装備していたレザーSシールドが随分前から黄色になっていたのは知っていたが、シノン軍に買い足す程の余裕が無いことは知っていたので黙っていた。
現在装備品や馬を買い足す資金は無いし、唯一あるリペアストンはその程度の装備品に使う道具ではない。
それに軍の大将であるリース様のロードグラムも真っ赤。だから言えずにいたのだ。
しかしまさか、それだけの理由で死ぬことになるだなんて随分笑えない話だろう。
敵の攻撃を受けて砕けた盾を投げ捨てるが、防御は間に合わない。
眼前に迫る槍に目を閉じる。
体力は残り少ない。回復役のオルウェン殿は数ターン前に体調不良で撤退した。
抱えた捕虜を解放する暇も無い。
自分に武器手入れのスキルが付いてればと後悔しても遅い。最早これまでだ。
しかし、やって来る筈の衝撃は来ない。
恐る恐る目を開けてみると、漆黒の鎧と大きな盾を身に付けた青年が私の前に立っていた。
呆然とする私を置いて、青年は戦場に合わない穏やかな笑みを浮かべて言うのだ────間に合ってよかった、と。
▽
戦が終わった後、大漁の捕虜を牢屋にぶち込んだナマエ達はマリーベルの店で食事を取る。
戦闘前後限らずお世話になっているが、ナマエは特にカニ料理が好きだ。
命中率上がるし。命中率すごく上がるし。具体的に言うと20くらい上がるし。
…命中率のことしか気にしていないから先程のような失態を犯してしまったのかもしれないが。
「儚げな顔の…それまた大層な美形のお兄さんでさ、すごいかっこよかった!」
「あーそりゃあれだろ、死に掛けて補正がかかってんだよ。実物見たらガッカリするやつだぜ」
「…君は余計なことしか言わないよね」
酒を煽りながら適当に流すのはエルバート。
どうでも良さそうな顔をしているが、クリスの手前いい顔をしたいのだろう、一応聞く姿勢を見せている。
対する彼女は心当たりがありますと呟いた。
「それはきっとマーセルさんですね」
以前バンミリオン様の代わりに出撃した戦の際に仲間になった装甲騎士ではないか、とのことだ。
代わる代わるに傭兵が入ってくるこの軍で端的な情報を言われるだけで名前が出てくるクリスに感嘆する。
ナマエは頻繁に世話になる衛生兵以外殆ど覚えていないと言うのに。
ナマエはクリスに礼を言って立ち上がる。そのマーセルさんとやらにもお礼を言わねばならない。
剥ぎたての帝国騎士丸盾が、がしゃんと鳴った。
例の彼は思ったより早く見つかった。柔らかそうな金髪に、漆黒の色をした鎧。
並の兵士では持ち上がらないであろう大盾を難無く装備しているだけあって、体格はかなり良い。
ナマエは深く深呼吸をして、呼び掛ける。
「あの、貴方がマーセル様ですか?」
振り返った青年は不思議そうな顔をした。細められた碧眼が目に眩しい。
…やはり錯覚などでは無かった。どこからどう見ても目の冴えるような美形である。
緊張からか畏まりすぎて様を付けてしまったが、この容姿ならば様でも問題無い。というかマーセル様としか表しようが無い。
麗しい御尊顔がナマエに向いて、思わずほう…と息を吐いた。
「はい、私がマーセルです。君は?」
「ナマエと申します。昼間は危ないところをありがとうございました」
「そうか、あの時の…その様子だと大丈夫そうですね」
マーセル様はそれは良かったと言ってくださった。
重ねて言うがナマエは決して面食いというわけではなく、騎士団の面々もそれなりに整った容姿をしているので目をかなり肥えている。
しかしまあ、若干補正が掛かってしまってるのは間違いないだろう。
エルバートの言うことも強ち間違いというわけではなかったわけだ。
「わざわざ礼を言いに来てくれてありがとうございます。…もうこんな時間ですから、送らせてください」
ああ、このお方顔が良いだけでなくなんと紳士なことでしょうとナマエは射抜かれまくりである。
しかも、流れるような動作でスマートに話を切り出した。どこかの待ち伏せしか能の無い騎兵や命中率の低過ぎる弓騎士とは大違いだと本人達が聞いたら怒りそうな感想を抱いて、控えめに返事をする。
最大限淑やかに申し訳なさそうに言ったつもりだが、多分頬はニヤついてる。思わぬ好調に気分の舞い上がりが抑えられなかった。
これをナマエと旧知の仲である騎士団の連中が見たら驚くだろう。比較的冷静で、常識的であり現実主義の彼女が恋に現を抜かしまくってるのだから。
マーセルと当たり障りの無い会話をしながら帰路を歩んでいると彼の懐から何かが落ちた。四角折の白封筒に可愛らしい色の封。
…ナマエはなんとなく察しが付いたのだが、カマトトぶって何も知らない女のふりをする。
「何か落ちましたよ。これは…?」
「ああ、これは武器屋の方から頂いたのですが…恐らく請求書です」
それは誰が見ても恋文ですよと思ったがナマエは何も言わない。わざわざ人に塩を送るような愚策はしない。
しかし同時に大きな衝撃を受ける。予期せぬ敵の登場よりも、マーセル様の鈍感の方が強敵なのでは…と恋の波乱と難関に頭を痛めるのだった。
▽
「ナマエさん、あまり前に出過ぎないように。弓兵を倒すまでは私の後ろに隠れていてください」
「はい、マーセル様…!」
これは先週の話。
「あそこに民間人が隠れているそうです。すみませんが先に行って守って来てくれませんか。直ぐに私も追いつきます」
「お任せください、マーセル様!」
これは一昨日の話。
「申し訳無いのだが、武器の余りを持っていないだろうか。先程の戦闘で壊れてしまって…」
「大変マーセル様!こちらのナイトソードを…いえ、袋ごとお持ちください!」
…これは、先程の話。
「…いつも思っていたのだが、君はどうして様付けで呼ぶんだ?ナマエも私も一介の騎士…同じ立場だと思うが」
そして現在。マーセルはナマエのなんとも言えない態度に頭を悩ませていた。
自分は貴族だとか、将軍職だとか、別段そういった立場では無いのにナマエが様付けで呼んでくるのである。
シノン軍に加入してから暫く経つが、軍内で一番移動力の低いマーセルと軍内で一番移動力の高いナマエは何故か一緒に行動することが多く、名前を呼び合う機会も多い。
だからこそ余計に気になる。
一方のナマエはと言うと「むしろ新入りの私の方が敬うべきなのかもしれないのだが」と大真面目に言うマーセルに言葉を詰まらせていた。
わざわざ飛竜から降りて移動力を無駄にしてマーセルに歩数を合わせる理由…そんなの、そんなの!
ナマエが彼と一緒に居たいからに決まっている!
その普通ならば考えられないような組合せは、リース様に提言した言葉が元凶である。
「命中底上げする支援効果付けますから私頑張りますから。隣接状態で知命攻撃確定くらいまで頑張りますから」
有り得ないゴリ押しで頼み込んで実現したものである。
そのあまりの必死さに、普段は爆笑しながら馬鹿にするであろうレオンがマジな方向の苦笑いを零したほどだ。
「え、えっと…」
様付けしたいくらいに貴方が素敵すぎるんですと正直に言う勇気は流石に無い。
暫く返答に困っていると、他でもないマーセルが助け舟を出した。なんだ、このパーフェクトイケメンは。
「私だけ呼び捨てというのは居心地が悪くて。もう少し気軽に呼んではくれないだろうか」
そんな恐れ多いこと出来ませんと思う自分と、これが距離を縮めるチャンスなのでは!?と思う自分が葛藤する。
自然に訓練の時間を合わせたり、移動時にフォローに回ったり、さりげなく口調を崩してもらって構わないと言ってみたり、ここまで長い道程であった。
そして当然のように勝利したのは後者である。
「で、では…マーセルさんとお呼びしたいのですが…!」
「ああ、そう呼んでくれると助かる」
普段は硬い表情をしている彼が柔らかく微笑まれたので、やっぱり私はこの人の笑顔に射抜かれてしまったのだろうと、ナマエは緩く火照る頭で思考していた。
“弓兵なんかよりも貴方の方が怖いですよ”なーんて臭いセリフが浮き出てくる始末だ。勿論口外はせず、慌てて払拭した。
まだ好感度は上げ足りない。
動くにはまだ早いと脳内軍師が指揮を出したので暫くは彼の隣で少しずつ距離を縮めたいなあとナマエは思うのである。
「では私達も進軍しよう」
「はい、マーセル様!」
ナマエは咄嗟に同じように返事をしてしまい、それを聞いたマーセルは可笑しそうに笑った。
「慣れないようだったら少しずつでも構わない」
「は、はい…マーセルさん」
この後、空気の読めない帝国兵が大量に湧いてきたので死ぬほど致命攻撃を食らわせたのは言うまでも無い。
恋する乙女の火力は凄まじかった。
▽
「おー、ナマエ。遅かったじゃねえか」
マリーベルの店の一角で、レオンがひらひらと手を振る。
その横にはアデルの姿もあり、なんだかこの面子で食事をするのは久々のような気がした。そのようなうまをぼやけば、呆れた顔で返答が飛んでくる。
「それはお前が前より一緒に居ねえからだろ。これ終わったら飯行こうぜーなんていっつも戦場で約束してたじゃねえか」
「そうだっけ?」
「ああ。なんでか知らねえけど最近お前別行動多いだろ」
「あー、そうだね」
右手を上げて自分の分の料理を頼もうとしたが、既にレオンかアデルが頼んでいてくれたらしく、目の前にカニの甲羅焼きが二皿と白身魚のハーブ焼きが置かれる。
恐らく白身魚はレオンのものだろう。何故なら彼は甲殻類全般が苦手だからだ。味の分からん山育ちが!
ありがたく甲羅にフォークを突っ込み、できたての熱いそれを頬張る。
カニの身と味噌の混ざった濃厚な具材の殺人的な熱さに行儀悪くもはふはふとしてしまったが別に見られて困る相手はここには居ない。
呆れたようなアデルが言葉を零した。
「…なんというかナマエは猫を被るタイプだな」
「好きな相手には良いとこだけ見せたいでしょ!誰しもそうだと思うけど!」
君だって例の子口説いてるんでしょうが、とナマエが言ってやれば気まずそうに視線を逸らされた。
彼は普段が優等生で真面目な分かなりわかりやすい。こういった稼業においては、頑張ってポーカーフェイスに努めた方が良いと思う。
「なんつーか、ナマエもアデルも色恋に忙しいんだな。エルバートも前からああだし、シロックも最近そうだし」
「言われてみれば。リース様もリネット様大好きだしね」
「…滅多なことを言うんじゃないぞ」
「ああ、そういや」
マーセルにも女が出来たらしい、とレオンが白身魚を突きながら大した興味も無さそうに言う。
しかし、ナマエにとっては大した話では無い。
これからの身の振り方を決める重大な話だ。激しく動揺した彼女の手の中で水の入ったグラスが粉砕される。
ぱりん、と軽い音がして、机の上を水浸しにした。カウンターの奥で料理を作っていたマリーベルの顔が青ざめる。
「おい、レオン!その話は…!」
慌てた顔のアデルが制止したが、今更遅い。
彼がフォローに入ったことで修繕不可能な墓穴を掘ったにも等しい。そんな単純な話を見抜けないほど彼女は馬鹿ではなかった。
話は極めて信憑性が高いのだと、ナマエは直様立ち上がる。
完全に腰の抜けたレオンの襟に掴みかかり片想いの相手の前では決して見せないような形相で迫った。
「その話、詳しく」
▽
レオンの話に寄ると、案の定相手は武器屋の子らしい。
知ってるよお!手紙書いてもんね!
ナマエは内心ガックガクである。
彼女は一旦は振られたらしいが結婚詐欺に引っかかり掛けたところを助けてそのまま…と、聞くだけで震え上がる心地だ。マーセルさんは、どう思っているのか。
いや、兎にも角にも、元を抑えるのが先か。
マリーベルの店を出て、道を全速力で駆け、乱暴に武器屋のドアを開ける。
そして不思議そうな顔で此方を見ている赤い髪の彼女に真相を問いた。…嘘だと信じたかったが現実は非情である。
話の中心である武器屋の娘、セシリーは「彼さえ許可してくれれば、一緒に連れて行って貰うつもりです」と大層うっとりした表情で惚気るので、ナマエは完全な敗北を悟った。
死。辛くて死んだ。
親密になったタイミングを予想するとすれば、以前に雪山へ出撃したときだろうか。
戦闘が終わり、ナマエはいつものようにマーセルに駆け寄ろうとしたのだが。
珍しく真面目な顔をしたエルバートに止められてしまった。
「今はそっとしておくべきだ」
と。
だがまさか、それがこんなところで回収されて、バカでかいタマになってやってくるとは。運命とは数奇なものである。
「あの方、物語に出てくる騎士様みたいで…誠実で凛々しくて…」
大変わかる。
すごくわかる。ほんとうにそう。
ナマエは頷きそうになったが必死に堪える。
ここで同意してしまうのは、僅かに残っている認めたく無い気持ちが許さなかった。
おめでとうございます、ありがとうございました、と自分のものとは思えないほど力無い声が口の端から零れ落ちた。
そのままとぼとぼと帰路に付けば、愛してやまない麗しい金髪が目に入った。
しかし、今の自分に駆け寄る元気は無いし人の恋路を祝福出来る余裕も無い。
大好きな人の幸せさえ喜べないとは、自分はなんてダメな人間なのだろうか。
自己嫌悪は止まらない。しかし、仕方なくないか。ナマエはほんとに、マーセルさんが大好きだったのだ。
普段の険しく、研ぎ澄まされた凛々しい美貌も。
人々を守り、正義を貫くための厳しさであると知っている。あとちょっと、カタイ。不純異性交遊、お嫌いそう。そこが良い。
時々見せてくれる、神々しささえ感じるほどの穏やかで優しい微笑みも。
これがマーセルさんの本来の気性で、大変に優しく、潔白で心の清いお方であるといつも思う。
子供を見る目は一層暖かいもので、国と民を護りたいがため、彼は剣より盾を取るのだ。
そしてそれを伝えると、照れたようにはにかんで、このお方も人であるとナマエは痛感する。
規律正しく、気高く、美しく。神がお造りになったのか?とさえ思う、完璧なそのお人が、年相応の振る舞いをする。
その瞬間が、堪らなく大好きだった。
そんなみんなの勇者さまが、セシリーの勇者さまになってしまった。
ナマエは、幾らマーセルさまが好きだと言っても、選ばれた方を疎んじたりは決してしない。大好きな人が選んだ女の子であるから、きっとナマエなんかよりもずっとずっと可愛くて素敵な人で、ナマエの知らない、美しい心の触れ合いがあったのだ。
それを思えば、今すぐに祝福は出来ずとも、邪魔にならぬように距離を置くくらいなら出来る。
あと正直、いま顔を合わせたら辛すぎて死ぬ。
ナマエは報われずとも、大好きになってしまったこの方に尽くせれば良いと思ってはいたけれど、やっぱり、それはそれ、これはこれである。
平民の出であるナマエは強かであったし、どうしても打算ありきで生きてしまう。あわよくばという心が有ったのも、本当のことだ。
そしてそれとは別に、純粋に憧れのお方にべったりのままでは、彼を困らせてしまう懸念というものがあった。
一番不本意なのはそれ。迷惑をかけてしまうことだ。
だって、お付き合いをしている男性が、職場の下心アリアリの女に付き纏われて、セシリーは良い気分になるか?
ナマエは、絶対無理。
─────明日から飛竜兵に戻ろう。配置も変えてもらおう。
まあ色々まとめて言えば。
セシリーを妬かせないことと、うっかり恋慕打ち明けてマーセルを困らせないようにするため、なるべく近寄らないようにすること。
それが、いまのポンコツのナマエに出来る、マーセルさんへの献身なのであった。
▽
マーセルと彼女の付き合いは、戦場ありきのものである。
たまたま窮地を救った相手がナマエで、彼女は過剰なほどに感謝をしていた。同じ軍に居る以上、助けるのは当たり前だとマーセルは思っていたし、そこまでする必要は無いと言ったのだが、彼女は譲らなかったのである。
聞けばナマエは正規兵でなく、傭兵上がりらしいのだが、そうとは思えぬほどに、義理堅く、忠義に厚い。
そんなところを、マーセルは好ましく感じていた。
そして、そのような堅いところからは想像が付かなかったほど、人懐っこい性格であったナマエは、リース様に仕える身となって新しいマーセルに随分と良くしてくれた。
今現在、浮かず良好に人間関係を構築できるのは、ほぼ彼女の仲介あってのものだったし、ナマエは気遣いが上手だった。
申し訳のない話であるが、ソリの合わなそうな相手とは、適当に話を切り上げてくれるのである。
彼女という人間をマーセルは尊敬していた。ナマエは仲間たちの食の好みも把握しているらしく、いつもそっとリース様に提言をしている。
細やかな心配りが出来て、当たり障りのない自然な所作で最善を行う。それを誇ったりもせず、涼やかな顔で主君を立てるのだ。
マーセルは硬すぎるきらいがあり、そういったことは少し不得手であったし、ナマエに大いに助けられてきた自覚がある。
ナマエと過ごすのは気が楽で、心地良い。
彼女は賑やかだが、耳障りということはなかった。
マーセルに暖かさをもたらす、春のような明るさを持っている。
▽
そんなナマエの配属が変わったのは、突然のことだった。
仲が良いと自負するほどには食事も共にしていたし、ナマエが側に居ると攻撃が命中しやすくなったような気持ちになった。
カニがミソなのだと、言っていたような気がする。
少し寂しくなるが戦略上の理由ならば仕方ない。
しかし朴念仁のマーセルでも分かるほどに、以降の態度は露骨によそよそしい。
以前は殆どナマエから話し掛けてきていたというのに現在は全くない。
それどころか姿を見つけて、声を掛ける前に何処かへ消えてしまう。
いつもならばマーセルが訓練に行くと大抵ナマエが先に居て、熱心なことだと感心していたのだが。
わざとタイミングをずらしているのでは、と思うくらいに見掛けなくなった。
…まあ、実際にはマーセルの訓練する時間を見計らって、ナマエが先回りしていただけなのだが。
彼女の言った”偶然ですね”を彼は全面的に信じていた。
マーセルは自力で探そうとあれこれ散策したが、結局見つからず終いだ。
恥を忍んで彼女と仲の良いレオンやアデルに尋ねてもみたが、不自然に話を逸らされるし、マリーベルには女心が分かってないと一蹴されてしまった。
彼女はカニの甲羅焼きが大好物だから、定期的にこの店に来ていると思ったのだが。
何が”分かってない”のだろう、そう真剣に考えるマーセルは、結構かなりどうしようもない。
時計を見ると、既に訓練を始めなくてはならない時間だった。
別に規則は無いが、真面目なマーセルは大体同じ時間に剣を振っている。
諦めて踵を返そうとすると、ティアンナが緩やかに笑いながら声を掛けてきた。
「何か御用ですか?」
「いいえ、そういうわけではないの」
うふふ、と至極楽しそうに指先を口に添える。
なんだか馬鹿にされているように思えるが、無闇に人を疑うべきではない。
それに、ナマエの不在は、思ったよりもマーセルの気を落ち込ませているようで、憤りよりも虚しさがやって来た。
そんなマーセルの心情を汲み取ったのか、ティアンナは可笑しそうに助言をする。
「私はセシリーに塩を送ったから、ナマエにも同じことをしてあげなくちゃね」
「…それは、どういう」
「いつも訓練してる崖に行って見るといいわ。あの子、最近は貴方が帰った後に頑張っているようだから」
それじゃあ、頑張ってねとティアンナは去った。
あの雪山の任務の後、セシリーが迷わずマーセルの元へ来れたのは、そういうことだったのかと納得する。
そして、何か理由があって避けているであろうナマエには申し訳ないと思いつつも、マーセルは己の疑念を晴らすため、ひいてはナマエと以前のように話がしたいがため、足早に崖へと向かったのだった。
▽
到着すると、言われた通りに彼女はそこにいた。剣を振り一心不乱に訓練をしている。マーセルが駆け寄って声を掛けようとすると、驚いた顔の彼女が一歩後ずさった。
そしてそのまま困った顔で此方と道を交互に見て、逃げ道を探しているが、ここで逃がす程マーセルは愚かではなかった。
「ナマエ。私は何か君の気に触ったのだろうか」
声を掛けられたナマエは流石に逃げることを諦めたようだ。
激しく動揺して、今まで見たことの無い弱気な表情をしている。その顔をさせたのが自分だと思うと、酷く胸が痛んだ。
「ち、違います…マーセルさんは何も悪くないんです…私が勝手に避けてるだけです…!」
「では、理由だけでも聞かせて欲しい」
久方振りに聞いた声に彼はどこか安心を覚える。
戦のことしか考えないと思っていた自分が、なんだかんだ言って絆されてしまっていることに初めて気が付いた。
そして、その変化を悪いことだとは思わず、幸福なことだと感じる。
彼女のもたらした暖かさというのは、そういう類のものであった。
▽
一方のナマエはといえば「言わなきゃ分からないのかこの朴念仁は!」と頭を抱えていた。
しかし、ここで踏み切れば友人として側に居ることも出来ない。
もう二度と彼の横で笑うことは出来ない。頭では分かっているけれど。だけれど。
「ナマエ…?」
ナマエはこれでも、もとは蛮勇を知らぬ堅実な傭兵であった。
勝てる戦場と陣営を選び、手堅く成功を納めて来た。敗北は無い。逃げ戦は嫌いだ。勝てぬなら、戦わない方が良い。そちらの方がより儲かるし、無駄なリスクがない。
だが、いま不戦敗して、何になるというのだ。
それに、善意ゆえに心配しているマーセルさんに不誠実だと思う。
ナマエはやはり彼が好きで、愚直なまでの誠実さもまた、大好きだった。
それに、こう言うとみっともない女であるのだが、言わずに終わるのは自分に対して失礼だと思うのだ。だって、ナマエは本当にマーセルさんが好きなのだ。
それを彼のためだと言って、意気地無しの言い訳にするのは、あまりにも失礼だと感じる。
だから、ナマエは息を吸って、破裂しそうな心臓の音を聞いた。酸素が頭にクルクルと回るような心地である。
「マーセルさん」
呼ばれたナマエの勇者さまは、その佇まいを真っ直ぐに向けた。
うつくしい金の髪が、風に揺れて透ける。
「貴方を様付けしていたのは、まるで貴方が王子様のようだったからです」
助けてくれたマーセルさんの姿が、今でも鮮明に思い起こせる。
川原で微笑む彼は、この世の何よりも格好が良く、あの瞬間だけは、きっとナマエだけの騎士さまであった。
「そうなのか…」
マーセルは驚いたようだったが、真剣な顔で話を聞く。
こんな切り口で話し始められたのに、茶化したりしない。そんなド真面目なところもナマエは好きだった。
「竜騎兵の私が貴方と組んでいた理由…それは他でもなく、マーセルさんのお役に立ちたかったからです」
助けてくれた恩返しをしたかったから。お側に居たかったから。
移動力を捨てて、武功を投げてでも、マーセルさんのために尽くしたかった。
「貴方を避けていたのは、このままだと気持ちを抑えられないと思ったからです」
ここまで言えば流石にマーセルでも気付いた様子だった。
常に細心の気遣いを払っていたナマエには、一度たりとも向けられることの無かった困惑。
初めて見る表情で、マーセルさんはなにかを言おうとしたが、ナマエはその暇を与えない。
「私、貴方が好きです」
飾りのない、心からの気持ち。
「助けて貰ったあの時から。私に笑い掛けてくださったあの時から」
これ以上に無いくらいに微笑んで見せた。
あの時の彼の微笑みには及ばないけれど、それでも不器用に笑って見せた。
重ね重ね言うが、マーセルさんに迷惑をかけるのは嫌なのだ。これが最後のつもりで、一番の笑顔を作る。ナマエはちゃんと、笑えているだろうか。
「ですから私は貴方を避けなくてはなりません。マーセルさんの妨げになりたくはない。…この思いを打ち明けてしまったのですから、仕方の無いことです」
さようなら、と踵を返す。
後ろを向いた瞬間、涙腺が壊れて今にも泣いてしまいそうだ。だが、ここで泣いてはマーセルを困らせてしまう。ナマエは必死で堪えた。
「ナマエ」
不意に腕が掴まれて、怒ったような声が掛かった。
ああ、規律を乱すなと叱責されてしまうのだろうか。今の状況でトドメを刺されたら、流石に二度と立ち直れない。
「言いたいことは、それだけか」
鋭い双眼がナマエを射抜く。
澄んだ青色が自分だけを映していて、どこか夢心地に感じてしまうのだから、恋とは恐ろしいものである。
冷ややかな声さえも、好きだと思う。
「いつ私が君のことを邪魔だと言った」
「言っていませんが、振った女が側に居るのはやりづらいでしょう!」
「拒んだ覚えはない」
「えっ…!?」
拒んだ覚えは無い。
それは受け入れてくれるということか…!?と思ったが、彼には武器屋の子と付き合っている大前提があるのだ。
浮かれそうになる気持ちを抑え、ナマエは呆気に取られつつ慌てて思考する。
マーセルには恋人がいる。
私は降られていない。ならば、と彼女は声を張り上げた。
「愛人なら良いんですか!?それとも第二妻としてなら迎えてくれると!?」
─────ナマエが出した咄嗟の答えは、控えめに言って最悪だった。
どうしてそんなに屈折した結論が出たのだ。
事情を知らないマーセルは頭を抱えたくなるが、瞳からぼろぼろと涙を零すナマエは必死な顔をしていて、冗談で言っているわけでは無さそうなところもタチが悪かった。
「待ってくれないか。どうしてそんな話になったんだ」
「だ、だって…マーセルさん、武器屋の子とお付き合いしているんでしょう…?」
「………は?」
沈黙が静寂を連れてくる。
ナマエの言う言葉に、今度はマーセルが頭を悩ませる番であった。
「私が?セシリーと?」
「ええ。そうです。お付き合い、おめでとうございま…うっ、うっ…」
ナマエはとうとう泣いてしまった。
はらはらと溢れる透明な雫は、石の上に染みを作る。マーセルはギョッとして、慌てて手を伸ばそうとしたが、ナマエにはせめてもの矜持がある。指を拒めば、彼は困った顔をした。
マーセル自身はそんな顔を、させたくなかったと言うのに。
「いや…そのようなことはないのだが…」
「えっ」
二人の間に微妙な空気が流れる。
マーセルはどうしてセシリーの話が出てくるのだと、本気で考えて見たりしたのだが、当たり前に結論は出ない。
「確かに告げられたが、断った。私は彼女の想いに応えられる人間ではない。それに、君にセシリーのことを話した覚えは無いし、どうにも歪んだ認識が見受けられる」
「えっ、うそ…」
「…その噂の出所はどこだ?」
尋ねて見れば同僚であるレオンの名が上がり、マーセルは事態を拗らせたことに多少の殺意を覚えた。
一方のナマエといえば、この世の終わりのような表情から一変、花が開いたように嬉しそうに笑っている。
割と最悪の喜び方であったが、なにせ、嬉しかったのだ。マーセルと話せないことは、何よりも辛いことであったから。
「ほ、本当ですか…!」
「そのような嘘を付く必要はないだろう」
答えてやれば、ますますナマエは泣きじゃくる。
そして、そのまま告白の返事を忘れて立ち去ろうとするので、マーセルは今度こそ引き止める。細い手首は、普段の勇敢な槍さばきとは結び付かない。
当の彼女は、先程の告白が完全に記憶から抜け落ちているのか「どうかしましたか」と首を傾げた。
ここまで言ったナマエに、思わせぶりの半端な態度で居るのは、不誠実であるとマーセルは思う。
彼は決断する。
これはナマエのためであったけれど、それと同時にマーセルのためでもあった。
「…ところで、話を蒸返すようで悪いが」
こほん、とマーセルはわざとらしく咳払いをした。
若干頬が紅潮しており、照れ臭そうな表情を浮かべる。そして不思議そうな顔をした彼女の左手を取って見せた。
「この戦いが終わったら、私と共に来ては頂けませんか」
再び目元を潤ませたナマエの返事なんて、言うまでもないだろう。