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止まない雨をもう一度

エクストラネタ。
最終話で再会が間に合わなかった世界線の話です。

ナマエには先週の記憶が無い。
 
大凡助からない出血量、要するに瀕死の重傷で病院へ搬送されたらしいが、特に外傷も無く、特別な怪我も無く、只々血に塗れていたらしい。
それは紛れも無くナマエの血液だったらしいが、そんな跡は一つも無い。不調さえも無い。安いとは言えない制服だけが穴だらけであったが、医者が異常無しと診断書を書いた。

「不思議なこともあるものだ」なんて言われても、何処か他人事にしか思えないナマエには「そうですね」としか返せない。冒頭でも述べた通り、記憶が無いからである。
ただ、自宅に帰って、出しっ放しの湯呑みが二つ並んでいるところとか、読みもしないスポーツ新聞が投げてあることとか、流石に身に覚えが無さすぎて首を傾げてしまった。

ぼんやりと歩く、いつもの帰り道。自転車は何故か歪んでいて、キコキコと嫌な音を立てるから置いて来てしまった。街並みが色褪せて見える。なにか、失ったような。そうして────なんとなく、振り返って目を惹かれた。
浪人風の、男だった。

どうしてだか知っているような気がしたけれど、ナマエは何も分からない。
雨上がりのコンクリートに水泡が浮かび上がって、ぱちんと弾けて消えた。心のどこかが、軋んだ音がする。ゆっくりと振り返ったとき、既に男は居なかった。

目に痛いほど澄み渡る初夏の空を見上げる。気持ちの良い天気だ。だけれど何故だか、それが酷く哀しいことのように思えた。
どうしてなのか、梅雨が終わったことが、雨が止んだことが、惜しいことのように思ってしまったのだった。

岸波白野は走っていた。月の聖杯戦争、第二回目。細かいことは割愛するが、今は大変ピンチなのである。
英国の騎士であるダン・ブラックモア卿のサーヴァント、恐らくはアーチャー。矢を放ち、校舎に隠れ、確実に命を刈り取るスナイパー。

アリーナの中に逃げるか、グラウンドへ逃げるか。廊下を走りながらも、その二択を迫られて居る。正直、校舎内で襲われるとは思っていなかった。しかし起こってしまったのならば仕方が無い。
足早にグラウンドへと駆け抜けようとして、玄関を通過しようとして───止まる。

いや。止まる、というのは正しく無い。“止まらざるを得なかった”と言えばいいのか。

視線の先は、緑。緑。────そして、池。校庭の砂地などは無く、生い茂った樹木と芝生が視界に広がっていた。
 つまり、駆け抜けた道の先にグラウンドが無いのである。開け放たれた扉の先は、中庭だった。

 一体どういうことか理解は出来ないのだが、自然に起こるわけがないことは分かる。さあさあと降り注ぐ雨が、事の異常さを際立たせた。
罠を警戒し、己のサーヴァントに霊体化を解かせれば「待って待って」と間の抜けた声がかかった。

声のする方角を向けば、カスタマイズのされていない凡庸アバターの少女が立っている。
 しかし、その腕には令呪が見えるため、この月の聖杯戦争の参加者なのだろう。一層の警戒をすれば、彼女は困ったような顔をした。

「あー、あのね。貴方に危害を加える気は…」

彼女の声が中断される。「ごめんて」「でも、」「はい…」と聞くからに説教を受けている様子だった。
 自分のサーヴァントと話をしているのだろう。しかし、どう見たって手綱を握れていないというか…油断してはいけないのだが、正直な話、拍子抜けしてしまった。

話がひと段落付いたらしい。彼女は向き直って「えーっとね」と息を吸った。

「グラウンドに出たら死んでいたと思うので、お節介を焼いてしまいました。強制はしないけどさ、アリーナに逃げたらどうかな?」

凡庸アバターの少女はそう言って、中庭の奥の格子を指差す。あちらを通ってもアリーナへ続く道は無いはずなのだが、と疑問に思えば表情に出ていたらしい。

 「わたしの魔術だから、あっちでいいんだよ」

 あっち。指差す方は、道ではない。教室から外へ出れるように作られた、ただの簡易ドアだった。

「わたしの起源はしかくに作用するの。四角、資格、視覚、死角、刺客。まあ、なんでも。刺客に追われる貴方を、四角い中庭に逃がして死角へ隠す…ごめんね、何言ってるか分からないよね」

日本語の難しいところだよね~、と少女は何も無い空間に語りかけている。白野は先程まで全力で走っていたし、突然のことで判断も鈍っている。
 だから、彼女の言うことはサッパリ理解に及ばなかったのだが…ともかく、助けられたらしい。

礼を言って立ち去ろうとすれば、「あ、いいよ。違うから」と否定が入る。

「ブラックモア卿のサーヴァントは聞くからにアーチャーでしょ。それじゃあ、困るんだよね。私たち、セイバーを倒さないと意味が無い」

貴方たちに勝って欲しいから手を出しただけなんだ、と笑顔を浮かべた少女の目は決して笑っていない。今度こそ立ち去れば「応援してるよ」と他人事すぎる声がかかった。

 ▽

次の対戦相手を確認しようとして、岸波白野は立ち止まる。前方の目的地────掲示板の前で、同い年くらいのアバターの女子生徒が空気と戦っている。

「い、いたたたた!ちょ、やめっ、柄は痛い!殴打は良くない!」

どうやら自身のサーヴァントと揉めているらしいが、霊体化しっぱなしのままでは女生徒だけが肉眼に映る。既視感を覚えて近付けば、少女の方も此方を向いた。

「あ、この前の…」

なんのカスタマイズも無い凡庸アバター。しかし、岸波白野には先日出会った彼女なのだと分かる。理由は無いのだが、少女はあまりにも特異な雰囲気を纏っていた。
 その直感は正しいようで、白野のサーヴァントも彼女を見て渋い顔をしている。

掲示板から少し退いた少女はあまりにも普通の笑みを浮かべた。
 クラスに何人も居るような、社交的で明るい女の子の笑顔。委員長をやるような人物ではないけれど、文化部の部長をしているような…そんなタイプ。

 「私はナマエ。貴方の次の対戦相手。短い間だけど、これから宜しくね」

そうして右手を差し出した。
温和で柔和で優しげな笑みである。礼節もある。白野はそれを握り返そうと右手を伸ばし───掴もうとして、襟をくん、と引っ張られる。
 首の圧迫感と突然の衝撃に驚いて、引いた人物───己のサーヴァントを見やれば、既に剣を抜いており、険しい顔をしていた。

「あれー、外しちゃったか。自信あったのになあ」

呆気からんとナマエは息巻いた。
白野の立っていた場所に鈍く光る長ものが刺しこまれている。
 恐る恐る彼女を見れば、ナマエの右手はばちばちと電気を纏っている。
ぞっとして体制を立て直すと、何処からか声がした。

「なんじゃあ、外したか。まあえい、予定がちくと遅くなるだけぜよ」

 大して気にした様子もない男の声が被さる。どうやら、彼女のサーヴァントに闇討ちされかけたらしい。

「おまんは逸り過ぎなんじゃ。呼吸を見誤っては、殺せるものも殺せんちゅうたじゃろうが」

「ごめんごめん。気を付けるね」

軍帽。黒いコート。着物。土佐訛り。ぎらつく赤い目は岸波白野を捉えず、己がマスターだけを馬鹿にしたように見ている。
 ナマエの方は酷く個性の薄い外観だが、その内面は決して凡庸ではない。恐ろしく強かな女であったことを理解せざるを得ない。というか、平然と初手で殺しに来たあたり、中々の人物である。

しかしペナルティが怖くないのだろうか、と考え、思い当たる。
先日のアーチャー戦の際、彼女は言っていた。しかくの中の死角、と。学校という四角い箱、刺客、視覚、死角。ついでに言うとここは視聴覚室の前。
 何処から何処までが魔術の範囲かは知らないが、どういう魔術であるのかも知らないが、ここでなら斬りかかっても問題が無かったのだろう。

だからと言って平然と襲い掛かるのは余程の度胸が居る、と思うのだが…見るからにマスターの方の腰が低い。即刻謝罪をしたにも関わらず、失態をなじられ続けている。
 そんなに肝の据わった相手に見えない、というのが正直な感想だ。中々に個性の強い主従である。

呆然とする岸波白野を置き去りにして言い合い、というか一方的な説教を続けるナマエたちは、既に白野を視界に捉えてないのだろう。
 別に白野はそれを気にしないが、白野のサーヴァントはそうではないらしい。「随分と軽んじられている様子だがね、マスター」と呆れた風な声を出した。

アリーナの探索をしていれば、いずれ彼女たちと鉢合わせするだろう、と思っていた。
初日、三日目、共に運良く回避したわけであるが、今回はそうは行かなかったらしい。白野のアーチャーが先手で剣を投影する。道を挟んで向かい側にナマエたちは居るから、あちらからは攻撃が届かない、はず。
投げ付けられた剣をナマエのサーヴァントは目で追った。意外にも、彼は避けようともしない。
 驚いて凝視すれば、ナマエのサーヴァントがにんまりと弧を描いた。

「こんなもんでわしを射てると思うたがか?」

ばちん、と弾ける音がして、焼き焦げた剣がボロボロと霧散していく。彼────、恐らくはセイバー。それなりの対魔力を持っているらしい。
ランクの低い簡単な投影では傷どころか触れることすら叶わなかった。ナマエの方も遅れて追い付いたらしく、状況を交互に見て「あー、あー、」と困った顔をした。

「セイバー、私を置いて先行かないでよ」

「もうちくと速く走る努力をしたらえい」

「無理だよ…運んでよ…」

「甘えたこと抜かすなや。おまんを抱えちょったら、刀ァ抜けんじゃろうが」

ナマエは何か言いたそうにしたが、じろりと睨みあげられて口を閉じた。
 仕方なく岸波白野に向き直り、言葉を続ける。少し、疲労の見える声色だった。

「どうする、岸波さん。私たちは今ここで勝ってもいいけれど…」

彼女は道無き道を歩いてくる。このフロアの特徴だ。
 四角いパネルの上を軽快に跳ねてきたセイバーとナマエは互いの獲物を取り出した。ナマエはどうやら、新しい魔術使いらしい。2030年代のウィザードじゃ珍しい、二百年程度の歴史しかないリボルバーに弾を込めている。あんなの、魔術師は使わない…と、凛は言うだろう。
 刀と銃。陸軍とブレザー。長モノと飛び道具。相性の悪そうな主従、というイメージが勝手に付いていたが、そういうわけでもないらしい。双方とも律儀に待っていてくれるあたり、存外気が合うのだろうなとも思った。
 
ここで勝つ、と言い切った辺りに自信が見て取れる。いや、信頼か。彼女は決して慢心をしていない。だが絶対の信を己のサーヴァントに置いている様子だった。

少し悩んで、覚悟を決める。どうせ遅かれ早かれ情報収集のために交戦する必要はあったのだ。
 岸波白野は己がサーヴァントに声をかける。倒せなくてもよい。この場で終わらなくてもよい。ただ、来たるべき七日のために必要なのだ、彼らの情報が。

白野のサーヴァントが剣を投影したのを合図に、打ち合いが始まる。彼女たちは、強い。

 ▽

 取り消して、と酷く冷たい声が響いた。
岸波白野はその声に聞き覚えがあった。しかし、知っているものとは、随分雰囲気が違う。彼女はもっと朗らかに、陽気に、穏やかに、なんでもないような声で騙し討ちをするような人だった。
 野次馬根性のようで罪悪感が芽生え無くもないが、好奇心は正直だったし、白野のサーヴァントも「情報を集めて損は無い」と後押しする。
 
恐る恐る件の中心を見やれば、予想通り片方はナマエだった。対峙しているのは────。

「今の発言、取り消して。私のサーヴァントは幕末最強の剣士。高みに届くよ。届かせてみせる。まずは貴方から倒してやりましょうか、ユリウス」

全身を黒一色で固めた陰気な男───ナマエが宣戦布告していたのは、ユリウスだった。

「取り消すも何も、事実だろう。貴様のサーヴァントは剣士などという崇高なものではない。どんな小細工をしているかは知らないが…与えられたクラスは覆らない」

「覆すよ、私たちは」

「…愚かな奴だ」

「なんとでもどうぞ」

セラフの強制介入が入る。既に小競り合いをした後らしい。だが、この場で取り締まられるということは、彼らが学園内の廊下で潰し合いを始めた、ということも意味する。
 
介入される競り合い。つまりは、打算も計画性も無かったのだろう。それほどまでにナマエは頭に来ている、のだろうか。
 踵を返すユリウスを冷ややかに見送ったナマエは笑っていなかった。

盗み見をして分かったことと言えば、彼女のサーヴァントはセイバーではない、ということくらいか。ついでに言うのであれば、英霊の生きた時代も幕末に限定できる。彼女は大きなヒントを口走った。
 
では、先日見た対魔力はどこから?
幕末と魔術の神秘はあまりにも関係が薄い。セイバーなら兎も角、投影魔術を弾くほどの対魔力を有した他クラスとなると、存在しないに等しいだろう。
疑問は増えて行く。時間はもう無い。

タネさえ明かしてしまえば簡単な話だった。
アサシンクラスが対魔力を持つはずが無い。では何故、彼女のサーヴァントはそれを持っているのか。そんなの一つしかない。所詮ところ、外付けなのである。

恐ろしく強いサーヴァント。
欠点の無いステータス。
油断も隙も無い完璧なサポート。

まともに戦えば、必ず岸波白野は負けていた、と思う。それほどまでに強かった。だが、一つ。一つだけ、致命的な穴があったのだ。

空気打ちを食らったナマエの身体は、既に元の形を保てて居なかった。
 本来であればマスターやサーヴァントを傷付ける事は出来ず、エネミーを怯ませるのが精々であるそれ。

 ────しかし、ナマエのアバターはたった一撃で霧散する。穴の空いた風船のように、僅かなリソースを残して溶けていく。
 
詰まる所、ナマエはアサシンに外付けの対魔力スキルを付与していたわけだ。そうしてセイバーに見せていたわけだ。では、それは何処から?
一つしかない。この女は、自らのリソースを使った。

自らの身体を削って、自らの知識を削って、容量を減らして、己のサーヴァントを強化した。
 たった一度の空気打ちですら致命傷になり得るほど、全てを削った。

 恐ろしい執念である。いかれた発想である。遠坂凛に言わせてみれば、自殺に等しい行為なのだと言う。自我を保てていることが不思議だと彼女は言っていた。
 それでもナマエが余裕そうに振る舞うのは、己のサーヴァントのためか。分からないが、きっとそうなのだろうとなんとなく思った。

「あーあ、負けちゃったかあ」

岸波白野は予想外だった。それほどの執念があるのだ、もっと激昂すると思っていた。
 しかし彼女は特に感慨深くもなく、ただ少しだけ落ち込んだ様子に見える。

「なに平然としゆうがか。これから死ぬんじゃぞ、おまん」

「そら負けたからね」

むしろ彼女よりもアサシンの方が不満が多いらしく、不機嫌さを隠さずにナマエを睨み付けた。
 困ったように眉を寄せたナマエだったが、それでもその表情に怯えや哀しみは無い。ただ、そこには少しの口惜しさが見えるだけだった。

後悔は無いのか、と岸波白野は問う。
完璧なサポート、完全な領域作り、完成された能力値。魔術師として決して優れてはいない回路を有しながら、細かな努力だけで全てを抜かりなく揃えてきた彼女の敗因があるとすれば────敗北しても尚、自身がアサシンのサーヴァントをセイバーとして扱った一点のみである。

彼女のアサシンは岡田以蔵。幕末の人斬り。剣士でありながら、外道に手を染めたセイバーの成り損ない。彼の剣技は間違いなく一級品であるが、彼にセイバークラスになる資格は無く、アサシンクラスの三流サーヴァント止まり。
だけれどナマエは好き好んで彼を呼び、セイバーとして扱った。そのせいで霊器が下がることになっても。気配遮断のスキルが使えなくなっても。勝利を、掴めなくなっても。

彼女は彼をセイバーだと言った。
そのことについて言及はしない。それは彼女の死よりも重い意地を傷付けることになる。だから、その選択に後悔は無いのかと投げ掛けた。

「後悔は無いよ。ユリウスをボコボコに出来なかったのは死ぬほど悔しいけど。岸波さんに負けたのは、私の実力不足が招いた結果だしね」

私のセイバーは最強だったんだけど、と残念そうに呟いた。続けて自分が三流の魔術使いだったから、と言い掛けて口を噤む。自虐をすれば岸波白野の勝利まで汚してしまうとナマエは思ったらしい。呆れたようにアサシンが溜息を吐いた。

「…叶えたい願いがあったんじゃろうが」

意外な言葉に面食らったナマエは、ああ、それね、と可笑しそうに言葉を転がした。

「別にいいんだよね。だって叶ってたし」

初耳である、と彼女のサーヴァントが目で語っている。驚いたような反応をしたアサシンは「そりゃ結構」と呆れた声を零した。見るからに拗ねていることに気付いたのか、ナマエは困ったように笑う。
 
岸波白野にも分かる。この主従は互いに強く親愛を抱いている。岡田以蔵を剣として扱うナマエ、ナマエを己という剣の使い手として認めている岡田以蔵。それは一見歪んでいるが、恐ろしく澄み渡った関係性だと思った。どこまでも清らかな関係性だと思った。
 だからこそ、これ以上彼らに話しかける気は無かった。白野のサーヴァントもまた、事の経緯を黙って見ている。

「貴方が私の願いを聞いた時点で、今もこうして貴方と居られるだけで、今度は一緒に消えれるだけで、」

とっくの昔に、叶っていたんだよね。
うんうん、と自身の言葉に納得するようにナマエは頷く。アサシンの方は疑念が深まったようで、更に渋い顔をしている。あまり、難しいことを考えるのが好きではないらしい。
 哲学的なナマエのペースに呑まれっぱなしであるが、付き合い慣れてるような雰囲気だった。

「…まっこと読めん女ぜよ。好き好んでわしを喚んで、至高の剣じゃと持て囃し、ほいでハナから願いは叶っちょったと言うがか」

「そだよ。だって、貴方は私のセイバーだから。誰より強くて何より優れた、私のセイバーですからね。召喚に応じてくれた時点で万々歳。かっこよくて強くて流行りのサイキョーサーヴァント!」

「……………恥ずかしい女じゃのう」

「恥ずかしくて結構。負けても、死んでも、悔いはあっても、後悔なんて絶対ない。大好き。一番好き。だからね、楽しかったよ私。今までありがとう、セイバー」

「おまんええ加減にせえよ…!?外野が居るの忘れとるがか!?」

「照れんなって、最後くらい見逃してくれるよ」

耳まで赤くなって怒るアサシンを宥めて、ね、とナマエは無邪気に歯を見せた。すっかり白野たちは蚊帳の外であったが、きちんと意識の内にはあったらしい。敬意を払おうとしたのか、お辞儀をしようとしたらしいナマエは手を胸に添えようとして、添えられないことに気付いて残念そうな顔をした。

「…もう時間ないね」

今度は私が先に消えるのか、と彼女はぼやく。
 言葉の真意を汲めず、置いてけぼりのアサシンに何の説明もしないままナマエは指先から溶けて行く。元々強い能力があったわけでもなく、アサシンの能力を底上げするでもなく、ただ”岡田以蔵の剣技が万全の状態で発揮される”状態を作るためだけにソースを割いていた彼女は、誰よりも早く電子の海へと消えかけていた。
 
その晴れやかな笑みは紫に融解していく。その穏やかな眼差しは薄く透き通って行く。その潔い心は海へと還っていく。
その顔に恐怖は無い。その顔に嘆きも無い。憂いも無ければ、後悔も無さそうだ。只々綺麗な顔を浮かべたまま、自身のサーヴァントへと振り返る。ああ、そうだ。なんてことない気軽さで、消え逝く恐怖など無い顔で、彼女は口を開く。
 降っていた雨は、いつのまにか止んでいた。

「月が綺麗だね」

それはいつかの返答だった。
それはいつかの告白だった。
それはいつかの失言だった。

七天の聖杯を月だと言った。綺麗だと言った。しかしその真意を知るものは居ない。知らないからこそ、彼女にしか分からないからこそ、彼女は此処にいる。此処に存在している。
彼女は死ぬ。彼女は消える。だけれど晴れやかに、穏やかに、そして誰よりも幸福そうに、己が信じたセイバーへと微笑みかけたように見えた。

あいしてると笑ったナマエが彼に何を抱いていたのか、岸波白野には分からない。彼女のサーヴァントにも分からない。未完の英霊を完成させようとしたナマエの執念を、献身の意味を誰も知ることが出来ない。
ただ一つ分かるのは、どこかの愛が、誰かの恋が、どこまでも青く寒々しく、だけれど何より美しく────儚く澄み渡って、水面に溶けていったことだけだった。

 ▽

 ▽

 ▽

 ああ、わたしは、わたしは、なんてことを!
取り返しの付かない失態だった。人生最大の致命的なミスだった。どうして、どうして。なんで。失敗した。失敗した。失敗した。

わたしは気付くのが遅かった。思い出すのが遅かった。既に時は過ぎ去り、しがない魔術使いであるわたしはなにもすることができない。

望んだ未来は手元に無く。欲しかった物は何処かへ消えた。愛していたのだ。愛されていたのだ。
わたしという人間は、彼を。
彼は、わたしを。

何が澄み渡る空だ。
彼の心が澄み渡った時など無いだろうに。
きっと一人で消えるのは怖かっただろう。きっと一人で死ぬのは嫌だっただろう。よりにもよって初夏の日に、梅雨の終わりに、痛いほどの陽光の下に、彼を一人で行かせてしまった。二度目の死を、最悪の季節に与えてしまった。

馬鹿な人だ。自分が居なくともナマエは幸福だと思ったのか。愚かな人だ。そんなわけないからナマエは彼を現界させ続けようとしたのに。

とくとくと波打つ鼓動は一人分しかない。
流れる血潮は一人分しかない。

それなのに、ここにあるのは二人分の記憶だ。

酷い女だと笑ってほしい。
泣き虫の弱虫だと笑ってほしい。
わたしにもう一度、笑ってほしい

まだ、お別れも言ってないのだ。
まだ、伝えたい言葉を言ってないのだ。
まだ、ありがとうすら言えていないのだ。

だから────だから。

ナマエは再び、夢を見るのだ。
月に望みをかけるのだ。

遠い昔の雨の日に。
遠い昔の梅雨の中で。
遠い昔の、止まない雨を。