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喧騒の中に君がいるから

「鬼武蔵の遺言状ってさ」

 ナマエは藤丸立香から質問を投げ掛けられていた。

 立香は、ナマエの持つ端末にアドレスを送る。
 本来であれば外部者はアクセス不可だ。閲覧はプロジェクトへの明確な参加資格が必要なのであるが、ナマエは藤丸立香が持つ森長可のデータベースに目を通すことが許されているらしい。

 手元のパッドで資料に目を通せば、随分コンパクトなデータに圧縮された森長可の遺言状…の現物ではなく、概念礼装として昇華されたそれが目に映った。
 これらはサーヴァントと余程親しく無ければ作成できない装備だと聞いていたが。ナマエの知り得ない間に、藤丸とバーサーカーは親睦を深めていたのかもしれない。

 …バーサーカーは、殆どナマエの部屋に入り浸ってるのに?

「文通でもしてたの?」

「どういうこと?」

 文通では無いらしい。というか、ナマエが何について尋ねたかも分かっていなさそうだった。
 今のはかなり失言だったというか、相手を軽んじるような質問で宜しくない。
 言わなかったことにして適当に流すかと思案したが、でもやっぱりナマエは気になっていた。

 ナマエの知らないところで、知らない方法で、あのバーサーカーを礼装作れる程に手懐けたのか?
 藤丸立香は、既に何体かのサーヴァントと深く絆を結んでいる。無から概念礼装を生成出来るほどに信頼され、所持が叶うほど働いているのは異論が無い。
 
 ────しかし、しかしだ。
 森長可と?あんなにナマエの部屋に入り浸り、好き勝手してる長可くんと?
 
 謎が過ぎる。嫉妬や不快さから来る感情などではなく、”そんな方法あるなら後学のために教えてくれよ“が感情の十割であった。
 ナマエと長可が仲良くやれたのは、長可にナマエの父をブッ殺した負い目という多大なアドバンテージがあったに過ぎないので。
 
 結局ナマエは好奇心と知識欲に抗えず、おずおずと口を開く。

「いや…ううん…回りくどいのは趣味でないから、正直に聞くね」

「うん」

「どうやって仲良くなったの?」

 端末をタップして、絆礼装のデータを開く。圧縮されたそれには“遺言状”と記載され、中身こそ読めないものの、現物の写しが情景として現物以上に美しく遺っている。
 その画面を見た立香は、「ああ〜!」と納得したように笑った。

「それ、ナマエさんだから見れるやつだよ」

 まじ?

「まじで?」

「ほんとほんと!」

「ネタバレ?」

「…ネタバレ!」

 どうやら偶然、話題と礼装が被っていたらしい。
 早とちりであったし、藤丸立香がいずれ自身の手で知るべきであった情報を開示してしまった。
 
 ナマエはそれを深く反省する。何もかもが悪手かつ、己の立ち位置の悪さも十二分に理解できたからだ。
 言うならば、友達がマスター始めたからフレンド申請したけど、出しっぱの絆礼装でネタバレを踏ませたような…そういうやつであった。
 
 本来、マスター以上に親しい人間が近くに居てはならない。別にルール違反とかでは無いが、離反と謀反と鞍替えを招きやすくなるからだ。
 ナマエの知る森長可に限ってそんなことは有り得ないと思っているが、友好度の上がりやすさは絶対に影響がある。
 
 別にナマエの方が魔術師として優れてるとか、そんな話では無い。森長可はそんなことで優先順位を振らない。殿様以上に大事な相手など居ない。当たり前だ。
 それは極めてシンプル。単純に、森長可と藤丸立香と過ごす時間が減るからだった。
 
 現在もナマエはそれを危惧して距離を取っており、森長可が人の部屋に陣取って読書してるので、ナマエは場所を譲る形で食堂にて読書に励んでいたのである。 
 彼とは今後もう少し距離を取るべきだなと冷静に判断し、当初の質問について尋ねる。

「遺言状について何が聞きたかったの?」

「そう、鬼武蔵の遺言状!森くんのスキルにあるんだけど、実際の中身を知らないから、ナマエさんに聞きたくって」

 ナマエは己の浅慮を深く深く自省している。藤丸立香が聞いていたのは礼装でなく、森長可が持つスキルについての話題であったのだ。
 失敗したと口に出して暴れ回りたい気持ちを抑え、立香を見る。カルデアのマスターは、無邪気で人の良さそうな笑みを浮かべている。

「それって、どういう内容なの?スキルになるくらいだから、よっぽど凄いのかな」

 聞かなかったのか、とナマエの目は雄弁に語っていたらしい。
 藤丸立香は「んふふ」と含み笑いを零して、言葉を続けた。ナマエの全て顔に出るところは、魔術師としては大変ダメダメだが、存外自身のそんなところは嫌いではない。…バーサーカーのおかげである。

「聞いたけど、ナマエさんに聞いたら良いって」

 どういう采配なのか分からないが、案外と森長可は考え無しにポンポン身を振るタイプでも無い。…いや、振るかも?
 狂人相手に真っ当な推理をすることは不毛である。諦めて、殿の仰るように求められるがまま返答した。

「ほぼ無いと思うけど、自分が討ち死にしてるなら戦ボロ負けだと思うので、家族みんなで仲良く死んでください、みたいな」

「そういう感じなんだ」

「別にそれがスタンダードってわけじゃないよ。普通はそんなことお願いしない。あれは頭おかしいから」

「そういう感じなんだ…」

「ああ、でもまあ…茶器と同じくらい、家族は大切にしてたんじゃないかな。
当主が死んだら死ねっていうのは、自分も急に家継いで苦労したからだろうし…」

「そうなの?」

「うん。此処のじゃなくて、わたしが会ったバーサーカーはそう言ってた」
 
 ナマエは以前、森長可から苦労した旨を聞いている。
 此処のバーサーカーとナマエのバーサーカーは同一人物で在って別の使い魔なので、そのままの情報で召喚されているかは分からない。
 こちらの鬼武蔵に聞いたら「いんや、全然?」と言うかもしれないが、少なくともナマエの知る森長可はダルかったと言っていた。

 藤丸立香はナマエが森長可と契約を結んでいたことを知っている。
 だがどういう経緯で、何によって知り合いだったかは知らないようで「そうなんだ…?」とイマイチ腑に落ちないようだった。
 ナマエは説明するのも面倒だったので、適当に話を続ける。
 
「いや、でも流石にだから死ねは無いか? あれで案外恨まれてるとか分かるタイプだし、恐怖の象徴である自分が没して、それが遺児に向いて酷い目見る前に楽に死ねってこと?
…うーん、わかんないな。藤丸さん、知らない?」
 
「質問が戻って来ちゃった…」

 ナマエはそこで、知識として知っては居るものの、理解するだけでそれ以上考えたことが無かったことに気が付いた。
 そもそも、ナマエは元から森長可を召喚する気だったわけでなく、その父である可成を呼ぼうとして失敗しているのである。
 長可に関する知識が半端なのも妥当と言えよう。

 一応、ナマエはカルデアで魔術師らしい方向から藤丸立香のサポートに就く役割を持っている。
 サーヴァントに対する見識と理解は決して無駄ではなく、寧ろ著しい有益を生み出す。知れば知るほど特性を扱えるし、人類の認知ボーナスも掛かるのだ。ふわふわとした認識で使い魔を使役してしまう可能性というのは、見過ごせない部分である。
 森長可は扱いづらいサーヴァントであるが、非常に忠誠心があり、身内想いの偉人である。それが十二分に力を発揮出来ないのは、実に勿体無い。
 
 森長可と距離を置くとは言ったが、役目を疎かにしてまで行うものでもないだろう。彼の殿様は、ナマエの上官でもあった。
 食堂の椅子から立ち上がって、一礼をする。

「聞いてくるね」

 藤丸立香は部屋に戻るナマエを複雑な気持ちで見送る。
 なんとなくだが、森くんはこうなることを見越して「ああ?あー…ナマエセンパイに聞いてくれや」なんて言ったのではないだろうか。
 
 ナマエを動かそうとしても、魔術師らしい魔術師であり、打算と実益で動くナマエは己が思う最善────森長可を避けるという行動を取り続ける。
 押そうにも押させてくれない。ならば、ナマエを動かせる相手、人類最後のマスターである藤丸立香を焚き付ければ、最小限の一手で望む結果が得られるわけだ。

 チラッとノッブを見遣れば、ケラケラと笑った。

「勝蔵、思ったよりもインテリじゃろ」

 …おおよそ正解っぽい!

 ▽

 
 そういうわけで、ナマエは自室に戻ったのだが、珍しく…というのも癪だが、本当に珍しく長可が居なかった為、まあ待ってれば来るだろうと読書に勤しんでいた。
 
 そして藤丸立香に聞かれた森長可の遺言状だけでは飽き足らず、比較対象を求めて古文書を読み耽った。
  そのうち目的を見失って、ただ単に面白いから戦国武将の手紙を読み漁っていたのである。
 
 武田信玄の言い訳ラブレターとか、超面白い。いつかカルデアに来たら、めちゃくちゃに擦られそうだった。
 聖杯戦争で喚ばれた記録は存在しているし、そう遠い話でもあるまい。
 
 いつの間にか人の部屋に戻って来たらしい長可が、ナマエを持ち上げて膝に乗せた。

「よう、ナマエ様。集中してんなあ」

「うん」
 
 頭に顎を乗せて人のパッドを覗き込むものだから、重くて読めたものではない。手で顔を押そうとすれば、指の第三関節まで食われた。やめろ。
 大人しく身体を少し左にずらして、そのまま長可にもたれかかる。
 右手でパッドを持てば、ナマエの右肩に重みが掛かった。どうやらベストポジションを見つけたらしい。

「楽しいか、それ」

「たのしい」

 森長可は笑った。このサーヴァントは半端なく混沌の存在であるが、昔からナマエが楽しんでいると一緒になって喜んでくれる。
 若干それが気恥ずかしくはあるのだが、そう思う心の獲得も彼のおかげである。文句を言わないのが恩返しの一端でもある風にナマエは思っていた。

「しっかしよお。今じゃオレらの手紙が展示されちまってんのか」

「うん。文化遺産。おもしろコンテンツ。博物館の収入源」
 
「辞世の句だの遺言状だのを見て、立派とかじゃなく、面白えって思うのな。ほんっと今の世は平和っつうかなんつうか」

 訝しむような口調であるが、不快な感情では無さそうである。ただ普通に、感慨深いといった口振りであった。

「まー、詩聴くのが面白えのは否定しねえけどよ」

 おもしろいんだ…とナマエは当たり前すぎる関心をした。
 ナマエは頭で長可くんは文化人と理解しつつも、いまだに暴力性こそが本質であると思っているところがあった。

「長可くんのも好きだよ。話ブッ飛んでて面白いし」

「そうかあ?」

「口語が多いから超読みやすいし」

 あと、あさ
     むさし
 これがめちゃくちゃ可愛い。わざわざ言わないが。
 ナマエはバーサーカーと過ごし、魔術師でありながらも機械に精通し、己の趣味と楽しみにも時間を割いた結果、一般的な感性を獲得するに至っている。
 そのナマエが思うのだ。森長可の署名は超かわいいと。むさして。平仮名でむさしだぞ。
 
 信長さまから“武蔵守を名乗るが良いぞ!”と名付けられたようだが、その大層な漢字を無視してむさしと書いてしまうのかよ。しかもノッブさまの生前は名乗らない。
 萌えキャラが過ぎねえか?とナマエは静かに思っている。

 ナマエはすごく、森長可が親族向けに書いた署名が好きだった。ゆるくて、かわいい。
 しかし。しかしだ。かなり前の話を掘り出してアレなのだが、当時クソ真面目に魔術師として生きていたナマエは、あろうことか森長可に”しっかり署名させてしまった“のである。
 
 ────むさしって書いて貰えばよかった!
 
 ナマエが長らく惜しく思うのは、その一念。
 言わないが。けっして言わないが!

「普段からそういうのばっかっつう訳じゃねえけどな。それは奥に宛てたもんだからよ、堅苦しく書く必要ねえだろ」

「でも丁寧な文体で書くんだ?」

「おう」

 即答である。その迷い無い返答だけで、森長可の妻は大切にされていたということが分かった。

「オレらの時代じゃ、当たり前みてえに家族を道具として扱うんだけどな。気分よくねえし、そういうの好きじゃねえんだわ。
公然の場でとは出来ねえけど、森家でそうする分にはオレの自由だろ。そんなら尊重して対等に扱いてえからな」

 ナマエはなんとも言えない顔になる。
 森長可は残虐行為を楽しみ嗤う、情け容赦の無い畜生であるが、身内を愛し慈しみ大切に思い遣るのもまた森長可なのだ。
 
 以前、ナマエは戦国社会でもやっていけると太鼓判を押されたが、森長可も現代社会でやっていけるんだろうなとナマエは思っている。
 狂った価値観の戦国に生きていた割に、現代人に近い感性があるからだ。…それを保ちながら戦国社会に適合しているので、ふつうに狂っているというのも当然の話だが。
 
「んだよ」

「いや…長可くんって、すげえ戦国脳なのにそういうとこ倫理観があるっていうか…現代人だから分かる価値観だけど、当時としては珍しいよね」

「まー、親父もジジイもそんな感じだったからな」

 ジジイ。長可の祖父…可行!おじいさま!
 文献が超少なくて、可成の記録からくらいでしか言及がない、森家のブラックボックスである。でも彼が居なければ、森家は織田家に仕える事がなかったっぽい。

 長可くんはナマエを見てニコニコと笑った。頬を引っ掴んで「ほンっとによ〜、アンタ分かりやすいよな」と口角を上げる。

「で、だ。何が聞きてえんだよ。いま気分良いからな、朝倉の話じゃねえなら答えてやんよ」

 朝倉はダメなんだあ。
 ナマエはそれはそれは大変に可行の話が聞きたかったのだが、絶対に朝倉の話を避けられない。
 泣く泣く、もう一つの疑問を尋ねた。

「じゃあ聞くけど」

「おう」
 
「なんで茶器の話から?」

 長可くんの、遺言状に付いて尋ねた。
 ナマエは常々疑問であった。何故遺言状で茶器の話を真っ先にする?あたまおかしいのか?

「あー、あれな。殿下に借金して買った茶器もあるだろ」

 殿下────羽柴秀吉に借金して買った茶器。割と有名な話である。
 秀吉に連れられ、たっけえ茶器を見せられた森長可は「この茶器、どう思うでござるか?」と聞かれる。そして「コイツはすげえ良いモンだな」と答えた。
 答えて、もうその場で速攻買おう!と決めたものの、バカ高くて買えない。
 それで長可がどうしたかと言えば「おう、殿下!悪ィけど、金貸してくれや!」である。あとで大文字休徳斎にも金借りた。

 因みにその目利きはガチであり、“さはひめ”という茶壷は時の将軍セクションの東山御物スーパー茶道具であった。
 元々沢姫だったけど、人の手に渡るうちに佐保姫に改名されたとも言われています。現物は結局どこいったんだろな。

「うん」

 ナマエの“うん”には、深くて重い感情が込められていた。
 唐突かつ話が飛んでて歴史を義務教育程度でやってきた常人には理解不能であるが、ナマエは分かっていますというツラをしていた。

「そういうのは殿下に返すのが筋だろ?」

「そうだね」

「だったらよ、真っ先に話通すべきだろ!」

 そうはならねえな。

「…うん!分かったよ、ありがとう!」

 ナマエは決して同意はしなかった。

「長可くんって文字書くの上手だよね」

 ナマエは反応に困って、話をブッ飛ばした。
 この話題を続けると頭がおかしくなると思ったからである。

「あー、まあな。親父がそういうの好きだったしよ。ちいせえ頃から手習いしてたら、まあそんなもんだろ」

「森家、グルメだし書も茶も嗜み以上にやるしで風流すぎない?」

「ウヒャハハハハ!その辺はジジイと親父に感謝だな!」

 おしるこが好きな祖父と茶が好きで筆まめっぽい父。
 少なくとも祖父の代で既に官位を持ってた名家とはいえ、武士の家とは思えないほど風雅であった。

「この時代、代理の人に書かせる方が多いって言うのに直筆だし」
 
 ナマエは遺言状を見る。
 戦国時代というのは、辞世の句すら代筆される世であった。
 それで大抵は代筆の人を立てて書かせるものであるが、森長可のものはガチンコ直筆なのである。
 
 明智光秀なんかも結構能筆で、すっごいキッチリ縦線に添えて文字を書く。几帳面。
 あっちは非常に纏まりが良く、私信であっても形式に則ったお堅い文章を書かれがちなのだが、長可のものは口語が多く比較にならないくらい読みやすい。

 長可くんのは、当時のいかにもな精神状態を表すというか、長可くんのきったねえ袴そのまま履いてるみたいな雑なところが出てると言うか、真ん中がブレブレのフラフラなのだが、筆使いは非常に上手く、大変に能筆である。
 見たらもう、さらさら〜って迷い無く書いたのが分かる。その辺も踏まえて、長可くんの遺言状は超面白いのであった。

 しかしそうストレートに言うのもなんだかなあという感じである。
 ナマエは珍しく気を使い、比較対象を出して褒めた。
 
「浅井長政のやつくらい読みやすい」

「あ?浅井の話なんかしてんじゃねえよ」

 おっ、裏目。
 
 バキ!と首の音が鳴る。
 速攻であったまった長可は、ナマエの首をゴキってやった。
 正しくは“頬を掴んで此方を向けさせた”であるが、俊速で伸びた手が勢いよく自身の側に首を曲げたので、骨の間の気泡が弾けた音がしたのである。

「つかありゃ右筆だろ」

「そうなの?」

「知らねえ」

 知らねえのか〜い!とナマエは思ったが、押し黙る。
 よく考えなくとも、浅井長政と森長可は直接関係無くて当たり前である。カルデアでは仲良い姿をいつも見ているが、茶々とも元々顔見知り程度だと言うし。

「でも、代筆だろうがなんだろうが、長政の手紙は文字が凄い親切で…」

「んだよ長政って。随分親しげじゃねえか」

「長可くんって、達筆だよね〜!」

「ヒャハハ!褒められっと悪い気はしねえなァ!」

 うはははは!と二人の笑い声が響く。ナマエは長可くんを盗み見た。目は全く笑っていなかった。

「話逸らしてんじゃねえぞ」

 束の間の平穏であった。
 ナマエは結構、浅井長政という武将が好きなのであったが、まあ当事者からしたらそんなもんであろう。
 
 森長可という人間は、気に食わないやつ速攻殺すマンであったので、浅井の話題を出してワンクッション挟んで許されているだけナマエは気に入られている部類であった。

「そんなに崩字が面白えなら、オレがナマエ様の書状を認めてやろうか?」

「ええ?なんで?てゆうか誰宛?嬉しいけど」

「右筆だよ右筆。書状したためんの得意だからよ。任せとけって」

 ナマエの返事を待たずに、長可くんは机の引き出しを開けた。なんでかは結局教えてくれなかった。
 
 引き出しどころか、部屋のあらゆる収納を使っていない────よく言えばミニマリスト、悪くいえば趣味無しの虚無人間であるナマエであったが、その空きスペースはしっかり利用されていたらしい。

 あのなんかインク入れるやつと、墨と、筆を取り出した長可くんは、机の上に紙を敷く。
 恐ろしく静かにインクを入れるやつで墨を磨り上げた長可くんは、穂先を整えながら聞いた。墨って、ジャカジャカ言わずに磨れるんだあ!

 ここで硯も知らねえのかよとか、んなの当たり前だろとか安易に言わないのが、森長可と森蘭丸のきょうだい足る証明みたいなところである。
 あたま狂ってはいるが、他者を立てられ気遣いも出来る。確かにインテリ森家の男児であった。
 
「アンタ生家は?」

「静岡」

「駿河な」

「すんしゅー」

「範囲がでけえだろうが」

「え〜っと、駿府?」

「おー」

 さらさらと迷う事の無い筆が紙の上を滑って行く。

「あァ〜そうだな。ナマエは〜…いそぎ、駿府へ御越し候べく候〜っつうとこか」

 ナマエはギョッとする。そうろうべくそうろう!?
 よくよく文字を目で追えば、実家に戻してやってくださいといった感じの事が記載されている。
 
「なんで帰そうとするの!?」

「帰した方が良いだろ」

 ええ。なんでえ?

「だってアンタ、別に戦好きじゃねえよな」

 ナマエは酷く驚いた。
 琥珀色の瞳が、落ち着いた風にこちらを見る。凪いだ色の美しいそれは、誰よりも理性的で理知的に感じた。
 
 それは────事実である。事実だ、が。今更そんなことを言われるとは思っていなかった。
 というか、そんなことを森長可が気に留めて、わざわざ藤丸立香に申し入れようとするとは。

「帰れんなら帰って、医者…あァ、今っつうと国家公務員とかか?」

「そうだね」

「まー、そういうヤツに嫁いだ方が良いだろ。
あと傭兵なんざ辞めろ。在野に降ったヤツはろくでもねえ死に方すんだよ。やっぱよ、なげーもんに巻かれるっつうのはダセエけど利口なんだわな」

 めちゃくちゃに喋りながら、森長可はナマエの移動願いを書き進めて行く。
 もはやこちらの意図などは関係無く、彼が思う“幸福な生き方”を書面に記しているに過ぎない。それは、正しい。一般の価値観として、どこまでも正しく清い。
 だが────正しく無い者にとっては。

「…それは、どうかな」

「あ?」
 
 それはきっと、平穏の続く穏やかな日々だろう。
 だが、ナマエはそういう日常が思い付かない。喧騒の無い日々などに、面白さはあるのだろうか?

「わたしはそこで生きて、幸せか分からない」

 森長可と居ると、人生を振り返ってばかりだ。
 ただ生きる日々に、面白さという価値観を持ち込まれて。ただ上を目指す日々に、幸福という尺度を持ち込まれる。ナマエの幸福とはなんだ。
 少なくとも、穏やかな日々では無い。普通の日々でもない。
 
 なにをもって、ナマエは人生を“面白く、幸福”と定義するのか。
 分からないが、森長可の思うナマエの幸福な人生。そこに求めるものが無いことは分かる。

 彼はじっとナマエを見て、そして笑った。

「ウヒャハハハハ!そこまで考えてんなら、オレのこれはお節介っつうの?ま、意味の無えモンだったわけだ!」

「ごめん」

「謝罪は要らねーっつうの。寧ろ、オレが腹切って詫びた方がいいか?」

「いや、いい」

「遠慮すんなって!」

「マジでいい」

 折角書いた移動願いに、長可くんは“今のやっぱなし!”と書き足した。なほやむ!
 そしてサラサラっと“むさし”と署名した。

「昼って書ける?いま昼だし」

「昼う?んなの要らねえな。ま、書けっけどよ!」

 ひる。が追加される。ナマエはすごくはしゃいだ。
 
 ────ひるむさしだ!かわいい!

 ナマエは思わず、ニコ…と音が出そうなくらいに満面の笑みを浮かべてしまう。同じく笑顔を向けた森長可であったが、目はあまり笑っていなかった。

「なんかよ、腹立つんだよなその顔」

 なんでさ。