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朽ちゆく日まで音楽を

※レヴィンが既婚でカップリング未固定。

 ナマエは雑踏の中で生まれた。

 この世界は一見美しいように見えるが、実際はそうではない。
 戦など無くたって荒れている場所は荒れているし、法も倫理も無い。村にもならなかった集落など、なんらかの理由で生き延びた人間が居るだけの溜まり場だった。

「そうだな。お前、笛は吹けるか?」

 物好きな男は吟遊詩人と名乗った。風のように美しい緑と、品のある佇まい。ナマエに教養などは無かったが、彼が貴族以上の身分であるのは間違いがない。
 だからこそ、ナマエなどという小汚い子供を拾ったのかもしれない。彼────レヴィンは、流れの旅人になど見えなかったから。

「吹ける」

「おっ、自信がありそうだな。じゃ、早速…」

 嘘を付いた。笛なんて持ったこともない。だけれどそれは高そうに見えた。売ってしまえば飢えを凌げると思った。
 青年はナマエに横笛を差し出して、傷だらけの掌に乗せた。軽くて滑らかなそれは、ナマエの目にしたどんな窃盗品よりも輝いて見える。

 受け取って口をつけた。思ったよりも綺麗な音色が鳴る。だが、同じ音しか鳴らない。このままでは、吹けないことがバレてしまう。
 内心焦りながら目線だけを上げる。詩人と目があった。彼は柔らかく微笑んで、煤に塗れた頭に手を置く。

「へえ。上手いじゃないか」

 そう言って、手持ちの弦楽器を鳴らした。あんな粗末な演奏で凌げたらしい。
 ナマエは息を吐いて、胸を撫で下ろす。この美しい笛を手放したくなかったからだ。

「俺はこいつが得意なんだが、両手が塞がってしまうだろ?」

 レヴィンは弦楽器の表板を軽く叩く。そしてナマエの笛を指差すと、「やるよ」と言った。
 怪訝な顔で見返すと、彼は不思議そうに首を傾げる。ナマエはそれに、率直な意見を述べた。

「着いて行くとは言ってない」

「ああ。なんだ、そんなことか。別に良いさ、どっちでも。俺が持ってたところで、持ち腐れるんだからな」

 世間知らずの吟遊詩人。ナマエでなければ、この高価そうな楽器を持って走り去っている。
 この掃き溜めに居る人間は、現状から出る気が無いから此処に居るのだ。何処へ行っても、何をしても、無駄だと思っているから。夢も未来も見れなくて、淀んだ空気を吸い続けるのだ。

 だけど、ナマエはその楽器を手放すことは惜しいと思った。沢山の掃き溜めのゴミの中で、男はナマエを選んだのだから。

 差し出された綺麗な手を、汚れた手で取ってナマエは歩き出す。晴れ渡る快晴の空には、心地良い暖かな風が吹いていた。

 レヴィンと楽器を奏で、街を回る日々は目紛しかったが、決して不快では無かった。
 街から街へ。野を進み、山を越えて、砂漠の中でだって音楽は軽やかに在った。何処にいても、彼の奏でる楽器は美しい情景を彩っていた。

「演奏の良し悪しは、何も技術だけが全てじゃない。その場の空気────風を読むのさ」

「分からない。レヴィンに合わせる」

「…まあ、それでも良いけどな」

 ある時は詩人としての知恵を教わり。

「人を騙すヤツは、ずっと相手を見てる。じっと見られたら気を付けろ」

「…なるほどな。助かったぜ、ナマエが居て」

 ある時はスられた財布を取り戻したり。

「どうだ、ナマエ。これは如何にも“吟遊詩人”って感じだろ?」

「見えない。もっと趣味の悪い柄にしろ」

「はは、悪いな。俺が着たら、なんでも格好良く見えちまって」

「そうだ。多少の柄は、レヴィンが勝ってしまう」

「…」

「照れるな」

 ある時は、詩人という設定すら危うい彼の服装を指摘した。

 彼はわたしに楽器を教えて、文字を教えて、ナマエを与えた。名前すら無かった子供に、彼は意味のある言葉を与えたのだ。そうして自身の名が稲妻などを指す名前なのだと教えた。

 やはり、彼は高貴な身分であったのだろう。一介の旅人の名が、そのような上等な物であるはずがない。そのような名を授かるのは、貴族どころか────。
 ナマエはそこで思考を止めた。彼の出自など、考えても悲しくなるだけだ。

 彼は強く、賢い。ナマエが世間を知るにつれ、レヴィンが只者では無いのは深く理解することとなる。

 ナマエは卑しい身分の子供で、幼い頃から犯罪に身を窶して来た。
 だから、その辺の大人などに負ける筈は無いし、レヴィンのことだって守ってやろうとすら思い上がっていたのだ。

 守られたのは一瞬のことだった。
 ナマエたちは立ち寄った村で、山賊と邂逅した。ナマエは見捨てるべきだと進言したが、レヴィンは残って戦うと言う。

 当然、ナマエが置いて行く選択など取れる筈も無い。
 だから結局、先に行ったレヴィンを追い掛けて村に入ったのだ。

 所詮、場数の少ないゴロつきどもだ。短剣を節約しながらでも戦えた。一撃で殺そうと振り被った瞬間─────もう一人が飛び出す。
 そして、ナマエの目を切り付けたのだ。

「ナマエ!」

 ナマエは切り付けた斧を踏み付け、山賊の首に短剣を突き刺す。後ろから迫り来る第二投を腕で受けようとすれば、周りの山賊が一斉に血を噴いて倒れた。
 頬に返り血が飛び散って生温い。レヴィンは焦った様子でナマエを見ていた。

「戦わなくて良い。お前を拾ったのは、笛を吹かせるためだ」

 頬の血を、なんの尊さも価値も無い血を、見事な絹の布で拭う。そういったところが貴族のように見えるのだと、ナマエは何度も彼に言ってきた。
 だけど、今はそれで良いと思った。ナマエはレヴィンに従って、彼の思うように生きよう。それが、彼に対する精一杯の恩返しだからだ。

「こうしたらレヴィンとお揃いになるね」

 左目の隠れた顔を触る。レヴィンが傷を見て辛そうにするから、ナマエは左側の髪を伸ばすことを決めた。
 髪を限界まで引っ張れば、レヴィンは呆れた顔をする。

「あのなあ。仮にもお前、女の子だろ。将来とか、どうするんだ」

 ナマエは少し考えて、どうでもいいことだと思った。
 きっと彼は貴族だから。それに一回り以上も年上で、ナマエはよくて妹だ。一生を彼に尽くして、誰とも結婚なんかしなくて良い。

 親のような、兄のような、他人のような、彼の人生に只々寄り添えたら。ナマエが願うことは、それくらいだ。

 レヴィンの出自が割れてしまったのは、案外すぐの話だった。
 踊り子であるシルヴィアを口説いてしまったからか。それとも、そういう運命だったからか。

 戦うなと言っていたレヴィンがその言葉を撤回したのは、戦が始まったからだ。
 身を守るならば殺せ。苦々しくレヴィンは言った。その顔を見るのは、嫌だと思った。

「レヴィンってば、よっぽどナマエが大事なのね。あたしだけだったら、下がってろなんて言わないのに〜」

 そう言ったのは、ナマエ共々下がってろと言われたシルヴィアだったか。今ではもう思い出せない。

 レヴィンが殺し合いを嫌うことはナマエもよく知っている。
 それでも戦などをするのは、レヴィンの故郷────彼が治める予定である、シレジアも巻き込まれてしまっているからだった。

 そうじゃないかと思っていた。いつの日か、レヴィンが他人事のように語ったシレジアの話は情景が含まれている。
 初恋の女性に、その妹。美しい女王に、風の魔導書。深雪の街と、白い翼の天馬騎士。幾らナマエが世間に疎くとも、彼が自身の話をしているのは分かる。レヴィンだって、ナマエに知って欲しいから語ったのだろう。

 いつだって、レヴィンは自分の話をするときに弦を鳴らした。気恥ずかしいのか、聞いて欲しいけれど口を挟んで欲しくはないのか。

 ナマエにとって、彼の歌は全てだった。
 楽しい時も、悲しい時も、辛い時も、レヴィンがいつも楽器を奏でていた。魔道書なんかよりも、楽器が似合うお方だとナマエは思っていた。
 きっと、ナマエが喜ぶから弾いていたのだろうとは思う。それでも、その事実がナマエとレヴィンの絆だった。

「レヴィン様は、このままバーハラに?」

 シレジアの後継者争いは終わった。シグルドへの義理だって、あってないような物だろう。
 グランベル軍の傘下に加わらず、彼らを追い立てないだけでも十分に釣りは返せる筈だとナマエは思う。

 だがレヴィンは、彼の戦いを最後まで見届けるつもりなのだと言う。

「放ってはおけないだろう。シグルドには恩がある。それに、俺たちは友人だ」

 ナマエはいつの間にか、王城勤めになっていた。
 レヴィンの補佐として、年齢にも身分にもそぐわない飾りの役目を与えられている。だが、それは裏を返せば、ナマエは兵士ではないということだった。

「そうですか。でしたら、私も…」

「いい。ナマエ、おまえは戦に加わるな」

「なにを仰るのですか!?」

 フォルセティを抱えたレヴィンは、ナマエに冷たくそう言った。

「自由に生きろ。俺のことは忘れて、おまえの人生を」

「!」

「妻や子供のこともいい。おまえには何の責任も無い」

「なんで、どうして…!」

「俺はお前を殺す為に拾った訳じゃない。分かってくれるな」

“連れて行ってはくださらないのですか”

 続く言葉は遮られて消えた。彷徨う指が、空を切って落ちた。
 取り繕う暇すら与えられない。レヴィンは妻も子も城に残して、バーハラに旅立って行った。

 ナマエもまた、シグルド軍壊滅の報を聞いて静かにシレジアを経つ。彼が放った楽器に、あの時の笛を置いて。ナマエの居場所は此処では無い。
 レヴィンだけは帰って来ていたけれど、彼の方は別人のように非情になっていた。

 なんとなく、思う。レヴィンは死んでしまって、別の何かが今の彼なのだと。

 だって、彼は────。
 一度だって、楽器を手に取ることは無かったのだから。

 セリス公子が現れた時、ナマエはまたとない好機だと思った。
 レヴィンはバーハラで死んだ。あれはナマエの知るレヴィンではない。ならば、帝国を討つ事が弔いとなるだろう。ナマエの好きだった、優しく風のように自由なあの方を奪った戦争。全ての根源は、帝国にあった。

 だが、やはりと言えば良いか。セリスの軍にはあの方と同じ顔の誰かが居て、彼は驚いた様子だった。
 その姿を見たセリス公子は少し悩んで、レヴィンの補佐にナマエを付けた。彼方は動じた様子では無かったが、ナマエは内心で激しく動揺する。どんな顔をしてレヴィンであった人と向き合えば良いのだろう。

「ナマエ」

 彼方はナマエの気など知らず、感情を読み取らせない声で呼んだ。
 ナマエの知る姿よりも歳を取ったその人は、相変わらず美しい姿をしていた。だが、此方を呼ぶ声は昔のように軽やかでは無い。自由であった彼の方は死んだのだ。

「お前も戦うのか」

「はい」

 ほんの少しだけ躊躇った横顔は、嘗て見た彼のものに思った。
 御嫡男に罵られても、顔色ひとつ変えないレヴィン。やはり彼は別の人間になってしまったのだろう。さっきの表情だって、きっと気のせいだ。

 そう思っていた。そう思いたかったのかもしれない。陽気で風のように軽やかな彼が戦っていることを、認めたくなかっただけなのかもしれない。

「ナマエ…」

 御息女と再会した彼は涙を流していた。レヴィンは御息女から聞いてしまったのだ。奥方の最期を。
 ナマエは気付いてしまう。いや、見ないフリが出来なくなった。彼はレヴィンでは無くなったが、記憶も、心も、残ってしまっている。

 どうしてそうなったかはナマエには見当も付かないが、何か大いなる意志と力に取り込まれただけで、それが彼を非情に振る舞わせるだけで、レヴィンは変わらず彼として残っていた。

「レヴィン様…泣いて居られるのですか」

「情け無いと私を笑うか?」

 自虐的な微笑みに、ナマエは何も言えなくなる。
 レヴィンはナマエの腕を痛い程に掴む。人殺しの腕を、自身の為に復讐を誓った女の腕を、軋む程に握り締めた。その手は酷く震えている。

 ナマエはそれを握り返すことも、振り払うことも出来ない。彼の哀しみを理解することも、癒すことも出来なかった。
 ただ、口をつぐんで突っ立っている。

「私は自分の意志でシグルドと共に戦い、死んだ。だが、まだ覚悟が足りなかったのかもしれん」

「…わたしには、判りかねます。ですが、貴方は非情にならねばならなかったのでしょう」

 レヴィンは何も返さない。きっと、ナマエには隠しておきたかったのだろう。あくまでレヴィンではなく、別の何かとして振る舞っていたかったのだと思う。
 それを崩すべきでは無いと考えているが、レヴィンはナマエを突き放せなくなった。仲間も妻も死に、生き延びてしまった彼の、人間としての心が軋んでいるからだ。

「覚悟など要りません。わたしは、貴方の子供を守ります。…いいえ、貴方の仲間の子も守ります。そして、貴方をこんな風にした世界を呪いましょう。
貴方はわたしを信じて、死ねと言えばいい」

 昔のように穏やかに笑った彼は、哀しげに頷いた。
 レヴィンであればナマエを叱っただろう。そんな考えは止めろと言って、武器を取り上げたに違いない。

 だが、落とし所が必要なのだ。犠牲にするならば、ナマエの命が一番軽い。それを彼は分かっている。

 レヴィンがナマエのことで動揺するのを見たのは、これで二回目か。
 一度目は、ナマエが片目に傷を負った日。相手の力量を読めず、無様にも切り付けられたあの日。幸い、怪我が残るだけで失明などは無かった。

 だが、二度もそう幸運は無い。ナマエの左手は、薬指から先を切り落とされてしまった。
 指が落ちる瞬間、わたしは再び笛を持てない無念を思ってあの方を見た。レヴィンは指を落とされた私よりも、酷く哀しそうな顔をしていた。

 それは僅かな油断だった。シアルフィに近付くに連れて、戦いも過激になってくる。
 長きに渡る進軍で兵達にも疲れがあった。それは英雄の子供達であっても例外ではなく、コープルは僅かな油断から致命傷を負いかけてしまう。

 それを庇おうとしたのがセティだった。彼を庇って無理に前に出たセティは、大剣の一振りを腕で受ける────筈だった。

「どうして庇ったのですか」

 指を失ったナマエを、セティは叱り付ける。
 セティであれば、腕を切断されずに済んだだろう。使い物にはならなくなっていただろうが。ならば、ナマエがそうすることは必然だった。

 もしも相手がセティでなくても、ナマエはそうした。コープルでも、アーサーでも、スカサハでも、セリスでも。みな、レヴィンの愛し子たちだ。

「あの人の望みだから」

 ナマエはなんでもないことのように言う。本当は悲しかった。もう二度と笛は持てないし、今まで通りの戦いも出来ない。
 だけれど、レヴィンの望みを叶えるならば、安いものだと思った。

「そうやって、君は…!」

 セティとの付き合いは短いが、彼は随分ナマエを気にしてくれているようだった。
 レヴィンに付き従う姿を哀れに思っているのかもしれない。

「あの男は君がこうなっても見舞い一つ来ない!
君は女性なのに、君に落ち度は無かったのに!欠けた左手は、指輪だって嵌められない!」

 セティはナマエの左手を取った。残った指を撫でて、名残惜しそうに薬指があった場所に指を置く。そしてナマエが腰に刺している笛を見た。

 レヴィンが楽器を弾かなくなっても、ナマエはずっと笛の腕を磨いてきたのだ。
 彼が、また旅に出ようと誘ってくれる日は二度と訪れないだろう。しかし思い出は全て風と、風に乗って響く音楽と共にあったから。

「いいんだよ。本当は、わたしよりも哀しみを感じているんだよ。
貴方達が戦わなくちゃいけないことだって、自分たちの不始末だって思ってる」

「…」

「奥方の訃報を聞いた時だって、レヴィンは泣いてた。
貴方達にそんな姿を見せられないから、大人だから、王様だから我慢しているの。だから、悪く言わないであげて」

 セティはただ一言、「すまなかった」と謝った。
 別に謝罪が欲しかったわけではないナマエは困ってしまったが、彼は間を置かずに尋ねる。

「なあ、ナマエ。君は戦後、どうするつもりなんだ」

 緑の目がナマエを見る。それはレヴィンのようで、レヴィンではない緑だった。同じシレジアの色でも、彼の母親────フュリーにとても良く似ている。
 静かで、清廉で、意志の強い瞳だった。

「分からない」

「…もし、君さえ良ければ私の元に身を寄せないか。こうなってしまった責任は、不覚を取った私にある」

 セティはそう言った。だけれど、ナマエは頷かなかった。
 首を振れば、酷く悲しげな目を向ける。それは誘いを無碍にされたことではなく、ナマエに対しての憐憫だった。

「私では、君の幸せになれないんだね」

 勇者は悲しげに笑った。

 戦争は終わった。多大な犠牲と傷を残した大乱の世は、終わりを告げたのだ。
 家族を失った者、帰るべき場所を失った者、命を失った者。ナマエはそのどれでも無く、五体満足とは言えないが生きていた。

 レヴィンが去る前に死にたかった。そう言えば、彼はどう思うのだろう。
 失った指の予後を見ていたセティが、申し訳無さそうにナマエを見る。それは彼を庇って出来た傷だったからだ。
 気にすることではないと言ったが、セティは傷の様子を定期的に見に来ていた。彼は責任感が強い。きっと将来、立派な青年になるだろう。

「ナマエ!」

 セリス公子がナマエを呼び止めた。
 何があったのかと振り向けば、酷く慌てた様子であった。

「レヴィンが行ってしまう。ナマエには告げないように言われたけれど…そんなことは出来ない」

 立ち上がって彼に礼を言う。相手はグランベルの王となった方であったが、ナマエの王は生涯ただ一人だった。
 無礼も気にせず、すぐさま走り出す。

 駐軍地を離れて街道を駆け出せば、ずっと見てきた背中があった。
 彼は振り向いて、溜息を吐く。困ったように苦笑すると、その場で立ち止まった。

「参ったな。セリスはお前に教えたのか」

 その言い方は、昔の彼のようだった。ナマエはなんとなく理解する。もうレヴィンは元のレヴィンで、何者の干渉も受けていないのだと。
 だからこそ、ナマエを突き放したのだと。彼のやりそうなことだと歯噛みをする。

「何処へ行く気ですか。国も子も置いて」

「私は国に帰れない。そういう決まりなんだ」

「だとしても!」

 わたしに何も無く出るのか、と叫び出したくなる言葉を押さえ込んだ。
 子供の頃のように、恐れ知らずのナマエはもう居ない。愛を知って、哀しみを知って、ナマエは臆病になった。レヴィンに突き放されることが何よりも怖かったのだ。だから、あの時だって引き留めるのを躊躇った。

 涙を堪えて、レヴィンを見る。彼は優しく微笑んで、手を振った。

「幸せになれよ」

 その言葉に感じたのは、哀しみでも、喜びでも、ましてや寂しさでも無い。

────怒りだ。

「本気で仰っているのですか?」

 ナマエは足を踏み込んで、レヴィンの服を掴んだ。いや、掴み上げたというのが正しい。
 怒りに任せて、布地を握り込む。そうして、一度だって告げた事のない言葉を叫んだ。

「指を失ったのは、わたしが戦争になんか参加したのは、ずっと苦しめられてるのは、アンタのせいだろ…!」

「そうか。ならばお前は、私を殺して解放されたらいい」

「違う、はぐらかすな!分かってるだろ!貴方は頭が良いから!わたしに、なにもかもを教えたのだから!」

 力を込めた両腕が、段々と握力を失っていく。ナマエは一度だって、レヴィンの前で泣いたことは無い。
 失った時に涙を流せるような家族は、たったの一人だけだったのだから。形を変えても、彼は生きていた。だから、今まで立って来れた。

 それを彼自身が、こんな形で奪おうとしているのだ。

「わたしの幸せは、アンタしか無い」

 愛も、恋も、幸福も、レヴィンが与えたものだ。何も知らず、何も持ってなかった子供に、笛と名前と、全部をくれた。

 レヴィンは黙り込んでいたが、ナマエの握り込んだ指を解いた。別れの時を覚悟して、ナマエは涙を流す。
 だが、その言葉は来なかった。

「この身が朽ちるまでだ。私は身体が限界を迎えるまで、放浪する。当てもなく、人を避けるように」

 顔を上げたナマエを抱き込むように、緑の髪が掛かる。
 ナマエを覆うくらい身長差があったのに、今は精々胸元程度だ。縛るほどに長くなった髪が肩に垂れ下がって、嫌でも時の流れを知覚する。

 暖かな身体がナマエを掻き抱いた。心臓だって動いているのに、吐息だって聞こえるのに、レヴィンは死んだ。死んだから、愛する子供と共にいられない。
 その孤独を思うと、ナマエは更に涙が溢れてきた。ひとりはさびしい。ひとりはつらい。レヴィンはこんなに頑張ったのに、どうして一人にならなくてはならないのだろう。

 溢れる涙をレヴィンは指で拭って、ナマエに囁くように言った。

「泣かないでくれ…」

「どの口が言うんだ。アンタのせいで泣いてるのに」

 久しぶりに聞いた、困ったような、呆れた声だ。ナマエがワガママを言うと、レヴィンはいつも折れてくれた。肉が食べたい。この曲は好きじゃない。楽譜が読めない。もう歩きたくない。
 酷い子供だった。育ちの悪い、無知な子供だった。

 もう子供ではない。そう自分に言い聞かせて、彼に本音を語らなくなったのはいつからだったか。

「連れて行ってよ。何処までも」

 背中に回された腕に、力が籠る。そうして、抱き竦める力に反したか細い声が、弱々しく言った。

「俺は人里を離れ、何処かで終わりの時を待つ」

「…」

「お前まで付き合う必要は無い」

 ここまで言っておいて、レヴィンは何を言い出すのだろう。
 ナマエはずっとレヴィンに付き合ってきた。嫌々ではない。彼が共に居させてくれるから、付き合うことが出来たのだ。

 拾われた時だって、シグルド軍に加わった時だって、王城に居た時だって。
 学もない孤児の子供など、手元に置く方が難しかっただろうに。

 王城の時だって、酷く反対されたと聞いている。フュリーにだって、彼の母親にだってレヴィンは小言を言われた。二人ともナマエに優しかったけれど、レヴィンはシレジアの王だったからだ。
 置くなら従者でなく愛人にしろと、貴族としての体裁を指摘されていたのも知っている。それをナマエが聞かないように、根回ししていたのも知っている。
 ナマエはずっとレヴィンに許されてきたのだ。

「貴方が言ったんですよ。笛を吹かせる為に拾った、って。
笛を吹けなければ、わたしはわたしではない。ナマエは、吟遊詩人の名前だ」

 最初に貰ったもの────何よりも大切な、命よりも大切な、レヴィンがくれた笛を見せる。
 この指で吹くのは不可能だろう。だが、ナマエの存在理由はそれだ。彼の奏でる弦と歌に合わせて、旋律を添える。それが人生で、それが幸福だった。

 彼はそれを見て、「そうだったな」と呟いた。
 諦めたような声の割に、久しく聞いてない軽やかな言い方だった。

「だがお前、吹けるのか?」

「吹ける」

 嘗てのように、同じ音しか鳴らない笛を吹く。
 いつかのような問答にレヴィンは笑った。それが嘘だと、ずっと知っていたのだから。

 レヴィンはナマエに手を差し出す。ナマエはそれを握った。そうして彼は歩き出す。お互い随分汚れてしまったが、快晴の空にはいつだって暖かな風が吹く。
 それは昔のように。旅立ちの、あの日のように。

「ナマエは何処に行ったのかしら?」

 リーンはアーサーに尋ねた。ナマエは先程まで、セティと話をしていた筈だ。
 レヴィンの補佐であり、暗い顔の女性。ただでさえ何処か苦手な雰囲気があったが、レヴィンと話す顔は一層暗い。いつも優しくリーン達を見守っているレヴィンだって、ナマエには冷たい。
 てっきりリーンはレヴィンと彼女の仲が悪いと思っていたのだが。

「さあ。旅にでも出たんじゃない」

 アーサーは寄り添うように置かれた、緑の魔導書と剣を見た。代わりに持ち去られたのは、一対の楽器だった。