Toute médaille a son revers.
─────美しいように見える金貨も、裏面は作りが雑でそうでもない。どんな物事にも悪い面がある、という諺だ。
「へえー。セイバーの…秩序・善のジャック・ド・モレーは、こういう女の子が好みなんだ。
…ってえ、まあそうか。きみの瞳は真っ直ぐで、うんうん。堕落するトコ…見てみたいな?」
わたしは一歩後退した。目の前のサーヴァントは二歩詰めて、こちらの頬を撫でる。
どなたか存じ上げないのだが、その妖艶な雰囲気────ではなく、何処か気落ちしたようなダウナーな眼差し。宗教絡みの騎士団に所属しているような見た目。そして何より、同じ形状のメガネ。白髪。碧眼。
そんな辺りが、セイバーに似ているような。
勿論、頬を撫でまわし、足を絡め指を絡め、此方を誘惑するような仕草をするところなどは全く似てはいないが。
「ね…あたしと話してるのに、他のこと考えてる?」
それはそうだろう。
知らないサーヴァントに絡まれて、今はセイバーも不在と来た。この状況を如何するか、そもそもコイツは誰なのか。セイバーをすぐにでも呼び戻すべきか。
そう思案するわたしの首を、サーヴァントは指先でなぞった。擽ったくて身を捩って避ければ、彼女は「うふふ」と微笑んで、わたしをソファに押す。
脇の下に手を突っ込まれ、空いた手は鎖骨に添えられて、足は股の間に。セイバー似の美少女に迫られたわたしは「うわー!良い匂い!」と現実逃避を始めていた。
「こんなに胸を高鳴らせちゃって…さ。なんだか、浮気みたい…って思ってる?
あっ、嘘はダメだからね。うーそ付いたら、呪っ殺すから」
そんなん全く思っていなかったが。
そう言われると、そうかもしれない。わたしはこれを浮気とは思わず、普通に通りすがりのサーヴァントに襲われているだけと捉えていた。
だからそうは思わなかったけれど、確かに今ときめいてしまっている。これは、浮気なのかもしれない。
そして少なくとも、セイバーは気にするだろう。口では不可抗力だと言うだろうが、多分すごく気にするだろう!
もがいて抵抗を始めたわたしに、女は愉快そうに笑った。赤い舌がチラついて艶かしい。
「ノンノン。でも、これ別に浮気じゃないよ、大丈夫大丈夫」
こんな風に彼女は言っているが、浮気は“された側がそう思ったら浮気”なのだ。
そう言って押し返そうとしたが、逆に腕を掴まれて、指先を彼女の胸に押し当てられてしまう。柔らかい肉に指が沈んで、あと良い匂いがする。なんたる誘惑!困る!こんなとこ見られたら終わる!
動けず固まったわたしの耳元で、サーヴァントは囁いた。吐息が当たって擽ったい。
「大丈夫だって。あたしとセイバーの私…一応、同一人物だから、さ」
はあ?
わたしはあまりの発言に付いて行けず、彼女とセイバーを脳内で比べる。そもそもの話、彼女と彼だ。
いやそもそもサーヴァントなのだから、性別とかあんまり関係ないのか?
聖杯戦争で使役する使い魔は、座に登録された英霊であり、当人ではない。境界記録帯…ゴーストライナーに記された、記録をベースに写しを呼んでいるのだ。
…でもまあ、わたしはセイバーをジャック・ド・モレー本人だと思っているし、記憶があるのだから当人に等しいと思ってもいる。
コピーの使い魔ではなく、個人なのだと。魔術師らしからぬが、一応…そう、思っている。
それを言ったら、セイバーのことだ。彼は必ず生暖かい視線でわたしを見るので、絶対に言うことは無いのだが!
話を戻そう。
ジャック・ド・モレーは、実は魔女のような魔性を持った女性であり、凄まじい手練手管で人を誘惑し堕落へ誘った英霊だった?
それは、さすがに有り得ない。チェイテ城の上にピラミッドと姫路城が建設されてテンプル騎士が配置されるくらい有り得ない。
一度すべての前提条件を捨てて、セイバーと彼女を比べてみよう。
脳内で浮かべたセイバーと、目の前のサーヴァントを並べると…もう既に激似だった。確かに因果関係が強そう。見た目で人を判断してはいけないが、確かにセイバーが女性になったらこうなるかもしれない。
纏っているフードは色こそ反転しているが、セイバーと同じ十字軍のものであり、その盾も見覚えのある意匠だ。
ぱっと見こそは質素に見えるものの、しっかり資産を投じて装備を整えていたというテンプル騎士団らしい、頑丈な作りをしている。
彼女は本当に、申告通りジャック・ド・モレーなのだろう。
…いや、まじで!?ジャック・ド・モレー!?これが!?
わたしは度肝を抜かれる。好みのキャラがアーケードで新規実装されたのでガン引きして慈しんでいたらソシャゲにも来たって言うのでウキウキでゲーム開いたら知らねえけどよくよく見たらキャラの面影がかなりある別の女が実装されていてひっくり返った時くらいに驚いた。
しかし、いくら同一人物だからと言っても浮気は浮気。ダメなので、ダメです。
そうキッパリ断ったが、モレーちゃんはメガネの奥の瞳を輝かせた。まずい。ダメと言われた方が燃えるタイプらしい。自分はメガネ外してって言ったら「ぜったい嫌」って怒りそうなのに!
モレーちゃんは構わずグイグイと迫り、その柔らかい乳を人の身体に乗せた。
やわらかい!やめて!セイバーが胃痛で死ぬ! わたしは押し除けようともがくが、モレーちゃんは堕落しようがサーヴァントである。全く微動だにしない。
わたしは仕方なく、武力行使をしようと腕を振り上げて────チャリン。甲高い澄んだ音がした。
「…なあに、今の音?」
わたしのズボンの裾から、次々と記念硬貨が落下する。
フォーリナーのモレーは笑顔を一度固まらせて、滑って行った硬貨を拾い上げる。そして全くいやらしくない動作で、わたしの肩を鷲掴んだ。
「銀を軽しむもの、皆、銀にて滅びなん…きみたちの国だと、一円を笑うものは一円に泣く?」
掌に記念硬貨を捩じ込んで握らせたモレーちゃんは、過去に同じ名前の別の人から聞いた言葉を口にした。
「莫大な富は呪いを招くけど、所有している資産を蔑ろにして良い訳ではないでしょーよ。
ほらほら、ちゃーんと財布にしまって、ほい」
金に対する価値観がセイバーとはかなり違うようだが、金銭の管理がしっかりしているところは同じらしい。
わたしの胸に手を突っ込んで、小銭入れを探し出した彼女は、そこにコインをしまわせる。
わたしは普段、現金を持ち歩いていない。
しかし、完全に手ブラの無一文で出歩くのは、セイバー的にダメらしい。
というのも、先日こういう一件があった。
場面は変わって、商店街。日用品が切れたので、買って来て欲しいと。セイバーがパスから連絡をして来たのだ。
しかし、わたしは現金を持っていない。素直に家に戻って、再びおつかいへと旅立った。
後でそれを聞いたセイバーは“出先であるから委託したというのに…!”とでも言いたげな顔をした。
そして「ああ…」と嘆くように呟いて「しかし…」と唸った。色々葛藤があるらしい。
わたしの財布は、セイバーが持っている。腰の財布に、集金袋と共に納められているのだ。
「ま、纏まった金額を持ち歩かせるのは、心配です。あ、あなたの管理は杜撰ですので…!」
じゃあやっぱ手ブラで良いじゃん。いま電子決済とかあるし。
「それでは、不測の事態…現金のみを信用するという形式に、マスターが対応できない。ですので…完全に何も持たせないというのも、不安が残るでしょう。
そ、それは。あなたが、記載を読まずに売買を行うからです…!」
咎めるような口調を無視し、わたしは反論する。
それなら、セイバーが一緒に出掛けたら良いじゃん。いつでも。
そう言われたセイバーは、非常に面食らってあわあわと落ち着かない様子になった。気恥ずかしそうに、それでいて隠しきれない嬉しさが、僅かに染まる頬から伝わる。
だが、すぐに気丈に口を引き結んだ。そして「い、いいえ。いけません。わ、私は…!屈する訳には参りません!」と何かと戦いだす。
“ズッしょで良いじゃん”という誘いは、セイバーにとって非常に嬉しい申し出だったようなのだが、教育方針────わたしの、真人間への更生プロジェクトに、問題が生じる…そんなことを言いたげな瞳であった。
「た、確かに。いついかなるときも、わ、私が付いて回れば良いのでしょう。ええ、それは、確実な一手です。
だが、私はマスターの父ではない…!過干渉は、いけないことだ…!」
いや、父親っていうか…母親みたいだが…
わたしはそれを言わず、静かにセイバーの主張を聞いた。
「あ、あなたを信じて。このモレーめは、静かに見守るのみ…!」
との事。
そういった経緯で、少額が入ったコインケースをセイバーから与えられていた。過保護か?
回想を終えたわたしは、コインを適当に片付けようとする。
「いけないんだー」
そして女性の方のモレーちゃんにも、そう一括されてしまった。
コチラの方がちょっとえっちでスケベな感じではあるものの、この反応は間違いなくジャック・ド・モレーであった。
わたしは聖杯戦争の予備知識が少ないまま参戦したので、そう言った事象に明るくはないのだが…同じ英霊であっても、召喚される際に誇張される側面が違う場合があるらしい。
例え話としては、ヴラド三世などが分かりやすいか。
彼は吸血鬼として召喚されれば、敵国から見た怪物としての特性が強く出るそうな。しかし施政の逸話を強くベースにされれば、ルーマニアを守った軍略家として召喚をされる。
このモレーも、わたしが知る敬虔で清貧なテンプル騎士団総長としてのモレーではないだけで、何処かの側面を重視されたモレーではあるのだろう。
何か別の逸話や理由があって、存在している筈だ。あのセイバーが、“魔女らしい姿”で、“堕落を願い”、“山羊を連れる“?
どう考えても無辜っている。異端の道を行くならば、わたしを導く必要などは無いはず。それなのに目の前に現れて、問答をする意味。
他でもないわたしと対話を試みるのは─────それこそ、復讐を望んだ、とか?
モレーちゃんはこれまでで一番魅力的に微笑んだ。
厚い唇が、艶めいてわたしを誘う。
「富はほら、呪いの源だから?
あんまり溜め込むと、不幸の元凶のなっちゃうよ」
それは。
わたしも嘗て、心の底ではそう思っていた。生家には莫大な富…土地や魔術刻印、媒介があった。
それさえなければ、そんなものがなければ。わたしは人を虐げて当たり前の魔術師にはならずとも良かったし、父が願いの為にわたしを見捨てることも、祖母が呪いを振り撒く事も、苦労を被ることも無かった筈。
「ほら。あたしと一緒。きみも富を奪われ、利用された者。
…運良く元本割れをしなかったに過ぎず、今後も悪徳の輩は居なくならない。あなたが富む限り、幾度無く善なるあなたを貶め、陰謀の渦中に叩き込む事だろう」
それは、その通りだ。人の悪性は無くならない。金がある限り、欲望を集める何かがある限り、悪しき異端の徒は貧しき者から奪うだろう。
だけど。根本的にひとつ、わたしたちは相容れなかった。
わたしはコインを弾く。
手を引っくり返すことも、袖からもう一枚出すことも、無回転で打ち出すことも─────なんのイカサマもせず、わたしは初めてコインを投げた。
そうして裏である事を確認する。
偶然見る占いはいつも最下位だし、アイスは当たらないし、寧ろ食べる前からぐちゃぐちゃだし。そんな薄幸のわたしが、表ばかりを引ける訳がない。
セイバーだって、これがインチキだったと気付いて居ただろう。「そ、そうではないかと。薄々…」とは本人の弁だ。
嘘が嫌いな筈の彼は、分かっているのに見逃していたのだった。
わたしは自分がツイていると思いたいだけで、そう思わないとやっていられなかっただけで、本当は弱い人間だった。
魔術師の正しさを捨てる勇気も、人の正しさを選ぶ勇気も無かったから。わたしはただ、都合の良い神様に全てを代弁して貰っていたに過ぎなかったのだけれど。
輝くコインは裏だった。正真正銘、100%の裏。それでも、これを表だと言おう。
不運を嘆かず、幸運を見出し、善い方を選ぶ。────そんなわたしの生き様を、セイバーが認めてくれたのだから。
「何度騙されても。何度陰謀に巻き込まれても。誰に利用されようと。わたしは、自分の思う善い道を選ぶよ」
「…何にも成れず、何も出来ず。私のように、無念に終わると決まっていても?」
「そう。だって、富むこと自体が悪い訳ないんだから」
富が呪いを産むのではなく、富の為に道を外れる者こそが呪いを産むのだ。
金に目が眩む者は、きっと金だけに眩む訳ではない。些細な悪行を積み重ねて、莫大な悪を築き上げている。
それを言うのに、随分と回り道をした。
わたしには確信があった。先にモレーちゃんに出会っていれば、世界を呪っていただろうという確信が。きっと恨み言を垂れ流して、憎しみを振り撒いて、彼女と共にすべてを焼いて居ただろう。
でもそうならなかった。セイバーとの出会いが、気持ちの良い道を選ばせた。
「案外、なんも無いとかないんだよ。理由なんか後から付けばいい。
今は、とりあえず… わたしがそうした方が気持ち良いなら、そうしていくってだけ」
わたしは富を蓄え、資産を管理し、正しい運用をするだろう。
資産は力だ。貧しき者から奪う不徳の輩が居るならば、わたしがそれを挫けば良い。それがこの町の地主たる魔術師の矜持。ノブレスオブリージュに基く精神である。
その道に、いつか報われる誰かが居る。歩いた旅路を、いつか辿る誰かが居る。
嘗てセイバーが歩んだ巡礼に、わたしが救われたように。過去はいつか、未来に繋がる。それでいいのだ。
つまり正々堂々、誇りを胸に抗戦するということ!
わたしはそう言って、胸を打った手でモレーちゃんの手を取った。白く細い指先は、戸惑うように強張る。
わたしは先ほどのコインを彼女に見せる。裏だと知っていたから、モレーちゃんは哀しげに笑った。
「なーに。あたしがジャック・ド・モレーの裏面だって…呪いを叫んだ、悪しき面だって言いたいの」
彼女は自身に引け目があり、自虐的でダウナーだ。
わたしが何かを言う前に、自衛をするように笑い出した。その声は、嘲りに────自身への、冷笑に満ちている。
「ふふ…うふふ…そうだね。それを、否定出来る筈もあるまい。嘗て敬虔で在ったとて、私は怨み、憎しみ、呪い、異端に堕ちた。このように穢れた我が身などが、英霊として在って良い訳が…むぐ」
モレーちゃんの唇を指先で塞ぐ。それ以上の自虐はダメ。
わたしは別に、そんなくだらない糾弾がしたい訳でも、セイバーと比べてどちらが良いかを問うた訳でもない。
指先でコインを回す。わたしが弾いていた記念硬貨は、両面が等しく美しい。
Toute médaille a son reversなんて冒頭で述べてしまったけれど、今の時代じゃ両面綺麗で当然なのだ。醜い裏など有りはしない。
少なくとも、わたしは二人のジャック・ド・モレーにそう思う。
第一、積み上げた金貨に一枚価値の無いもの…レシートとか挟んだくらいで、今までの価値が無くなるか? 貯金箱におもちゃのメダルを入れたって、貯金は減ったりしない筈。
そう言えば、モレーちゃんは困ったように笑った。わたしの詭弁を否定しようにも、喉が震えている。
「────でも。貴方の言うとおり、悪しき人は居なくならない。
だからさ。それが上手くいかなくて、騙されて、奪われそうになったら」
彼女の手を握る。彼が何度も、わたしにそうしたように。
冷たい指先を手のひらで包み込んで、わたしはお願いをする。
「ジャック・ド・モレーは、わたしに融資をしてくれる?」
モレーちゃんは面食らった。此方を堕落させ、快楽へと、楽な方へと誘おうとしていたけれど、わたしが困難の旅路へと誘ったからである。
彼女は躊躇う。呪いに落ちた身を、異端となった身を、内心では恥じているからなのかもしれない。
「…フランス王家が、あの、見た目だけの貴族が。…あなたみたいに、綺麗な人だったら」
憎しみを滲ませた言葉だった。だけれど、それよりも強い感情がある。
無力感。なにもかも嫌だという自棄。己に対する嫌悪。ジャック・ド・モレーは、フランス王家を憎んではいるのだろう。
だが、生真面目だった彼女────いや、彼は。
金などの為に嘘を吐いた者より。富の為に人を辱めた哀れで浅ましい者より。
信じていたものを、一度だけでも信じられなかった自分────異端と降ちた己への、強い失望があった。
「…あたしも、世界を呪わなかったのにね」
消え入るような声だった。
俯いたモレーは、フードをあげる。そして躊躇うことなく指を絡めて、胸をこちらに押し付けた。鼻筋にメガネが当たる。
厚みのある唇が、わたしに息を吐いた。
「ね、あたしに乗り換える…とかは良いよ。だってそれって、略奪だしねー。
清貧な修道士から、霊器以外も借りてそのままパクっちゃうなんて。それこそ、あたしも許せない。…例え相手が、自分であってもさ」
モレーちゃんは、やっぱり根本のところでセイバーと同じだ。清貧なる者からの略奪を許さず、自らも決してそれをしない。
…でも、積極性は真逆であった。
堂々とした口振りで、一切の照れを見せずに人をめちゃくちゃに誘惑している。
モレーちゃんは再びわたしにのし掛かって、足の間に太腿を捩じ込んだ。白い指は頬を撫でて、確実に唇を奪おうと強くホールドする。
「でも、ほら?ほら、ほら。maitresse…愛人とか?」
な、なにが?
わたしは嫌な予感に身体を強張らせる。「うふふ。分かってる癖に、かわいい」と呟いたモレーちゃんは、指で喉をなぞった。
「なにって、あたしとの関係。それくらいなら、よくない?
きみって貴族だし…二人くらい養っても、ね!」
それおまえんとこの教義に反するだろ!
わたしは拒んだが、「あたしは既に異端扱い。今更なんだって話だし? あなたってば…まっじめ〜!…そんなとこ、好き」とモレーちゃんはグイグイ来た。
「姦淫をしてはならない…」
「もー面倒だな。じゃ、もっかい教えてあげる。でもきみも、分かってるでしょ?
あたしも、あいつも、ジャック・ド・モレー! まったく問題ありませーん」
ダメに決まってんだろうが!
この不真面目オブ不真面目、自堕落だらしな魔術師のわたしが真面目にカウントされるくらい堕落してやがる!
わたしは神が見ていると言ったが、当然見ていない時もある。モレーちゃんは割と本気らしく、その白い手が誘惑するように人のことを撫でまわしまくった。
そうして今度こそと言わんばかりに、舌を出して顔を近付ける。彼女からは“舌を入れます!”という強い意志を感じた。やめてください!
セイバーとはえろ…えらい違いである。モレーちゃんがちょっとえっちすぎて錯乱していた。
あっちは結局、もだもだした挙句にキスのひとつもしなかったというのに。わたしはこんなに頑張ったのに、手を握り合って終わりだった!あいつはあいつでふざけてやがる!
姦淫をしてはならない!貞淑にあるべし!妻または夫以外に肉体関係を持ってはならない!
そう強く拒むが、モレーちゃんは全く気にしていない。こいつは多分、大っぴらに嘘は吐かないが、都合の悪い事は黙って笑顔で流すタイプである。
なにがどうなったらセイバーがこうなってしまうんだ。
「じゃ、気に食わないけど…百歩…ううーん、千歩?776km分くらい譲って、あいつが夫で、あたしが妻で良くない?…いや、私が夫が良いな…まあいっか。
ほら、なーんも問題ない。一夫一妻、言葉通りだ。…ね、そうでしょ、うふふ」
セーヌ川の全長くらい譲られて草。マジでやばい。姦淫される。でも、たぶん。多分、大丈夫だ。
巡礼の道に迷っても、わたしには道を拓く剣がある。困難を払う、決して砕けない元本がある。
神が見ていない時も─────わたしのセイバーは、わたしを見守っていることだろう。
「マスターによくも好き放題してくれたものだ」
モレーちゃんの頭が鷲掴まれる。
わたしは、今まで聞いた事の無いセイバーの声に驚きながら、そちらを見た。
セイバーはモレーちゃんを引き剥がし、その間に自分が滑り込んだ。わたしとモレーちゃんの間に、モレーが収まる。もうめちゃくちゃだった。
「ちょっとー。横入りはズルくないかな。今はあたしがさー、味見しちゃおっかなって思ってたのに」
「先に割り込んだのはおまえだろう! その上マスターに口論で負かされ、挙句に肉体関係を迫るとは…恥ずかしくないのか!」
「いーじゃん、減るもんじゃないし。気持ち良いこと、しちゃおうよ。順番待ちって分かってるならさあ、早く進んじゃえ。
ほらほらー。本音を漏らしてご覧よ。本当は、きみだってマスターとイチャイチャしたいんだって。ねー?」
「マスター、宝具の使用許可を。どうか、この汚名を返上する機会をお与えください」
セイバーは据わった目で剣を抜いた。自らの手で、自身の別面を消す気満々である。
わたしは「お、落ち着いて…」と宥めるが、セイバーもモレーちゃんもギスギスしている。同族嫌悪が当然のようにあるのだろう。
仲良くしたら良いのに、とは思うものの、言った瞬間にわたしが総バッシングを受けそうだった。
「そもそも、そっちが割り込みなのに。あたしが先に出たかったのに。本当ならフォーリナーのあたしが召喚されてたのに。
それを割り込んで…割り込んでおきながら、手も出さずに“私、貞淑な騎士でーす”みたいな?
…はあー、真面目にも程があんだろ。…ふふっ…うふふ…ずるーい!」
「召喚に割り込みも何も無い!この場はおまえでなく、私が適任だったというだけだ!
事実、マスターは清貧を好み、善なる道を行く者。堕落と快楽を優先させるような人柄では… では…無い!」
本音がだだ漏れ、もれもれモレーになってしまった。
セイバーは「マスターは最後には善行を選ぶ筈だが、自身に関しては自堕落である時もあられる」とでも言いたげな顔をした。
モレーとモレーちゃんが揉める姿を見せられている。
わたしは色々考えるべき事があった。なんでモレーちゃん女の子なの?とか、なんで居るの?とか。
でもそれはさておき、セイバーの女体化と言えるルックスの美女がセイバーと並んでいる…それが非常に眼福。
ジャック・ド・モレーは最高のサーヴァントだが、男性の方も女性の方も等しく最高のサーヴァントである。
なので、まあいっか!という気持ちが胸を占めていた。
「良い訳がない…」
「それに関しては、あたしも同意見」
結局、総バッシングを食らっている。
セイバーに取っては認め難い存在であるだろうが、モレーちゃんは確かにジャック・ド・モレーだ。その在り方は違っているけれど、根底の所は同じだとわたしは思った。
彼には悪いが、モレーちゃんのことも既に好きである。モレーちゃん、100%のモレーなので。
フランス王家を恨み、一度だけ神を信じられず、呪いを振り撒いてしまったか────フランス王家を恨まず、死して尚も神を敬愛しているか。
そこが違うだけで…いや、結構致命的に違うな?
それでもモレーちゃんはモレーだ。金銭感覚がしっかりしていて、堕落だなんだと言う割には、なんだかんだ真面目なところがあって。
あと多分だけれど。堕ちて尚、騎士の誇りを持っている。
異端に走ってしまったとて、その精神はテンプル騎士…のように、わたしは感じた。
彼女は悪い女みたいな振る舞いをしているけれど、たぶん人が困っていれば助けるだろう。なんだかんだ文句を言いながらも。
そういう善さが、わたしを惹き付けて止まない。
それにしても。
セイバーは人見知りをする性格だが、モレーちゃん相手には全く人見知りをしていない。堂々とした物言いで、全く引け目なく意見主張を浴びせている。
セイバーが口籠るのは、人見知りをするからであると、わたしは知っている。
暫く共に過ごして知った事だが、彼は噛み易いだとか、気弱だとか、心身に問題があるとか、そういうわけではない。単に内向的な性格で、人見知りをするのである。
でも。長らく過ごしたわたしには、未だ人見知りしているというのに。
モレーちゃんは同一人物とはいえ、最初から自然に接されていてちょっと羨ましい。自惚れで無ければ、わたしはセイバーには悪く思われていない筈。
それでもどうしても、なんだか距離を感じる時があって、ちょっと寂しい瞬間がある。
いいなー。
つい本音を漏らしてしまったわたしを、セイバーは動揺した顔で見た。モレーちゃんは目を輝かせて、こちらの欲望を歓迎している。
セイバーを押し除けた彼女は、ピッタリと身体を押し付けた。耳元に口を寄せて、囁くように言う。
「ね…教えてあげよっか。あのね、セイバーのあたしはね」
わたしと契約した事で、筋力と耐久は上がったが敏捷と幸運が激しく下がったセイバーがモレーちゃんを掴む。
引き剥がすよりも早く、彼女はわたしに告げ口をした。
「あなたを意識してるから、吃ってるの」
その言葉を聞いて、わたしはモレーちゃんに抱き付かれたままセイバーに飛び付いた。
セイバーは体勢を崩したが、わたしとモレーちゃんを乗せたまま受け身を取る。
指が覚束なく彷徨って、背中に添えられることもなく宙で止まった。ただ気恥ずかしそうに、わたしを引き剥がすことなく黙って抱き付かれている。
何かを言おうと口を開いて、結局なにも言わずに口を噤む。
それを見たモレーちゃんが「ふっふ… 自分を揶揄うと、いっちばん溜飲下がるー」と笑った。彼女は空気を読んで立ち上がり、そそくさと部屋を出ていく。
玄関とは真逆の方向に歩いて行くので、居座る気は満々だったが。
「待て!おまえ、マスターの家に居座る気か!?」
セイバーはモレーちゃんを糾弾したが、今のわたしにとって、そんなことはどうでもいい。
「ね、セイバー。それよりさ、いまの話。…詳細を聞きたいんだけど」
「そ、それは…! い、いえ。それよりも。あれの処遇を決めるべきでしょう。
あのサーヴァントは、堕落を良しとしています。その考えは、いけません。あなたにとって、毒となる…!」
埒が明かない。わたしは黙って彼の首に手を回した。霊子で出来たダウンコートは、案外ふかふかである。その中の肉体は、見た目に違わず細い。
生真面目な騎士は再び閉口する。おろおろと手を彷徨わせて、やっぱり何処も掴めず、床にそれを置く。
「セイバー」
「は、はい…」
メガネの向こう側が、こちらをまっすぐに見る。よろしい。わたしは弁舌巧みに主張を並べた。
セイバーがコミュ障気味なのは知っているが、いい加減ハッキリして欲しいこと。
わたしはセイバーが好きだが、そちらからは返答が一度もないこと。
セイバーは思うがままに物を語らないのが美徳だと思っている節があるし、わたしもそれは素敵だと思っているが、貞淑がすぎるのも如何なものかと。
それらを捲し立てられたセイバーは、謝罪を一言。謝って欲しいわけじゃないんだけど!
そう追求すれば、セイバーは消えるように微かな声で、やっぱりもごもご…いや、まごまご。まごまごして言った。
「…も、モナムール…なの、です。あ、あなたは…」
mon amour。モナム。モナムール。
以前のわたしであれば、絶対に引いていただろう。勝負に出ても、損が無ければ問題ない。若干足りないが、それで手を打ったに違いなかった。
セイバーだって、そう勘定をしていた筈。
彼の見積もりが狂いまくってるのは分かったが、わたしは追求を緩めなかった。これまで散々こちらの好意への返済を延滞されたからである。
伏せられた目は、まつ毛が震えている。ながい。愛の言葉を囁く事は、彼にとって非常にハードルが高かったのだろう。
わたしも、奥手のセイバーにしては頑張った言葉だと思う。だが足りない。まだ足りない。わたしが欲しいのはもっと。しっかりした確約である。
それを、どう訳すのか。尋ねれば、セイバーは上擦った声で言う。
「い、意味は!ご自身で…!」
逃げの姿勢だ。腰と同じく引けている。腕だって、セイバーの襟足を撫でるわたしの指先をどうするか悩んで、結局触れずに彷徨っていた。
その手を掴んで、指を絡める。手袋越しの体温が燃えるように熱い。
────わたしは、運命だと。そう訳したいけれど?
囁く声に、セイバーは黙りこくった。脳を焼かれたらしい。
ねえねえと催促すれば、困った顔で彼はわたしを見る。かわいらしいと直接言われずとも、此方にはその言葉が分かった。
セイバーは、人をかわいいモノとしてカウントしている節がある。それも、わたしは利用させて頂こう。セイバーは努めて公平で在らんとするが、非常に人間らしいところもあった。
己が思う、かわいいもの。それに対する査定が甘いのだった。
「おっ…」
お?
「お、お好きなように…」
わたしは、やっとのことで一言を聞き出す。
「…あ、あなたが、そう思うように。私も、そうだと…想っております、ので…」
その唇は震え、耳は赤く染まり、震える羊のようだった。
宛らわたしは狼か? 山羊も羊も、この手に抱いている。
善いも悪いも、わたしが決める事。富をどう使うかは、持ち主次第なのだから。
とりあえず、今まで積み重ねて来た富────信頼と、好意。
蓄えたそれらを、今。ぐらんぐらんに揺らして、勝負をしている。わたしの貯めた誠実は、この時にこそ輝くだろう。
彼は誰よりもよく知っている。それは、今迄の戦い…令呪の使用。資金の投入。リスクの取り時。一手間違えれば、破産するような行い。セイバーが本来好まない、元本割れを招きかねない選択。
ギャンブルとも言い換えられる、博打。それらの大胆な行動を、彼が一つも咎めなかった事からも分かる。
ジャック・ド・モレーの堅実さ────絶対に損益を出さない、確実な一手。分散投資の如く、手堅い行動。出資者の財産を守護し、必ず増やすという意志。
わたしがそれを、何より信頼していたように。
彼もまた、わたしというギャンブラーの嗅覚を。リスクを負ってでも、打つべき一手の見定めを。なんだかんだ信頼していたからだ。
こう言ってはなんだが、人生は大なり小なりギャンブルだとわたしは考える。
人生という巡礼。人は常に選択を迫られ、命を担保に博打をし続ける。それをスロットのように激しく回すか、投資のように手堅く行くかは人次第だが。
そして、こうも思う。そこでどちらも選んでしまえば、parfaitではないか?
「なにがparfaitですか…! ま、まったく完璧ではありません! 破綻しています!」
セイバーはわたしを非難したが、それは敗者の遠吠えである。挑発的に微笑めば、彼の喉が鳴った。
投資し、積み上げた信頼。誠実。好意。絶対。そしてそれを手にし、いまこそ賭けをしよう。貯めた資金を、全ベット。
わたしはセイバーの手袋を取り去る。
戸惑う指先を無視して、それをベルトに差し込んだ。指先を絡めるだけでは許してやらない。
寄り掛かって、逃げようとする耳に触れる。澄んだ青色は、情欲を確かに携えていた。手応えしかない。
食らえ!好意を貯め、調査を重ね、徹底的にリスクを排除し、必殺で放った誘惑を受けろ!
「ねえセイバー」
「な、なんでしょう…」
「キスしてほしい。今度こそ」
わたしという人間は、浪費と散財が得意だ。しかし、此処ぞの大一番。
勝負所は、決して間違えない────!
「…なっ!……い、いえ。そ、そう。そうですね。それは、そうでしょう。先日の約束は、未だ履行されてはいない。…せ、正当な権利です。と、当然の申し出だ」
ちゅーってそんな履行とか出てくるようなものかな?
わたしは思わずツッコミを入れ掛けたが、ムードを破壊しては、またセイバーになあなあで流されるだろう。幸いあちらも乗り気ではあるので、もう一押しと口を開く。
「…履行して?」
口走った後に、“履行してってなんだよ!”とわたしは思った。
羞恥に頬が染まるが、セイバーはそれを見て、少しだけはにかんだ。柔らかな眼差しが“かわいらしい”と口ほどに語っている。
「…そのように」
視線が彷徨って、降伏を選んだ手がわたしの頬に添えられる。メガネを取る事はせず、顔が静かに近付いた。
それは確かな言質である。それは確かに担保である。
わたしはセイバーが好き。もう一番好き。信念を曲げてまで────いや、曲げないからこそ。わたしに報いあれと願ってくれた、誰よりいじらしいサーヴァント。好きじゃないわけがない。
そしてセイバーも、わたしを哀れむとか、そんなのじゃない。わたしを愛し、慈しんでくれている。
今たしかに、その確約を得た! あと、キスもねだっていい!
もう少しと思わんでもないが、徴収のタイミングはこれから幾らでもある。時間を掛けて、じっくり捲きあげればいい。
──────だから、今回はこれで勘弁してやろう。わたしは今、とっても気分が良いので!