抑止の守護者────坂本龍馬が召喚されたのは、見知った時代の見知った土地であった。
慶応元年、12月28日。西暦にして、1866年2月13日。
師走とは言え、九州地方に当たる土地は肌寒くはあるものの豪雪というわけではない。寧ろ、比較的暖かい今日この頃は雪ではなく雨が降っていた。
冬至も超えているので、暖かくなってくる頃なのだろう。
記憶の中の思い出と特に変わりはなく、何処が歪んでいるのか分からない。
これは骨が折れそうだ、と龍馬は緩く思考する。
しかしながら、頭の回転は程々に自信がある。特別優れているという自惚れは無いが、困らない程度には回る。
幸いにも生前過ごした土地であったので、情報も集めやすい。
何処ぞで召喚ミスをされた辺境の聖杯戦争とは違い、今回は本当に人理の危機らしい。お竜さんもセットで呼ばれている。
あまり荒事が好きでは無い龍馬にとって、心強い限りだった。
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情報収集に出れば、様子のおかしさにはすぐ気が付いた。
慶応元年といえば、激しい倒幕運動によって攘夷派と尊攘派が争っていた時代である。
そして師走の頃には、一大勢力であった土佐勤王党が崩壊して暫く経った頃であったはずだ。
土佐勤王党というのは、尊攘派の大きな勢力である。
秘密裏に結成されたそれは、正しいことを為すためには殺人も辞さないという方向性の組織だった。
京に刺客を送って暗殺したり、攘夷派が力をつけ過ぎないよう牽制したり、そういった後ろ暗いことをしていた。
それが慶応元年の梅雨から夏にかけて跡形も無く解体され、頭である武市半平太を始め、暗殺に組した数多くの者が処刑された筈である。そこには、龍馬の幼馴染も居た。
解体と同時に上からの圧も掛かったはずであり、暫くはあまり活動的で無かったと記憶していたのだが。
それにしては、別段変わった雰囲気が無い。龍馬はその時期に居なかったため、正確に推し量ることは出来ないが。
だが、以前と変わらぬ様子なのは理解できるわけで、それが逆におかしいのである。
「ああ、ちょっと君」
龍馬は通行人に声を掛けた。お竜がムッとするが、仕事のためだからと言えば「仕方ないな。ガマンしてやろう。いいオンナだからな」と認可してくれる。
呼び止められた少女は「あら、龍馬さんじゃないですか。気取ってどうなさったの」と立ち止まった。
龍馬は敢えて知らない顔を選んだのだが、どうやら知り合いだったらしい。慌てて土佐訛りに言い直せば、彼女はふふふと笑った。人類史の分岐というものは、こういう細かいところで困る。
「こんなところまでどうしたんですか?お仕事?」
「まあ、そんなところじゃ。ところで、土佐勤王党ってどうなったか知っちょるか?」
「土佐勤王党?なんです、それは」
不思議そうに首を傾げる少女に驚きつつも、龍馬は続ける。
「武市先生が若いモンを集めて運動を起こしちょったじゃろ。
僕らのとこにも、そういう組織があったっちゅう話が入っとった筈じゃ」
少女は困った顔になって、小さく優しい声でそっと耳打ちをした。
「寝惚けていらっしゃるの?武市さまなら、数年前に亡くなっていますよ」
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この特異点について分かったことは数多くあるが、一番大きな変更点は“武市半平太が五年前に死んでいる”ということであった。
五年遡ると、1861年。土佐勤王党が成立する年である。
そのタイミングで死んだとなると、誰がどう見ても他殺である。何かの不都合があって慌てて殺したとしか思えない。
先程の訛りのない少女は外から来たらしく、その辺りに大変詳しかった。
武市先生は江戸に留学中に突然の病で亡くなったらしい。大変に死を惜しまれていたそうだが、少女は土佐出身ではないのでイマイチ事情が分からないと言う。
龍馬は土佐の人間であったので、いかに瑞山が人徳者であったことを知っている。分かっていたとはいえ、惜しいことであるとも思った。
それを主軸に考えてを進めては見たが、疑問点は数多くあり、それは第一に動機である。
何故この世界の管理者は武市半平太を狙ったのだろう。
正しい人類史は攘夷側が勝利しており、その時点で攘夷側の人間が主犯という可能性は消える。だって修正せずとも望んだ世界なのだから。
しかしかと言って尊攘側が魔神柱を抱えているかと言われると、それもまた薄そうなのである。
だって、武市は尊攘派だったから。
となると極々個人的な理由で武市は殺されたことになるのだが、恨みを買うような人間かと言われると、そんなことはない。
幼馴染は経緯だけ見れば恨んでてもおかしくはないが、根が真面目だし、しっかりしている。逆恨みなどしないだろう。
「あ」
そこでふと、思い出す。
大欠伸をしていたお竜が「考え事は終わったか?」と問い掛けた。何故、少女と話した時点で気が付かなかったのか。
龍馬は立ち上がって、嘗ての家の方角へ向かおうとする。そうして踵を返す前に「おい、」と見知った声が聞こえてしまった。
どうか、違ってくれとは祈るものの龍馬の耳は間違ってはいないだろう。それは聞き違える筈がない幼馴染の声で、ここにある筈のない音で、夏に置いていかれた筈の大切な人の声だった。
「以蔵さん」
気怠げに手をひらひらと振る男は、かなり上機嫌である。
別に酒を飲んだ風でも、博打をした風でもない。只々普通に、生前の龍馬が望んでいた“真っ当な”以蔵であった。
「クソザコナメクジ、随分ゴキゲンだな」
「ヘビ女にゃあ縁の無い話かも知れんがのう、年が明けたら祝言挙げるんじゃ。気分がえいのは当然ぜよ」
煽り文句をいなせるくらい機嫌が良いらしい。というか、
「以蔵さん、結婚するのかい!?」
死んでないどころか良い人が居るし真っ当すぎる。龍馬は凄まじく驚いたが、途轍もなく失礼な反応だったことに気付いて内心で詫びた。
しかし、それほどまでに衝撃だったのだ。それと同時に、以蔵への疑念が強まる。
龍馬の知っている以蔵が武市を恨む筈が無いが、万が一にも魔神柱に唆されていれば龍馬は彼を殺さなくてはならない。
どっちにしろ特異点は壊すのだから、彼の幸福を奪う運命にはあるのだが、直接手を下したくは無いのが人情である。
「別にわざわざ言う気は無かったんじゃが、あん女が“龍馬さんには言うたんですか?”っちゅうて、うるさくて叶わんかったからのう」
「ええっと、それってナマエさん?」
「はあ?誰じゃそれ」
当たり前だ。彼女が此処に居る筈も無い。
馬鹿らしい質問をした、とは思ったものの、あれだけ仲が良かったのだ。別の人と仲良くしているところを見るのは結構ショックだったのである。
思ったよりも大きなダメージに肩を落とせば、お竜が「イゾーのくせに」と呟く。
「リョーマを落ち込ませるな」
お竜が振りかぶった。止める間も無く入った拳にあちゃーと声が溢れたが、ビックリした顔のお竜が自分の手を見ている。まるで硬いものでも殴ったかのように、手の方が赤くなっていた。
それには以蔵も驚いたようで「なんじゃあ…」と気味が悪いと言った顔をしている。
素人目から見ても魔術障壁であったし、感知した気配は聖杯のものだ。それも覚えがあるやつ。
龍馬は一度、これを手にした記憶がある。
「お竜は元からおかしなやつじゃ、今頃別に驚かんけどな」
呆れた風であるが、自分が原因だとは思い当たらないらしい。
尚も食い掛かろうとするお竜を宥めれば、カエルで手を打たれた。仕事が終わったら田んぼにでも行こう。そう誘えば上機嫌になる。
「リョーマの地元は嫌いじゃないが、江戸の方が楽しい。とっとと終わらせて、出てしまおう。カエル取りがしたい」
「はいはい、そうだね。だから少し待っててね」
取るに足らない普段の掛け合い。なんて事の無い会話に食いついたのは、意外にも以蔵だった。
「なんじゃあ、リョーマ。おまん、土佐ァ出るんか?随分急じゃのう」
幼馴染の言葉を聞き返せば、彼は怪訝そうな顔をする。
「惚けちょるんか?」
先ほども少女に言われたな、と苦笑した。
そうして、会話の違和感に疑念を抱く。この言い方ではまるで、龍馬が土佐を出ていないようではないか。
「ねえ、以蔵さん。僕は、久々に土佐へ帰ってきたよね?」
そして龍馬は気付いてしまった。思い当たってしまった。
未だに自分が維新の英雄だなんて言われていることに慣れなくて、大したことなどしてないと本気で思っていたのが仇となった。
人理に影響を及ぼせる人物だなど、自分で思う筈も無かったからこそ、見落とした。
「何を言うとる」
幼馴染は当たり前のように続ける。
「おまん、ずっと土佐に住んどるじゃろうが」
この世界の核は龍馬だ。