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君が生きるは僕が為

以蔵は惚けていた。
生気が抜けた…とまでは言わないが、どこか上の空。ぼんやり。身が入っていない。指摘されずとも、自覚がある程に。

彼女のためにと彼女を手放した訳だが、未練が無いとは全く言ってない。
そもそも以蔵は元来繊細で真面目。悪く言えば女々しい、総じて割り切りの悪い粘着質な性格をしていた。終わったことを悔いるのは最初から分かっていたことである。

だが、それでも。きっとこれで良かったのだと、そう思っている。

というかそう思わないとやってられない。
間違って居なかったと、最良だったと思っておかないと何もかも救われない。
 
以蔵の幸福を望んだ彼女は、今の以蔵を見ればきっと“失敗した“と悲観するだろう。だから以蔵はこれで良かったと前を向いて居なくてはならない。
だって彼女は、戸惑いさえも無くそうとしたのだから。ストレスを取り去って、甘い毒の海で共に溺れる道を選んだのだから。

その原因は、以蔵の持っている根暗な面。簡略に言えば、後悔や責任の放棄。「ああすればよかった」「こうすればよかった」「どうしたらよかったのか」そういう類の今更考えたって仕方の無いことばかり。
 
そして彼女は以蔵がそういった”むずかしいこと“を考えるのが嫌いだと知っていた。だからそれを全て委ねるように誘導されていたのだと思う。
彼女の言葉が正しいと、従って居ればそれで良いと、そう思うように刷り込まれていたのだと思う。

思惑通りとはいえ、己の思考を捨て、次を聞く以蔵に彼女はどう思ったのだろう。もしかしたら、内心呆れていたのかも知れない。

自然と後悔と恨み辛みに流れそうになった自身を叱責し、暗く沈みかけた気分を無理やり払拭する。
彼女を疑うな。そんな人じゃない。あの娘ならば、きっと哀しんだだろう。それで最善と思いながら、自身の気持ちと相反する選択に後悔をしただろう。
だけれど、それが以蔵のためだと良しとしたのだろう。

そこまで考えて、今の自分と全く同じことをしているじゃないかと思考が堂々巡りする。一度辿り着いた結論であるが、後悔というものは円になって回り、巡るものである。
 恋は結局、現実の前にヒビ割れるのだと。人間観察が趣味の文字書き先生が言うにはこうだ。

「女の恋は現実に折れた。だが、愚かな女は諦められなかった。時を重ね腐敗した愛で、仕方なく現実を歪めることにした。だがな、彼女の恋は強烈過ぎた。いつまでも燻って、女自身を焼き続ける。それを憐れに思った愛される男は、女の息の根を止めてしまう。結局女の愛は、己自身の恋に負けて滅びたということだ」

とのことである。どうしたって難しい話は嫌いだったが、全くもってその通りだと関心した次第だ。

今でこそ藤丸立香という魔術師らしくない、強く弱く優しく非道く泥臭くも高潔さを持ったマスターに恵まれたが、当然立香は彼女では無い。
とゆうか、生前も召喚も引っくるめて“以蔵を最優先した”人間など二度と存在しないだろう。

だからこそ以蔵は彼女に依存したし、好きになった。だけれど今はそうではない。彼女は以蔵を知らないし、知ったところで世界の何より愛することなど無いだろう。
しかしそれでも、以蔵は彼女を好きで居続けている。一度懐に入れたものに縋り続ける性質を、きっと彼女は見抜いて居たと思う。ぼんやりしているようで、聡く狡猾な慧眼の持ち主であったから。

全くもって厄介な呪いを遺してくれたものだと苦笑していれば、部屋のドアがノックされる。間髪入れずに入って来た不届き者は、己が“現”マスターであった。
何の用かと聞けば、藤丸立香はちょいちょいと指をこまねいて、外へ出るように促す。

そのまま言われるがままに着いて歩けば、マスターはニコニコと笑って以蔵の袖を引いた。
今日は良いことがあるよ、と意味深に微笑んで、長い廊下を真っ直ぐに歩き出す。

生返事を返してなんとなく暦を見れば、三月だったそれが四月に変わっている。
えいぷりるふうる、と思い出した。昨日散々からかわれたが、引き続き今日も継続する気なのだろうか、このマスターは。

しかし逆手に取って出し抜くのも悪くない。大人しく後に続けば、見通しの悪い通路の前で藤丸立香は立ち止まった。

運命を、信じている?

マスターは、そう聞いた。
返答に困って藤丸立香を見下ろせば、明るい声色とは裏腹に鋭く眩い瞳が以蔵を写していた。

運命。その言葉で思い出されるのは、一人の名前だった。
申し訳ないが、現マスターとの間に運命は感じていない。以蔵にとっては数少ない特別なマスターであっても、立香に取っては数あるサーヴァントの中の一体でしかないと理解しているからだ。
それに藤丸立香の運命は、あの少女だろう。マスターが男でも女でも、きっと彼女が運命だろう。それくらい、以蔵にも理解出来る。

坂本龍馬と言えば、運命と言うよりは腐れ縁である。結ばれた縁は有るのだが、生まれが違えば逢えなかったような気もする。生前の縁が絡まり合って、腐って、糸を引いているのである。

あの日出会った運命は、今も以蔵に遺り続けている。遠の昔に縁は切れているが、いつか巡り会えるかもと思ってしまっている。
それは、信じているにカウントされるだろう。小さく頷けば、マスターは満足げに頷き返した。

そして、へへへと無邪気に笑って─────袖を、思い切り引っ張ったのだ。わざわざ、令呪を切ってまで。

とん、と胸に何かが当たって後ろに飛ぶ。多分相手も人間である。それもサーヴァントではなく、普通のカルデア職員だろう。

「な、にを」

怒りよりも驚愕が大きかったが、怒鳴るように振り返れば既にマスターは居なかった。呆然としながら立ち上がって、ぶつかった相手が居たことを思い出す。
そうして、時が止まったように世界は音を無くす。夕立が止んだ空のように、空気に音が吸い込まれて行く。

尻餅を着いた少女、いや、女性だ。
ぼんやりとした顔に、曇天のような瞳。薄く開く唇は冷えたように少し血色が悪い。
指先が震える。ここには居ないはずの姿に、頭が拗れる。落ち着かない視線をネームプレートに写して、見知った名前であると胸が早鐘を撃つ。

しかしそれが嘘であるということを思い出して、苦虫を潰したような心地である。
なんて趣味が悪い。彼女であるだけで最低なのに、有り得ない筈の成長を添えてくるとは。なにも、こんな非道いことをしなくても良いでは無いか。
 
そいつを睨み下ろせば、彼女の姿をしたそいつは竦んだように立ち上がるのを止める。
どうせ酒呑み仲間の新宿のアサシンだろう。能力の使用を好まないくせに、何故こんなところで使うのか。マスターがこんなことに乗ったのは腹立たしいが、まずはこいつからとっちめるべきだと判断する。

「どういう嘘じゃ。変装なんぞして、趣味が悪いと思わんがか」

唖然とした顔のそいつは「嘘…?」と困った顔をした。そんな表情までコピーするとは、本当に意地が悪い。
どこまでも弱そうで舐めてしまいそうな脆弱な印象を与えるそいつは、心底途方に暮れたような瞳で薄く声を発した。

「あの、新宿のアサシンさんと間違えてるのなら、違います」

「嘘を吐くな。昨日散々からかって来たじゃろうが」

そう突けば、ううん、とそいつは唸った。騙せないことに頭を悩ませたのかと思うと、少し愉快であったが、やはり腹立たしい。その顔を使うのは、超えてはならない一線である。
そうして、そいつは思い付いたようにア、と感嘆符をあげる。

「エイプリルフールは、昨日ですよ」

ほ、ほら、とそいつは腕に付けた時計を見せてくる。文字盤の下に小さく、四月二日と記されていた。
しかし、以蔵が目に止めたのは其処ではない。彼女の手の甲には、薄く、赤く、四角の線が走っていた。そこから漏れ出す魔力は見知ったものであり、それは、その跡は。間違い無く。
新宿のアサシンは外皮と霊基こそ模倣するが、令呪までは書き移せない。それが答えだった。

彼女は、あのおひとは、やはり強かったのだ。弱いから護るだなど、思い上がりだったのだ。だって、現に彼女はこうして生きている。
記憶の中の彼女は藤丸立香と同じくらいの姿だったのに、此方の彼女はそれよりも数歳上に見える。それは彼女が生き抜いた証拠であり、以蔵こそが彼女に不幸を齎したという結果でもある。

「おまん、わしが誰だか知っちょるか」

確信を得ていて、第一声がそれである。素直になれない自分に腹立たしく思いながらも、彼女の答えを待つ。
要するに、あっさりと名前を出された新宿のアサシンに妬いているわけだ。誠に不本意ながら。

「ああ、えっと」

相も変わらず涼やかな声だった。
彼女の声はハッキリと思い出せるが、もう少し高く落ち着きの無いそれだっただろう。
少し怯えたような目が、申し訳無さそうに取り繕った顔が、色も無く以蔵を写す。

当たり前だが、そこに特別な感情は無い。怪訝そうに見るほど、彼女は子供でも無い。
尻を床に付いたまま彼女は聞いた。

「坂本龍馬さんですか?」

ああ。なんということだ。
彼女はいつだって、短慮が過ぎる!

「土佐訛りだけで判断したんか?はっ、馬鹿じゃのう」

憎まれ口しか叩けないのか、この口は。
もどかしく思いながら、右手を出す。向けられた彼女は、意図を理解できなかったのか、不思議そうに見上げて、そうしてやっと恐る恐る手を乗せた。それは温く、暖かい。嘗ての冷えたそれではなく、蝕まれることもなく、彼女は生きている。酷く幸福だと思った。

尻餅を付いた女。それを見下ろす以蔵。運命を感じる、いつかの日と同じ構図。
違うのは、怯えた顔の彼女に手を差し伸べられたことだ。手を取り合う選択を選べたことだ。彼女に全てを、委ねないと決めたのだ。

あの時差して居たのは街灯の光だけれど、今は違う。
窓から差すのは眩いばかりの日光だ。日陰から出て、後ろめたさなど無く、清く麗らかな日差しを浴びている。彼女は因果の鎖から救われたのだと、なんとなく思った。

「サーヴァント人斬り、岡田以蔵じゃ。三度は言わんからのう、忘れちょったら叩っ斬るぜよ」

当然ながら彼女は以蔵を知らない。だけれど、それでいい。積み直せばいい。
ああすればよかった、こうすればよかった、それを実行するチャンスを与えられたのだ。何処まで行っても、彼女という魂は献身的である。そして、残酷である。
有り得ないもう一度を、以蔵に押し付けてしまったのだから。自分が散々苦しみ、踊らされた業を、以蔵に贈ってしまったのだから。

最後はどうか、幸せになれますように。
今聞こえている声よりも少し幼い声が、どこからか聞こえた気がした。きっとそれは、恋に負けて消えた誰かの声だ。何度も入れ替えた世界は、きっと無駄では無かったのだ。彼女の足掻きは、祈りは、最後の最後に届いたのだ。聖杯をメガホンにするなんて、なんと型破りなマスターであるか。そんなところも、面白い。

ついぞ訪れなかった春の日は、吹雪く雪山の頂上だけれど。それでも確かに、眩く強く美しい、あっぱれな快晴の日なのである。