭け金が大きい。
この勝負が終われば、問題なくそれを実行出来るだろう。
そう伝えれば、村雨さんは無表情を向けた。
わたしの行為の無意味さ────いや、愚かさ。その行動の無益さをよく知っているとでも言うような、冷ややかな眼差しである。
「一時的に借金を肩代わりしたところで、そのマヌケが返済をすることはない。
差し押さえられるようなヤツは、その時点で無能を証明している。彼らがあなたの行為に報いる事は無い」
凍えるような視線であるのに、彼の語り口には敵意が無い。これは害意ではなく、警告だった。
わたしはその意図を探り、恐らく”心配されている“という推測を打ち立てる。
おかしな話であるが、それ以外に読み取れる心情は無い。自分でもどうだろうかとは思いつつも、その前提で話を切り出す。
「気持ちは嬉しいんですけど… 返されなくても良いと思ってるので、大丈夫ですよ。
勿論、返済されたら返済されたで嬉しいですけど」
村雨さんは一つ勘違いをしている。わたしは返して欲しいから買うのではない。
「わたしの目的は人探しですからね」
「…そうか。とんだ笑い話だな」
そうこうしている内に、最後の順番が回ってくる。わたしは四枚の鉄板を割り終えていたので、あちらが後攻で一発振り下ろせばゲームセットだった。
「では、終わらせるとしよう」
村雨さんはつまらなそうに座っている。わたしの返答が気に食わないものだったらしい。
此方は未だ選択をして居なかったのだが、村雨さんが指を切断してくるのは確定事項だ。
だってこのターンでわたしの指を落とさなければ、特別ルールが実行される。それは最終ターンに両者の指が全部揃っていたら、双方の指の上に五本の刃が落ちてくるというものだ。
そうなればこちらの半壊した鉄板は全て割れ、この勝負はわたしの負けとなる。彼はご丁寧に、こちらの鉄板を均等に叩いていたからだ。
負けたい村雨さんは絶対にそれを選ばないだろう。指も当然、落とされたくないだろうし。
そう思うと、最後に一つ尋ねたいことが生まれてくる。わたしはそれを聞こうと、軽やかに口を開いた。
「切断するなら、何処がオススメですか?」
「…なに?」
村雨礼二はここで初めて、酷く困惑した顔を見せる。試合に負けて、勝負に勝った気分である。実際には、わたしが勝たされているのだが。
「どうせ指を切断されるなら、そちらに選ぶ権利があると思いません?」
これはわたしの本心だ。彼が勝っているのだから、好きな指を落とせば良い。
「無意味な質問だ。あなたがそれを聞かずとも、私は好きな指を選んで落とせる」
「それは、わたしが鉄板を置かなかった指からですよね」
わたしの鉄板は残り枚数があった。指の上に置けば、その指は守れる。だから村雨さんが狙って落とせるのは、鉄板を置かれなかった指だけだ。
しかしそれでは────彼が勝った感じが出ないだろう。わたしは負けたのだから、せめて勝者に誠意を持って敗北すべきだと考えている。
そう告げたわたしに、村雨さんは少し困った顔をした。口ではああ言っていたが、実は指の切断に乗り気では無かったのかもしれない。それをわたしが焚き付けてしまったから、今考えているのかも。
彼は言動から察するに、どうやら本当にお医者さんのようだったし、無意味な外傷を与えるのは本意で無かった? …まあ今更、考えても仕方のないことである。どうせ指は落ちるのだから。
じっと彼を見れば、答えが出たらしい。既に戸惑いはなく、あちらもまた涼しげにわたしを見ていた。
「…薬指だ。薬指の、付け根が良いだろう。あなたは一度指を切断することになるが… そこであれば、都合が良い」
「分かりました。そうしましょう」
都合が良いという言葉に引っ掛かりつつも、わたしは鉄板をセットした。薬指はガラ空きで、守るものがない。…というか、鉄板を一枚もセットしなかった。
このゲームは鉄板を並べて置けると説明されていたが、“必ず置かなくてはならない訳ではない“。
実の所、これは自身の指を度外視すれば誰でも勝てるゲームなのだ。そもそも読み合いの勝負ではなく、血を流させる為の道楽────リーチの人間が痛みに喚き、涙を流しながら指を切り捨てる姿を見せる為のゲームなのだから。
だが、その情報を自分だけが有利に使うのはフェアではないと思っていたし、相手に教えて指をわざわざ落とすように誘導する趣味もない。
だからこの抜け道を使う予定は自他共に無かったのだが…まあ、やむなしである。大人しく治療費を支払って、指を綺麗に繋げて貰おうという気持ちだった。
「おー、怖。ぜったい痛いですよ、これ…」
仰々しい音がして、指の上に刃が振り下ろされる。思わず涙目で機械を見れば、その奥で静かな赤がわたしを見ていた。
宣言通りに指を落とす一撃で、わたしの申告通りに薬指に刃が通って行く。
「なるほど。あなたはマヌケだが、誠実さがある」
切断される瞬間に見たのは、村雨礼二の微笑みであった。飛び散る鮮血の奥で、血よりも目を惹く赤い瞳が弧を描く。
「私に一度も嘘を吐かなかったこと─────それは、評価してやろう」
▽
それが村雨礼二さんとの出会いだ。
しかし内心引くほど村雨さんが強いものだから、試合中に「あっ、向いてないな」と思ったのである。諦めが早く潔いのがわたしの美点であり欠点だ。
そしてそれはそのままギャンブルを辞めるキッカケにもなったため、彼を恨んでいるとかは別に無い。
何処にでも居るふつうの、浮気調査が上手い女。それがわたしで、もはや村雨礼二とは関わりが無い筈だったのだが。
わたしはゲームで敗北した際、薬指を切断されて切断した当人に縫合されている。何を言っているか分からないと思うのだが、一度切断されて縫合されているのだ。
村雨礼二は何をトチ狂ったか、切断されたわたしの指を直々に縫合すると宣ったのである。
びっくりして痛みを忘れるわたしに、彼はこう言った。
「私の趣味は手術だ。問題ない」
そういうことじゃなくってね。
ツッコミどころしか無かったが、揉めてる間にも血は流れている。放置時間が長いほど、指は深刻なダメージを受けるだろう。わたしは文句を言わずに再接着をされ、薬指を取り戻した。
余談であるが、麻酔を打たれて「痛ァ…」と涙目になるわたしを村雨礼二は笑顔で見ていた。ひどい。
そしてその後はもっと不可解。怪我の予後を見るという名目で、わたしは彼の勤める病院に予約を入れられていた。
あんた形成外科医じゃないだろ!というツッコミは押し留めた。なにか謎の強大な力が働いているのが分かったので、抗議するだけ無駄だと感じたからだ。
「そんな怪我どうしたんですか?」と聞く看護師に、まさか「こいつがやりました!」と担当医になっていた村雨先生を指差しする訳も行かない。
適当な愛想笑いで誤魔化し、こうしてズルズル人間関係を構築したというのが事の顛末だった。
余談であるが、村雨さんは違法カジノで闇賭博をしているアウトローの癖に、業務に対して非常に誠実で真面目である。
例えば、病院内で連絡先を交換するだとか。保険証に明記された保険者所在地に連絡が来るだとか。そういった職権濫用行為は一切行われていない。
後日わたしの職場の事務所のポストに連絡先と、丁寧な食事の誘いが投函されていたのである。これはインターネットにも掲載している情報なので、コンタクトとしては一番自然かつ常識的な範囲であった。
しかしそれを見たわたしが、罠とか殺害計画の一端かどうかとかを疑ったのは仕方のない話だろう。…普通に考えて、指を巡ってデスゲームをした相手と飯食おう!とはならないからである。
話を戻そう。わたしを勝たせた村雨さんは、その後は真面目に試合をしていた。…のだが、結局残高不足でもう何戦か4リンクに滞在してしまったらしい。
彼と当たった適正帯の者には心底同情する。こんな人、あんな低ランク帯に居てはいけない。
しかし初心者狩りにも等しい行為を何度か行った村雨さんにはバチが当たった。普通に強いヤツを引いて仲良く罰ゲームを貰い、自分は鼓膜をやられたそう。
お見舞いに呼ばれて自宅に行ったら、ムッスとした顔で出迎えられたのは記憶に新しい。…本人は「トータルで見れば私が勝っていた」と仰っており、非常に不服そうなのも見て取れた。
自宅に帰っては来れたものの、満身創痍でご機嫌もナナメな村雨さんに「フォーリンクで良かったじゃないですか」と言えば「あなたの声が聞こえない」とより一層むくれてしまった。
それは自業自得である。嫌ならとっととギャンブルを止めるんだな!とわたしは思ったが、怪我人を鞭打つのも可哀想なので、予め用意していたスケッチブックに文字を書き連ねていった。ギャンブルやめろ、と。
これは後で知った話だが、村雨さんは耳聞こえなくても話が大体分かっていたらしい。
「あなたの笑い声も分からないな」と拗ねる村雨さんはちょっと可愛かったのだが、それはちょっと気持ち悪い。かわいさとキモさを差し引きしてプラマイゼロであった。
以上。それが、わたしから見た村雨礼二。
当人が診断と称する人間観察は非常に正確であるが、変なところでムキになるし、一度拗ねると暫く根に持つ。
マイペースかつ偏屈だが、育ちの良さからか妙に素直なところがあり、他者へ向ける好意が分かりやすい人物である。
▽
話を現在に戻そう。
そんな彼が、わたしにプレゼントをくれると言っている。────なぜ?なにを?突然どうした? 色々言いたい事はあったが、その根底に“マヌケども”があるのは間違いない。
彼は交友関係によってアクションを触発され、結果このような事態になっている。それは恐らく確定事項だと推察された。
わたしは早々にプレゼントを推理することを諦める。
このエキセントリックな先生の、腹の中を暴く事は不可能だと直感したからだ。
「プレゼントをするのであれば、関係性に併せてそれ相応のモノを選択すべきだ。
…当然、ハンバーガーなどは相応しくない。一瞬で消費出来て、軽過ぎる」
ハンバーガーはプレゼントに相応しく無いと思ったから代金を請求したのか。
わたしは先程の行動を理解する。理解して、そうはならないだろ…と率直に思った。
そして軽過ぎるもなにも、重いモノを貰う理由が無い。というか、村雨さんが此方を慮って選んで来てくれたのだから、軽いとか重いとかどうでも良いのだが。
それを伝えれば、村雨さんは「コチラは気にするという話だ。マヌケめ」と口を尖らせた。
「あなたは呪物が欲しいか?」
呪物。呪物ってなんだ。呪術?漫画の話でもしてるの?
わたしは混乱する。次から次へと理解に及ばない発言をマイペースに畳み掛けられるので、困ってしまう。
縋るように村雨さんを見れば、そんなマヌケを彼は鼻で笑った。
「要らないだろう。花を愛でるような乙女であるなら、ギャンブルになど勤しまない」
今さらっと花を呪物って言ったぞ。
何をどう思って花を呪物と言ったか分からないが、村雨さんは生花をプレゼントには不適切と考えているらしい。
確かに、それにはわたしも概ね同意である。花は好きだし嬉しいけれど、枯れてしまう。貰ったら最後まで大切にするし、くれた人のことを毎日思い出すが、無くなってしまった時は少し落ち込む。
そう伝えれば、村雨さんは顎に手を添える。彼が思案する時の仕草は非常に絵になるので、例えここが六畳一間のアパートであっても輝いて見えた。
「なるほど。ならば花は適切なプレゼントということか。覚えておこう」
そして意見を百八十度曲げた。なんでだよ。
「なに貰っても、わたしは嬉しいけどな…」
「そうは言っても、あなたに半端なモノを贈る男だと思われるのは心外だからな。それにどうせ贈呈するならば、実用的で長く残り続けるモノが好ましい」
そうかなあ… そんなこと思わないけど…
わたしはそう思ったし、それが顔に出て居たらしい。村雨さんはケッとでも言いたげな顔をする。
彼は非常に偏屈そうで人間味が薄そうなルックスをしているしギャンブル内ではそうなのだが、私生活では喜怒哀楽がハッキリしていて分かりやすい。
相手にそう読ませる為に演技をしている線もあるが、わたしの知る村雨礼二はそんな不誠実な男ではない。多分、素直な本心だろうとわたしは判断していた。
「言っておくが、あなたの話ではない」
じゃあ誰の話なの!?
「あなたはプレゼントの価格ではなく、心の価値…思い遣りを評価する、非常に生温い人間であるのは私も知っている。
だが、私が半端なモノを渡したと、あなたの母親にでも思われてみろ。心象が悪いだろう」
なんで母親? わたしは議論のブッ飛びに再度困惑する。どうしてわたしのお母さんの話になるのだろうか。
村雨さんに問い掛けたところで、多分教えてはくれないだろう。必要な情報であれば、困った顔で見上げた時点でマヌケにも理解出来るよう説明してくれている筈だ。
「よくわかんないけど…」
わたしが自力で答えに辿り着くことを、村雨さんは期待している。
それだけは明確に理解出来たので、一旦疑問を全て横に置いた。そして立ち上がってキッチン前の冷蔵庫に移動し、カップを取り出す。
「アイス食べる?」
推理の停滞を感じたわたしは、おやつとして持っていたアイスを差し出す。
三百円ほどのミニカップのやつと、一本六十円のソーダシャーベットを交互に見て、吟味の末に持ってきたカップの方である。
クッキー&クリームとグリーンティーを掲げれば、予想通り村雨さんはクッキー&クリームを掴み取った。
推測の域を出ないのだが、村雨礼二という男はクッキーがそれなりに好きな気がしている。
根拠としては弱いが、たまに高そうな缶入りのクッキーを自主的に食べているからだ。
「…頂こう」
ミニカップを机に置いて、行儀良く座した村雨さんがアイスの前で静止している。ちょっとかわいい。
スプーンを手にアイスを見つめていた村雨さんは、その視線をわたしに移した。赤い瞳が、診断をしようとコチラを見つめている。
「単刀直入に聞こう。あなたは何が欲しい?」
必要なモノは即断で購入しているし、趣向品としての欲しいモノもすぐに買っている。
わたしは決断が早いので、買い物で悩むことがほぼ無い。いざプレゼントは何が良いか?と尋ねられると、特に何も思い浮かばなかった。
すぐに必要ではないけれど、いずれ買わないと体裁が悪いと考えているようなものであれば────無いわけでもないが。
「貴金属か?」
流石に村雨さんは目敏い。わたしの視線の惑いを、すぐに言語化し答えを出した。
咄嗟に隠そうとして、それは無駄だとすぐに思い直す。村雨さんは既に手を伸ばしていて、わたしの手首を握ったからである。
そのままスルスルと人差し指が中手骨をなぞって、未だ傷の残る薬指へと辿り着いた。
抜糸の済んだ傷口を保護テープの上から横に撫でて、村雨さんは視線をわたしに移す。眼鏡の奥の赤い瞳が怪しげに煌めいて、彼は此方の動揺を楽しむように笑った。
「その指を隠すアクセサリーか。…そうだな、此方も頃合いだと考えていた。
そろそろ傷も癒え、炎症が治まるからな。貴金属の装着も問題無く可能だ。じきに、あなたは通院も不要になるだろう」
指をさすった村雨さんは、わたしを見つめて囁く。
お医者さんとしての診断結果を述べて、その上で自身の結論を告げた。
「良いだろう、買ってやる」
「えっ、いいよ。それは要らないです」
そう言われた村雨さんは、明らかな抗議の視線を此方に向けた。
確かにわたしは、この派手な傷の残る指を隠す指輪が欲しい。指の切断跡はなんだかちょっと人をアウトローに見せてしまうので、仕事をする上で邪魔になるからだった。
そして指輪は出来ればかわいくって、エンゲージリングに見えないデザインのものが良い。指が指なので、妙な勘ぐりをされたくはないから。
だがそれは、自分で買おうと思っていた欲しいモノだ。いま好きなデザインの、かわいいやつをじっくり吟味している最中なのだ。
村雨さんにたかりたい訳ではないし、そんな義理も無いだろう。わたしは敗者なのだから。
村雨さんはわたしを酷い目で見る。マヌケ!底抜けのマヌケ!マヌケがすぎる!視線がそう強く訴えてくる。
しかしそんな目で見られても、付き合ってもない男性から指輪を貰う方がおかしいだろう。
それを伝えれば、村雨さんは「マヌケが…」と今度は口頭で暴言を浴びせてきた。
「交際をしていないのが問題なのか?
…そうか。ならば交際をしろ。あなたは今すぐ私の恋人になれ。それで問題は無い筈だ」
問題しかねえよ。
そんな理由で人と付き合いたくはない。わたしは村雨さんと付き合うのは薮坂でもないが、村雨さんは別にそうではないだろう。
理由は簡単。推測出来る彼の好みは、誠実で面倒見が良い笑顔の可愛いお人好しだ。
これは完全に勘繰りの域を出ないが、”マヌケども“の中の、特に気に入っている相手がそうなのではないだろうか?
本命が居るのであれば、やはり妥協などすべきではないし、そんな一時の衝動と義理のために、ホイホイと友人関係を破綻させるべきではない。
そう噛み付こうとしたが、村雨さんは指でこちらを制する。
思わず口を閉じて黙ったわたしに、彼はいつの間にか取り出したモノを見せ付けた。
「では手始めに鍵をくれてやる。今すぐこの不衛生かつ駐車場の存在しない不快な賃貸を引き払い、私の家に現住所を移すといい」
「今すぐうちから出て行けよ!」
村雨さんが人の家に対してどう思っていたかよく分かった。
確かにうちは格安ボロアパートだ。職場への距離が近いだけで、虫出るし隣の兄ちゃんのギターはうるさいし、上の階のカップルはずっとまぐわっている。
しかし他人にそれを指摘されると頭に来るというのは新発見だ。わたしは存外、この自分の城を気に入っていたらしい。
「…? 出て行くのはあなただろう」
心底困った表情で村雨さんはそう言った。その顔をしたいのはこちらの方なのだが、何故わたしの方がワガママを言って困らせているみたいな反応をされるのか?
「此処が角部屋で、他の居住者がすべて男なのも気に食わん。
この辺りは治安も悪い。職場が近いという理由だけで、あなたは無用なリスクを負うのか? …馬鹿らしい。今すぐに引き払え」
医者という職業柄なのだろうが、彼は徹底的にリスクを避ける傾向がある。
村雨さんは「不理解かつ非常に不快で不愉快なのだが」という顔でわたしを見た。
そして彼は取り出した合鍵を人の手に握らせようとする。わたしは静かにグーを作る事で拒否するが、捩じ込もうとする強い力に負けて鍵を握り込まされた。
鍵の先にはわたしの好きなキャラクターが吊り下がっており、「村雨さんもこういうの好きなんだあ。意外〜」と現実逃避にそう思った。
「心配してくれるのは嬉しいですけど、大丈夫ですよ。
この辺りって人通り多いですから。泥棒とか引ったくりが多いだけで、暴行事件はそんなに起きないんですよ」
「ダメではない理由を説明しろ」
鋭いツッコミが正論でかまされる。村雨さんはわたしに社会常識を一通り述べて、半ばキレながら言った。
「今すぐ荷物を纏めるといい。あなたの危機管理能力の無さはマヌケを通り越した何かだ。放置すべきものではない」
「わ、わかりましたよ。引っ越しますよ。でも、鍵は大丈夫です。普通に賃貸探しますから…」
「だから私の家に住めと言っている。あなたは何度同じ話を繰り返す気だ。
引っ越しが終わったら指輪も買いに行く。それで良いだろう」
良くない。それこそダメに決まっているだろう。
わたしは村雨さんが不誠実な付き合いをすることを望まないし、ちゃんと好きな人と付き合うべきと考えている。心配だからと、異性の友人を家に転がり込ませるのはダメだ。アクセサリーを買い与えるのも話にならない。
そんな真似をしては、本命の方に不誠実だと勘違いされてしまう。
余計なお節介かもしれないが、わたしは村雨さんを好意的に思っているので余計にそう思う。
偏屈と私生活を共にし、文句言いつつも関係を構築してくれる人間は貴重だ。大切にすべきである。
そう主張すれば、村雨さんは酷く嫌そうに口角を下げた。元々下がり眉だが、もっと困ったように下げる。
わたしは彼を困らせているらしいが、コチラも困っているのでお互い様だった。
「私の刻んだ傷なのだから、責任を取るのは当然では? それともあなたは、私が傷を刻むだけ刻んで放逐する不誠実な人間だとでも思っているのか。
それこそ心外だ。今すぐに考えを改めろ」
「それはないけど… 村雨さん、サイコパスっぽいのに意外と常識人で紳士なところあるし…」
「意外ではないだろう」
それはない。
「それはない」
嘘偽りなく言動が一致したわたしを、村雨さんは不服そうに見た。言外に取り消せと言っている。
そんな目で見たところで、わたしは意見を変えない。嫌なら日頃の振る舞いを見つめ直せ。まず胸ポケットのメスを捨てて来いよ。
話を戻そう。村雨礼二は他者に誠実を求め、自身も誠実であろうとする人物である…と、わたしは彼を評している。
不誠実だなんてことは全く思っていないし、一度たりとも感じたことは無い。それは友人となる前、ギャンブルの最中であっても。
それは言わずとも理解るだろう。村雨さんは、わたしの心を慮れる筈だ。
だから特に言及はせず、結論を先んじて述べた。
「責任とかは、いいよ。わたしこの傷気に入ってるし。
だから村雨さんも、友情の証くらいに思って流して良いって」
わたしの傷はマヌケの烙印であるが、それと同時に村雨礼二という友人を得た証明である。
彼がわたしの指を切断してしまったことを気にして悔やんでいるのであれば、それは不要な気遣いだ。そういう意味を込めて、わたしは前述の言葉を述べた。
その主張を受け止めた村雨さんは、柔らかく微笑む。
「そうだな。私もあなたの傷を気に入っている。その指を切り落としたのは正しい判断だった」
このボケはっ倒したろうか。
わたしは拳を押さえ込む。冷静な頭が無ければ、村雨さんの澄ました横面を強く殴り抜けているところである。
彼に、気に病んでいるとかは全然無かった。やっぱり村雨さんは普通にひどい。
わなわなするわたしの拳を、村雨さんは上から握った。触るんじゃねえ…とキレそうになったが、その手付きが妙に優しかったので面食らう。
「だが、後半は異論がある」
握り込んだ指を一つ一つ解いて、指先が絡み付く。村雨さんは真っ直ぐこちらを見ていた。
「その証を、水に流すだと? 馬鹿馬鹿しい。何故そんな事をしなければならない。
私が刻んだのは、傷ではなく口実だ。反故にすることになんの意味も意義も無い」
重ねられた指が窮屈そうに曲げられて、関節の上に力を加えられる。眼鏡が当たりそうな程に近付いて、そのまま持ち上げられた指先に顔を寄せられた。唇の直線上には傷がある。
村雨さんは、囁くように言った。
「考えてもみろ。この私が、意味も無く人の指を落とすと思うか?」
「落とすと思う」
即答する。握られた手に力を込められ、指先から静かな怒りを感じ取った。
だがわたしは間違っていない。絶対にこれが正しい。根拠もある!
わたしは村雨さんの家に遊びに行った時、彼が趣味で使う用の人間────債務者が、手術室とかいう一般家庭にあってはいけない部屋に居るのを見た。
お手洗いを借りようとしたら、患者衣に身を包んだ債務者が手術台の上に拘束されているのを見てしまったのだ。
それを見て、指落とさないと思う!とは絶対に出て来ないだろう。
指の手術をしたくなったら、全然債務者の指くらいバンバン切断すると思う。その行為自体も、借金を肩代わりし人権を買い取った債権者の権利とでも彼は言うだろうし。
わたしはそれを正直に指摘する。
「…私は借金の対価として、買った人間は手術する。…するが、あなたを許可無く暴いたりはしないし、今後そうする予定もない」
「やっぱり買えてたら手術してたってこと?」
「私があなたを手術したいという前提の言い掛かりをやめろ」
村雨さんは親指と人差し指を顎に添えた。そしてそれを静かな動作で鼻筋に移動させて、つまむ。頭が痛いというパフォーマンスである。
少し考えるような動作を見せた末、深く深く非常に長いため息を吐いた。
「普段は金に見合う対価が無いから手術をするだけだ。
仮にあなたへ貸しを与えたとしよう。そして、好きに扱えるならば────あなたからは、別のモノを取り立てる」
「例えば?」
「まずはこの賃貸を引き払い、毎食弁当を取らせる。あなたはもう少しまともな食事をしろ」
村雨さんはわたしの手首を掴んで、太さを確かめるように上下に摩った。そして視線は太腿に向かう。言外に不健康な内臓脂肪を指摘されていた。
先刻、日頃の食事はカップ麺などとは回答したものの、その他の食事については言及していない。
村雨さんは若干気持ち悪いほど診察に長けた人物だから、見ただけでその“など”の部分…そこも何となく分かるのかもしれない。
「あなたの家の冷蔵庫は何も冷蔵していない。無意味に冷えているだけだ」
人の家の冷蔵庫を勝手に開けるんじゃねえ!
感心して損をした。村雨さんはただ人の家を物色して確認していただけだった。
…しかし指摘された通り、冷蔵庫に物が入っていないのは事実である。水しか飲まないし、自炊しないし。冷凍庫にアイスは何個か入っているが、それは貰い物だった。
村雨さんはフンと鼻を鳴らして、わたしの貧相な食生活を嘲笑する。
「あとはそうだな、仕事を辞めさせる」
債務者として買われていた場合、村雨さんに家も職も奪われていたらしい。
村雨さんは徐ろに手を伸ばして、わたしの頬に触れた。化粧が付いちゃうよと思ったが、気にせずに撫で回して────というか、意図的に人のファンデーションを拭っている。
指先がキラキラになった村雨さんは、漸く手を離して言った。
「あなたは以前、顔を腫らして病院に来たな。他人の痴情のもつれなどという、生産性の無い行為に巻き込まれて。
何故あなたが道理の通じないマヌケどもの為に、無意味な苦痛とリスクを負う必要がある?」
わたしはそこで思い出す。彼が今拭ったのは、薄くアザの残る頬だった。もうじき綺麗に消えるが、そういえば内出血をしていたのである。
語る必要も無い些細な話だったので、世間話として一度話題に上っただけだ。だが彼は、それを覚えていたのだろう。
「非常に不快だ。即刻辞めろ」
村雨さんの中では、わたしを手術しておもちゃにすることよりも、生活水準を上げさせる方が優先事項らしい。
驚いて思わず瞬きをすれば、村雨さんはイヤな顔をした。表情から読み取れるのは“なんで分からない?”と言った、意志の不通に対する困惑である。
しかしコチラも言い分がある。お人好しは一生治らない病であるが、悪い事ばかりではない。
「でもほら。わたしがそういう性格だったから、村雨さんと知り合えたんですし」
村雨さんは少し困った顔をした。今日は珍しく、口論で勝てる日である。
「でもどうしてそこまで?
今でこそ“友人だから”という理由が付きますけど、出会った時から村雨さんはそうでしたよね」
彼はゲーム中にも関わらず、わたしの愚かさに関心を向けていた。
村雨さんが面倒見の良い人であれば納得出来るのだが、彼は全ての人にやさしさを向けるような人物ではない。その上、どれかと言えば意中の相手に面倒をすごく焼かせて悦に入るタイプだった。
その村雨さんが、有象無象の中のマヌケを贔屓して気を揉んでいる。
それは明確に分かることで、だからこそお眼鏡に適っているのが不思議でならなかった。
その理由が、わたしには分からないからだ。
村雨さんは指を拭いて、わたしを見る。手のひらが向けられて、彼は弁舌を振るった。
「仲を深める気がある相手には、食事を与えるだろう。私はあなたを誘うし、あなたも私に食べさせている」
確かにそれはそうだ。仲良くする気がない相手は、食事に誘わない。
─────でも今その話あんま関係なくない? そう思ったが、わたしは真剣に拝聴する。
「つまり、双方に添い遂げる気があるということだ」
結論がブッ飛び過ぎだろ。
村雨さんは意外にも、動揺するわたしを笑わなかった。静かに、真っ直ぐにこちらを見ている。
「現にあなたは、私が求めれば口まで物を運ぶ。それは先程立証された」
いつの間にか解凍の進んでいたアイスを、村雨さんはスプーンで掬い取った。そうしてわたしへと差し出して来る。
アイスクリームはとっくに食べ頃まで溶けているというのに、問答の答えは全く出てはいなかった。村雨さんの求める解答を、本当にわたしは知っているのだろうか。
「食べられるだろう。あなたは、私を好ましく思っているのだから」
「それは、食べれますけど…」
なにかこう、言いくるめられている気がしてならない。
人は交渉をする時、絶対に通らないものを見せた後、本命のものを後出しする事で了承させる…という技術を用いることがある。
言われるがままに、口を開けばアイスを差し入れられた。あまい。村雨さんは満足そうに口角を上げている。
溶ける滑らかなクリームを感じながら、してやられている感に苛まれていた。
「前述の通り、なんの問題も無い。あなたは私の診断に従え」
「いや、でも。腑に落ちないから、何もかも…」
「ならば考えろ。今すぐに答えと結論を出せ。
…先に言っておくが。その解答が気に食わないモノならば、私はこの場であなたを暴く」
暴行を宣言されてしまった。
この場で腹を掻っ捌かれても、わたしの中に答えは無い。別に開けられて怒ったりはしないが、暴力を用いたという事実がわたしたちには残る。そんなのは、双方虚しくなって終わるだけ。
…いやそんなバイオレンスじゃなくて、普通にセクハラだったかもしれないが。村雨さんはサイコ気味なので、わたしはどちらの意味か測りかねている。
だがいずれにせよ、諦めてただ受け入れるというのは違う。
考えることを放棄してはいけない。それはわたしを案じ、真剣に問い掛ける村雨さんに対して、何より不誠実だろう。
わたしは自身のアイスを口に含み、脳に糖を与えた。
────カップの中の液体は既にドロドロになっていたけれど、まだ間に合う。十分掬い取れる筈だ。
Q.村雨礼二は、何故わたしを気に掛けていたのか?
この問題に答えを出すには、今まで与えられた情報を整理し、統合しなくてはならない。
▽
情報を整理しよう。
まず、わたしはただの4リンク所属ギャンブラーである。推理こそ得意だが、村雨礼二という怪物には遠く及ばない。この時点で、わたしが“強かったから気に入られた”という理由はあり得なかった。
「そうだな。あなたは脅威ではない」
ハッキリ言われると傷付くんだが?
気を取り直そう。
第二の視点。それは村雨さんがわたしを哀れんでいるという仮定だ。
上流階級出身でなに不自由なく暮らしている村雨礼二さんは、依頼者の踏み倒しや失踪、支払い能力の消失等の様々なトラブルで本業の収入が怪しい個人事業主のわたしを可哀想に感じた。
だから食生活を心配するし、時間が合えば何度も食事に同伴させる。
それは村雨さんは持ち前の脅威的な観察力を使って、対戦相手がド級の貧民、ド貧民であることに気が付いたから…というのは、どうだろう?
「どうだろう? ではない。自分で無理があると思っているモノを無意味に聞かせるな」
それは本当にそう。わたしも村雨さんにノブレスオブリージュがあるとは思っていない。彼は富裕層だが、貴族ではない。というか、ここ日本だし。令和だし。
バッサリ切られたところで、三つ目の推測に移ろう。
「わたしのことが、実は嫌いだったから?」
これは前々から少しだけ感じていた事だ。
村雨さんはわたしを好意的に思っているだろうが、その言葉の端々には小さな怒りと、“気に食わない”という意志が感じ取れる。
嫌いなモノの考えた方をするから、気に留めた。わたしの思想を病だと見て、治そうと思った。
彼は貴族ではないが医者だ。その仮定は、大きく外れているとも思えない。
「残念ながら、あなたの目は節穴らしい。…眼鏡を買ってやる。少しは探偵らしく見えるだろう」
わたしが探偵に見えないのは利点だろ!
てゆうか村雨さんが横に立つ限り、わたしはルックスをどうしようが全然探偵だと思われないのだが!
…関係ない文句を言っている場合ではない。
たまたま村雨さんが事業所に訪れていた際、依頼者が村雨さんへ相談を始めたことを根に持っているわけではない。…ほんとに全然、気にしてないし。
話を戻そう。村雨さんは嫌味混じりに違うと言っている。
彼はそんなところで嘘は付かないだろうし、真実として扱う。つまり村雨さんは、“その思想を持つ人間自体は好ましい“?
逆の観点から考えよう。村雨礼二が嫌うものはなんだ?
そして真っ先に、“嘘”と“不誠実”。その二つを思い付いた。…確かにそれは、わたしも好きではない。自分はなるべくそれを用いないようにと、いつだって思って────。
そうだ、ギャンブルの日も確かにそうだった。
「わたしが正直だったから?」
「そうだな。だがそれは理由であって、答えではない」
答えに至るには、もう一段階いるらしい。
わたしは次の推測を立てようと、首を傾げようとした。だが、顎に添えるはずだった指は掬い取られて、村雨さんの手の中にある。
彼は何か、言いたい事があるらしい。
赤い目が冷たくわたしを見る。警告するような眼差しを向けられるのは、そう少ない事ではない。
「何度も言っているが、他人の善性を盲信するな」
盲信?それは何に対してか。
計りかねて戸惑うわたしに、村雨さんは言った。
「私が嘘を吐いていない保証は何処にある」
わたしは反論をしようとする。しかし何かを言うよりも先に、村雨さんが口を開く。此方の言い分を聞かず、捲し立てるように。
「あなたが思うほど人は美しくない。容姿が整おうと、崇高な信念を抱こうと、腹を開けば平等だ。
そこには真実が見える。言葉を喋るだけの糞袋ばかりという真実がな」
彼は真剣に、心の底からそう言っている。
掴まれた手が、村雨さんの腹をなぞった。指を導かれて、繊維の上を爪が滑る。ほんのり暖かい服の下には皮膚があって臓物があって、村雨さんの言う真実があるのだろう。
掴まれた指が熱い。はらわた以上に煮える手が、彼の怒りを示していた。
「あなたは誠実さ故に、不要な苦痛を背負う。
貧乏くじを引きやすいのではない。他人が嫌がって避けるモノを、自ら引いているというだけの話だ」
傷口に村雨さんの指が回った。続いて頬を視線が撫でる。彼はそれを貧乏くじだと、理不尽の証だと言外に告げていた。
腹立たしげに歪められた赤。それは、わたしではない何かに怒っている。
「そして自己犠牲を繰り返して、いずれ無意味に殺されるつもりか?」
殺される。自死ではなく、他殺。
わたしはそれを聞いて、こちらが尋ねるべき一つの質問を思い付く。
「村雨さんは、わたしを糞袋だと思っていますか?」
彼は黙った。わたしは答えの一つを、掴み始めている。
この世は不誠実な糞袋…ろくでもない人間ばかりで、他者の善性を食い物にしている。確かにそうだ。それは否定しない。
だけどそれなら、わたしだって糞袋の筈。彼の言葉をそのまま受け取るのであれば、人類皆平等に糞袋である筈なのだ。
しかしそれは恐らく違う。村雨さんは、こちらを糞袋だと思っていない。
責めるように叩き付けられる言葉は、どれもわたしを謗ってなどはいなかった。
「それならやっぱり、嘘を付かないでしょう。少なくとも、わたしには。
だって村雨さん、誠実ですから」
村雨さんは何も言わない。静かに、わたしの推理を聞いている。
わたしが誠実であるから、村雨さんも誠実なのか?
その問いは、NOなのである。だってそもそも、“村雨礼二は誠実”だ。
嘘を吐くな。誠実であれ。善良に生きる人間は、健やかであるべき。
それを他者に求めて、自分もそうある。やる事がサイコで度が過ぎているというだけで、非常に真面目な人間と言えるだろう。
わたしは盲信しているのではない。彼の理念を信じているのだ。
だって彼が案ずる誠実な人間は、害される対象である筈がないのだから。
「暴行だって口だけでしょう。村雨さん、そんな人じゃないですし」
ねー!と、わたしは笑顔で村雨さんの手を取った。
空いた方の手も重ねて、すりすりと撫でて解す。彼が指先に力を込めすぎるものだから、痛ましげだったのである。
村雨さんは額に青筋を浮かべ始めた。ギラギラしたような、熱っぽい目がわたしを見る。なんで?
伸ばされた手が肩と髪に触れる前に、わたしは危険を感じて身を引いた。
村雨さんの手は空ぶって、薄っぺらの壁に当たる。いたそう。
「…上出来だ。危機回避能力があるなら、あなたの行動に今後文句は言わない。
だが今のは非常に不快だった。二度と避けるな」
自分の運動神経の無さを他責にして来た。
村雨さんはすごい目で睨んで来るが、急に手を伸ばされたら、驚いて誰だって避けるだろう。
…そもそもわたしは身体能力に自信があるので、怪我の理由のほとんどは殴られに行った時────浮気調査での、揉め事の仲裁だ。
ステゴロで揉めても、多分勝てる。村雨さんくらいならば。
話を戻そう。わたしは結論を述べている途中だ。
人差し指を立て、眼鏡の前にそれを示す。
「単純で明快なことです、村雨さん。
誰の目から見ても、貴方はいつでもわたしに優しい。それは推理なんかしなくても、分かりきったことでしょう」
つまり。つまりだ。
わたしは二本目の指を立てる。ピースサイン。簡単な事だ、友よ────。
「そう、貴方はわたしを大親友だと思っている!
指を切断したのは、仲を深める口実が欲しかったから!そうに違いありません!」
「とんだ迷探偵だな、あなたは。そこまで分かって、何故答えを外す。私をバカにしているのか?」
自信満々に答えておいて、ふつうに間違えたっぽい。
彼は心底呆れたようにため息を深く深く吐いた。今日は呆れた顔と、困った顔と、溜息を吐く姿を見てばかりである。
「ひとつ、ヒントをくれてやる」
村雨さんは、手のひらをわたしに向けた。
「指を落とせば、いずれそれを口実に指輪を渡せるだろう。
その傷を、あなたは隠す必要があるのだから」
指を切断したのは、指輪をプレゼントしたかったから?
それを聞いて抱いた感想は「ウミガメのスープのクソ問題かな?」である。ノーヒントで答えに辿り着けるヤツは、よほどのサイコに違いない。
わたしは率直にそう思って左手の傷をなぞった。くるくると撫でて。そうしてやっと、どうして薬指だったのかに思い当たる。
村雨さんは案外花言葉や意味合いを知識としては理解しているような人だったことも、ついでに思い出した。
「あの、もしかしてなんですけど…」
指輪。左手。薬指。好きなキャラクター。合鍵。母親。花。ダブルのハンバーガー。パズルのピースが揃って、答えが並ぶ。
「…わたしが好きだからですか?」
村雨さんから読み取れる感情は、徒労感。長い問答の末に、わたしは真実を見付けられたらしい。
あまりにも単純すぎる答え。
それを見落としていたのは、わたしが村雨礼二のことをよく知っていたからである。
まず前提として、彼の友人に誰よりも贔屓されている者が居ることが分かっていた。
わたしはてっきりそれが家庭的で面倒見が良くて健気で誠実な笑顔の可愛い年下の人なのだと。そう考えていた。
そちらが本命に違いないので、わたしに同居を申し出るのは友情由来の憐憫から────友達が心配だから言っているのだろうと、決め付けていた。
だからわたしは友情に報いようと考えて、彼を拒み続けていたわけである。
彼がわたしを心配するように、わたしも彼を案じている。
異性の友人を家に転がり込ませる男を、相手はどう思うか?────当然、よく思わない。
誰よりも誠実を求める村雨礼二が、大切に思う本命に不誠実だと思われるのは、わたしにとって耐え難い事だったのだ。
しかしそもそも前提が違う。
わたしこそが村雨礼二の本命。“花を愛でる可憐な乙女”などは、元から存在しなかったのである。
「本命も何も、あなた以外に付き合いはない。第一、あなたが女性だと思っている相手は男だ」
でも別に、恋愛対象は異性に限らないじゃん。
わたしはそう思ったが、黙って話を聞く。余計な事を言っては話の腰を折ると思ったし、あと多分村雨さんは既にすごい拗ねている。これ以上神経を逆撫でしたら後が怖い!
村雨さんは胸ポケットから写真────写真ではない。プリだ!これプリじゃん!なんで!?
彼はプリクラを出して、わたしに見せてくる。わたしは激しく動揺しながらそれを受け取り、視覚情報を整理した。
確かに全員男だ。映り込むのは、何処からどう見ても成人男性が五人。いや男五人でプリクラ撮ったんかい。
村雨さんのピースは所謂インキャピース…恥じらいのあるそれではなく、真っ直ぐに指が上へ伸ばされている。
彼は大変美しいピースサインを浮かべていた。アンタもノリノリなのかよ。
わたしは色々言いたいことがありすぎて、思考の濁流に呑み込まれかけた。
しかしそれを抑え込んで、一番大きな衝動を口にする。
「このひと超かっこいいですね」
教会の神父さまのような、顔の美しい男性。
彼の上で指を止めた時、村雨さんは今日一番イヤな顔をした。“だから見せたくなかった”とでも言いたげな視線でわたしをじっとりと、咎めるように見つめる。
少し乱暴にプリクラを奪い取って、「これで分かっただろう」と淡々とした態度で言った。ちょっと怒っている。
怒っているのは何故?
それはわたしが好きだから。他の男を褒めたのが気に食わないのだ。
あとこれは推測の域を出ないのだが、村雨さんは多分この神父さまが苦手で、反りが合わないのだろう。だから不機嫌になった。
分かれば分かるほど、全ての事象が濁流のように流れて行く。今までの不可解な行動全てが“すき”の一言で片付くからだった。
そして最大の、どうしても明らかにしなくてはならない一点が口から溢れる。
「わたしが好きだから、早く同棲したいって言ってたんですか…?
それで危ない事して欲しくないから仕事辞めろって…?」
「私はそう明言していた筈だが」
付き合ってもないのに…? あと別に明言もしてないよ…?
一旦それは置こう。いや置けねえよ。なに言ってんだお前すぎるだろ。
”村雨礼二はわたしが好きである“
その一点。それはマスターキーのように、どんな疑問も解決して行く。
探偵っぽく言えば、答えは本当にシンプルで非常にクリアリーだった。
それに思い当たったわたしは、全然嫌ではないし、寧ろ嬉しいと率直に思う。自分たちが付き合ってなかったことは一旦置くとして。
何故ならわたしも村雨さんに好意があるからで、彼がその反応を判らない筈もない。
しかし村雨さんは呆れた顔をしている。全然うれしそうではない。
「察しの悪いマヌケめ。誰がどう聞いてもそうだろう」
────いや、村雨さんもだいぶマヌケだったと思うよ。
だってアプローチがめちゃくちゃすぎる。
ゲーム中に無駄話をしたのは、初手からわたしを気に入っていたから。食事に誘ったのは、好意があるから。プレゼントをくれるのも、好意があるから。母親の心象を気にするのは、結婚を前提に考えていたから。薬指を切断したのは、その時点で結婚が視野にあったから。
わたしのことが好きという前提があれば可愛らしい行動の数々だったが、その条件を知らないコチラからすれば奇怪に映る恐怖の行動の連続だ。
────いや最後のは全然可愛くないな。好意がある前提でも頭がおかしい。早めに悔い改めて欲しい。
特に、別に付き合って居ないのに母親の心象を気にしてるのは誰が分かるかという話である。
何故付き合ってないのに結婚を前提に話をして相手に伝わると思っているんだ? 前提条件が狂いすぎである。
というか好きなんて一度も言われてないのだから、分かるわけないだろ。ふざけてんのか。
わたしは口に出して居なかったが、村雨さんには言いたいことが分かったらしい。
彼は呆れが半分、怒りが半分と言った声を出した。
「ふざけているのは壊滅的に鈍いあなたの方だろう。私は常に態度で示していた筈だが」
そう言われても。
村雨さんはズレてるという認識があるのだから、距離が近かったところで“ズレてるしな”で終わりだろうが。
「好意の無い相手にベタベタと接触するわけないだろうが」
突然まともな感性で物を語るのはやめてほしい。
こちらは女子校育ちで友人関係の物差しが女子だ。普通に村雨さんがベタベタ触れてくるものだから「男女の友情もこんなものなのかな?」と本気で思っていたのだった。
「マヌケめ。何処をどう判断しても、私があなたに好意を持って接しているのは明白だ。私はどうでもいい相手と食事をしないし、家にも招かない。
好きでもない相手の為に、このどうしようもない立地の賃貸へ手土産を持って訪問し、餌付けを求めるか? …当然しないに決まっているだろう!このマヌケ!」
村雨さんは直接言葉にしなかった癖に、全てを他責にしようとしている。わたしは若干の理不尽は感じつつも、彼の言い分は「たしかに…」と思った。
わたしは自身を対象から外しやすい傾向にある。調査役は、目標である事がないからだ。
客観視で自分を見れば、そりゃすぐに─────それこそ、この問答の冒頭ですぐに辿り着いただろう。”村雨礼二は、わたしのことが好きである“と。
…ちょっと申し訳なくなってきた。
悪い事したなあと村雨さんを見遣れば、彼はまだ怒っている。窓の方に向いたレンズに、陽光が怪しく乱反射した。
「第一、この住居は不快な要素が多過ぎる」
悪口がわたしからアパートに向いて草。
「ヘタクソの楽器に、どうでもいい他人のまぐわう音が重なって聴こえるのは何かのペナルティか?
非常に不愉快だ。あなたが居なければこんな場所に来るわけが無いだろうが!」
村雨さんはキレて物を破壊しそうな仕草を見せたが、人の家で暴れてはいけないという社会性と理性とお利口さは残っているらしい。
大声で発狂はしているが、物には決して当たらなかった。
いつのまにか隣の部屋のギターは聴こえなくなったし、上の階の元気なカップルも沈黙する。壁を伝って全ての悪口が拡散されたからであった。
わたしは申し訳なくなったので「どうぞ、気にせず続けてくださ〜い!」と大声で叫ぶ。返答は無かったし、アパートは沈黙を保っていた。
「あなたはそういうところだぞ」
ヒステリックに怒鳴り散らかした村雨さんは、振り上げた腕を静かに下ろす。
そして表情の無い真顔でわたしを見た。こわい。
「…逆に尋ねるが、何故わからない?」
「言ってくれないと分かりませんけど…」
「先刻の発言を取り消す。手の施しようのないマヌケだ、あなたは」
深く長い溜息の末、正しい診断を下したらしいお医者様は、わたしを引き寄せて抱き締める。
肩に頭を乗せられ、疲れたような仕草で体重を掛けられた。
拗ねているような気がしたので「おー、よしよし」と背中を撫でれば、村雨さんは不満気に溜め息を吐いた。つい調子に乗って撫でてしまったが、少し馴れ馴れしかったかもしれない。
「頭にしろ」
甘えん坊が留まるところを知らなさすぎだろ。
頭を撫でると、少し強く抱き締められた。なんだかんだ村雨さんは紳士なので全然痛くはない。
しかし意地悪な気持ち自体はあるらしい。
彼は暫く頭を撫でられた後、満足したのかわたしを少し離す。そして無傷である右手薬指の付け根を握った。
くるくると不穏な動きをして脅かしてくる。指の外周を爪でなぞって、直線を描くように。
「ちょ、ちょっと。もう切る必要、ないですよね?」
焦りながら尋ねるわたしに、村雨さんは笑った。
先程の可愛いはにかみなんかではなく、漆黒の笑顔である。子供が目にしたら失禁するような眼差しで、彼はこちらをビビらせに掛かった。すごく大人気ない。
「どうだろうな」
「どうだろうな、って…」
指がペンを握って、真っ直ぐに下腹部を撫でた。横、縦。直線に、軽やかに。
どういう意図かは知らないが、切開デザイン…メスを入れる場所を考えているような指先であるのは分かる。
「あなたは、指輪が要らないのだろう。
他でもないあなたがそう言うのならば─────別の証を与えることも、吝かではない」
多分ちょっと。いや、すごく。村雨さんは、根に持つタイプである。
推理しなくても、シンプルで明快な答えだ友よ。 …いや、恋人よ?