藤丸立香が手にする書類には、魔術を使う者たちの名前が載っている。
後輩に言わせてみれば、有名な家名から聞いたことのない家名まで、様々。暗躍していたレフ・ライノールが保管していた名簿であり、行動記録でもある。
まあ、明け透けの言うのであれば、人理焼却の前準備で彼に干渉された、恐らくは始末された死亡者のリストである。
なんでこんなものを持っているのかと言えば、梅雨頃に召喚されたアサシン────岡田以蔵がそれを閲覧したいと言ったからだ。
通常であればそんなもんホイホイ渡すわけには行かないのだが、立香と以蔵の間で起きている空間の乱れに関係するかも、とのことで特別に許可が降りている。
メタ的に言えば幕間のあれである。大体サーヴァント側に何か思うところがあるとそれが時空の歪みに直結するのだが、やはり本人にも心当たりがあるらしい。
だからこうして書類に目を通しているわけだ。
まあ藤丸立香が書類探しなんぞ出来るはずも無いので、ダヴィンチちゃんにお願いしたのだが。
かの万能の人はこう言った。
「ふんふん、それはあれだね、きっと大事な女の人だね。例えば、キミの前のマスターとか。
ふふん、天才は鋭いのだよ。なんならカシオミニを賭けたっていいよ!」
正直かなり信じられない話なのだが、レオナルド・ダヴィンチの予想だから、本当に信じられない(二回言ってしまうほど信じられない!)がそうなのだろう。
カルデアの召喚形式は通常の聖杯戦争よりもかなり特殊だから、引き継がれない前回のデータなんかがインストールされた状態で来る。
織田信長が言うには、ダーオカとは帝都の聖杯戦争(これは藤丸立香が経験したものとはまた違うらしい。明智光秀ではなく、マックスウェルの悪魔がキャスターなんだとか)で一度会っている、との話だが、其方の記憶は無さそうな感じである。
それとは別の場所で、もっと言うとかなり今と近い時代で岡田以蔵と件の彼女は出会っているのだろう。
藤丸立香の夢の中に現れた少女は、藤丸立香────の視界の元の持ち主である岡田以蔵を愛おしげに見ていた。
現代日本であるのは間違い無く、違いがあるとすれば彼女は以蔵の目を見て「綺麗な赤だ」と呟いたことくらいか。
立香の知る岡田以蔵よりも大分可愛げも容赦も無い風であった彼は、普通の女子高生と契約していたらしい。
なんというか、かなり意外であった。
カルデアが召喚に成功した彼は確かに身内に甘くノリの良い若者…と言った感じであるが、夢の中で見た以蔵はもっと尖ったナイフのようだったし、なんなら盗んだバイクで走り出しそうなくらい素行が悪い印象を抱いたのだが。
本人にそう聞けば「意味は分からんが馬鹿にされちょるのは分かるわ」とヘッドロックをキメてきた。
やはり大分柔和なので、夢の中の彼が同じ男であるとは中々結び付き辛い。
拘束を解いて夕暮れのような視線を落とした男は、一つの名前に目を止めて、驚くくらい優しげな瞳でそれを撫でる。
どうやら、彼の元々のパートナーはとっくの昔にレフの毒牙にかかっていたようだった。
どんな人だったのか、と聞きたい気持ちもあったのだが、故人との思い出を掘り返すほど図太くは無い。
それに多分、これからその思い出の時間にレイシフトすることになる。場所を特定したから早く来たまえと天才の声が放送で聞こえて、以蔵は書類を机に置いた。
そうして少し考える風にしてから、小さく「まあ、そうじゃなあ」と呟く。
驚いて目線を寄越せば、彼は子供っぽく笑った。
「おまんは分かり易すぎるんじゃ」
指摘を少し恥ずかしく思えば、以蔵は可笑しそうに声をあげる。
そうしてひとしきり馬鹿にした後、あん女とは大違いぜよと小さく呟いた。思い出の中の誰かを見ているらしい。
立香がそうなのであれば、比較元はどうだったのか。続きを求めるように橙の目を見つめれば、やはり彼は酷く優しい眼差しをする。
「悪い夢じゃあ、無かったぜよ」
▽
心の迷い、強い怨念、執着。サーヴァントのそんな感情が時空の乱れを生み、ついでにマスターである藤丸立香に夢を送ってしまうのだと言う。
カルデアに召喚されて以降、以蔵は何度も夢に見た。全てが晴れない梅雨の日を。電子の海で泳いだ日々を。夢のような輝く夏を。
それは此処の以蔵にとっては知る筈の無い記憶で、記録で、どうでもよいことの筈だった。
だがこうも毎日見せられて、少女にしては酷く落ち着いた声色で、それはそれは大切に好意を伝えられれば、悪い感情を持つ筈も無い。
そして何より、どの彼女も最後には死んでいくのだ。他でも無い以蔵のために。
だから、少しだけ興味を持った。以蔵のために、命を捨てた彼女に。以蔵のために、拾った命すら捨てた彼女に。以蔵のために、世界さえも焼こうとした怪物に。
そうして気を割いて物想いに耽った結果が冒頭だ。藤丸立香に夢を共有してしまった訳である。
誠不服ながら幼馴染であり腐れ縁であり同郷のサーヴァントである坂本龍馬は、この件について何も言わなかったが、あの女を知っていることは間違いない。
会いに行くとわざわざ言う気は無いが、どうせ分かっているのだろう。
彼にしては、酷く傷付いたような顔をしていた。大方救えなかったことを悔いているのだろうが、以蔵に言わせてみればあんなもの自業自得だ。あの女が悪い。そして救いなんてものを彼女はきっと求めていない。
まっこと不愉快であるが、あの馬鹿女は自己中心に己だけが満足して死んだと断言が出来る。だから勝手に罪悪を向けるな、と的外れな感想を抱くことに自身で驚いてしまった。
▽
レイシフトした先は、見知った路地裏だった。
知らない筈なのに、来たことのない場所なのに、霊器が此処を覚えている。現在の西暦から数年ほどしか離れて居ないのだとダヴィンチは言っていた。
ここで以蔵は運命に出逢う。曇り空から覗くような快晴の色に、交差する。
もう随分昔のことのように感じる。以蔵がカルデアに来てからそう時間は経って居ないのだが、これほどまでに時間が長いとは思っていなかったのだ。致し方無い。
藤丸立香に隠れろと目配せすれば、己の元マスターよりも数十倍察しが良くて場数を踏んでいる魔術師は迅速に動いた。
そんなところも大違いだと息を殺して笑えば、人影が此方を伺っていることに気が付く。
ああ、そうだ。彼女はここで襲われたのだった。だから慌てて陣を描いて、無理やり召喚を行なったのだ。
優秀だったが抜けた女だと思う。己の持つ触媒に気が付かず、以蔵のようなアサシンを引いたのだから。
人影に圧を送れば、萎縮したようなそれは逃げていく。元々、相手が狩られるだけの兎だと判断したからこそ踏み込んでくるような相手だったのだ。
サーヴァントが居れば、様子を見るのも当然か。
そうして考え事に耽っていれば、切らした息と共に少女が現われる。やってしまった、と言った顔をしてはいるが、以蔵は元から逃す気は無い。
本当は、只々彼女を引き寄せたかった。そのまま連れて行きたかった。しかし、今その権利は以蔵に無い。一度取り零してしまったそれは、もう二度と戻らないだろう。
だからせめてと、魔術を使われる前に声を投げかけた。以蔵は抜かりの無い男でもあったので、極々自然に紙を拾い上げてから。
「こんばんわァ、お嬢ちゃん。こがいなもん、落ちとりましたけど」
ひらひらと目の前で揺らせば、少女はアッ、と短く声を上げた。
その目には有り有りと「なんだこの人」と言った感情が浮かんでおり、初対面で無ければ額に一撃食らわせていたところである。
「ありがとうございます」
警戒した顔を隠さないまま紙を受け取った少女は、しきりに自らの大腿部をペタペタと触っている。
ホルスターと拳銃を確認しているのだろうが、ここまで分かりやすかっただろうか。彼女はもっと、冷めたような瞳で、冷えるような雨の色で、先の読めない女だと思っていたのに。
以蔵の後ろに隠れていた少女は、実はかなりそそっかしかったのかもしれない。
今となっては無意味な情報だったが、そんなところすらも微笑ましく思ってしまうのだから、情というのは誠に恐ろしいものだった。
「気ぃ付けえよ」
はあ、と生返事をした彼女は頭を一度下げて、そのまま踵を返す。
以蔵も用事を終えたわけで、とっとと元の時代に帰るかとマスターを見れば、立香はしきりに手遊びをしている。口をパクパクさせて、こ、う、か、い、が、な、い、よ、う、に。
何故こうも以蔵のマスターはお人好しなのだろう。
呆れて溜息を吐いてしまったが、正直かなり有難い後押しであった。
意を決して彼女を終えば、ほんの数歩で追い付いた。掴んだ右手の甲には、折り重なった箱のように見える赤い線が走っている。
この赤い運命の先に繋がることになる、以蔵ではない別のやつを斬り殺したくなった。
「なあ、おまんは」
彼女は振り返る。水晶のような目が以蔵を写した。
「降り続く雨を望むか?」
その問いの意味を知るものはいない。
遠い雨の日、遠い梅雨の記憶。
止まない雨を望んで消えた、月の彼女の話。
献身を尽くして死んだ、地上の彼女の話。
極々平凡に命を失う、此処での彼女。
岡田以蔵のために破滅した、箱庭の怪物。
分岐する幾つもの世界線。全て全てが死によって終わる、ナマエという少女の物語。それは、岡田以蔵だけが知る記録。
だから、分かるはずが無い。それでも、だけれど、彼女の答えを待っている。
突然腕を掴まれた彼女は、大腿部に片手を触れさせている。怪しい挙動をすれば風穴を開ける気だろう。
暴力的な行動とは裏腹に、不思議そうに首を傾げたナマエは「望むも何も、」と呟く。
「雨はいつか、止むものですよ」
冴え渡る声で。
静寂を割く音で。
水を撃つ石のように。
彼女は言った。岡田以蔵というサーヴァントを見据えて、淡々と。
当たり前のことを、当たり前だという顔で。それを聞いた彼は「ほうか」と息を吐いて、笑う。
「知っちょったぜよ。おまんが、そうゆう女じゃいうがは」
雨が止まないことを望んでおきながら、いつか止むのだと知っている。
停滞の先に何も無いと知っている。
未来など無かったことを知っている。
終わりが来ることを、彼女は分かっていた。
だが、それでも。分かっていても、彼女は、ナマエは延滞を望んだ。いずれ来る別れを理解しても、滞ることを選んだ。そうさせたのは岡田以蔵のせいだ。
「…雨が止めば、澄み渡る」
「そうそう、お兄さん、良いこと言いますね。私もそう思います。梅雨は好きですけど、明けた空はもっと好きです。夏が来るって感じ」
以蔵はそんな女に庇護されていたことを知る。守ったつもりで、護られていたことを知る。
雨が止むものと知って尚、もう一度を望んだ。
その献身は誰がために?
水泡に帰したのは、誰がために?
そんなの、云わずとも分かる。藤丸立香にも理解が及ぶ。
梅雨明けと共に岡田以蔵と彼女の物語は終わる。雨が止むと同じくして、彼らの関係も終わる。
夏の物語は、最初から無かったことになる。彼女との運命を消すことが、彼女を守ることだと理解している。
この世界の崩壊が、最後の逢引と知っている。
だけれどそうだ、言う通りなのだ。雨が止めば、空は澄み渡るのだ。
からりと笑えば、相変わらず惚けた表情をした彼女がより一層不思議そうにする。
そんなところも、そう。
「好いちゅうよ」
「セイバーがそんなこと言うなんて珍しいね。明日雨でも降るんじゃない?」
彼女なら、きっとそう言う。
「はあ。ありがとうございます」
怪訝な顔が以蔵を見つめ返した。望んだ声は聞こえない。同意も肯定も存在しない。
当たり前だ。この彼女は以蔵を知らない。月の彼女もこんな気持ちだったのだろうか。
忘れられたくないと、記憶に残りたいと言った彼女自身が、真っ先に以蔵の前から消えようとしたのは笑えない話である。
どうしてそう思っていながら、己の情を切り捨てたのか。それは以蔵に対する裏切りだと 、彼女は理解していたのか。一人で生き長らえたところで、寂しいだけだと彼女は知っていた筈なのに。
以蔵は彼女を忘れない。忘れろと言われたってごめんである。未来永劫、何処で誰に使われたって、彼女のことを忘れない。
薄れても、ボヤけても、消えてしまっても、名前だけを刻み続けた彼女のように、以蔵だって刻み続ける。
手を離せば、彼女は凄い速さで走り去って行った。それこそ、むしり取られたホルスターに気が付かないまま。
嘗てここまで速かったことがあっただろうか?無かったと思う。そんな後ろ姿に苦笑すれば、隠れていた藤丸立香が顔を出す。
同時に通信が入って、時空の乱れが無くなったと告げられた。
おかしくて笑いが止まらない。彼女は、岡田以蔵の元マスターは、ナマエは、一体どこまで化け物だったのか。
「良かったの?」
それは彼女との運命を消したことか。最後の逢引を一切のムード無く終わらせたことだろうか。
それについては、これでいい。以蔵とナマエは、こういう締まらない雰囲気が似合っている…と思う。馬鹿らしい話ではあるが、そうなのだから仕方ない。
それに彼女に後悔が無かったことを知れたのだから、それだけで十分だと思う。
堪らず笑いを零せば、立香は不服そうな顔をした。このマスターは、以蔵には勿体無いほど性根の優しい人物である。そう思える以蔵は大分絆された…というより、変わったのだろう。
橙色の瞳が少しだけ優しく細められて、やっぱり笑わずには居られなかった。
だって、愛は人を変えるのだ。良くも悪くも変わるのだ。臆病者はどちらだったかなんて、そんなはなし、とっくの昔に分かっていただろう。とっくの昔に、知っていたのだろう。
空は、こんなに燻んだ色だっただろうか。
あの時は何も見えていなかった。彼女の瞳も、己のことも。出会いの全てが何物にも代え難いくらい綺麗だと感じた筈なのに。想い出というのは勝手に美化されていくものだと、以蔵は自分の女々しさを自虐する。
彼女とならば主従を結んでいいと思ったのに、彼女の剣になるならば本望だとさえ思ったのに、自分と同じくらい失うことは恐ろしいと感じたのに、運命とはままならないものである。
そうして、正真正銘の終わりを知覚するのだ。
いつかの梅雨に。
夢のように弾けた夏に。
彼女の恋は、彼女のために。
脆く儚く、泡と消えるのだ。