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迷える守護者と接ぎ木の血

ナマエは庭師の一族である。

数百年程の歴史を持つこの街の領主に代々仕えて来た、由緒正しい領主様御用達の庭師だ。

この街は近隣地域の中でも特にフォトンに恵まれていた。
美しい外観、整備された緑、人工的に手を加えられ緩やかなカーブを描く川。
そしてその岸辺に年を通して咲き乱れる花々は、息を呑むほど美しかったらしい。

…と、言うのも、ナマエが世襲する頃には街はすっかり衰退していたからである。

元々、祖父の祖父のそのまた祖父の世代くらいから大地の恵みは枯れ始めていたらしく、枯渇しきった今や花々は僅かに根を張っているだけだ。

誠に残念ながらナマエは話に聞いただけなので、当時を語る祖父の楽しそうな顔しか知らない。
しかし腕利きの庭師であった祖父が“何より美しかった”と言うのだから、間違いないのだろう。

彼の鋏は滑るように草木を刈り取り、美しい形を作り出す。
いつかその技に追い付けるように努力を続けていたが、祖父は去年亡くなってしまった。追い付けたと思える日は、一度も来なさそうだ。

シャキンと金属が交わる音がして、余計な葉が地面に落ちる。
整え終わったのを確認して、周りに生えようとしている雑草を抜く。

完全に枯れてはいないとはいえ、美しく育たなそうなものは間引かなければならない。
この土地の大地の恵みは貴重だから、強く子孫を遺すであろう個体だけを育てる。そうしてナマエたちは細々と生きてきた。

だからこうして、振り返った視線の先に居る恐ろしい目付きをした男にどういう反応をしていいか分からなかったし、

「お、おはようございます…旅のお方…?」

引き攣った声が出たのも仕方がないと思う。
青年は目を見開いで、ずんずんと歩いてくる。真っ直ぐこちらに向かって。

「おいてめえ、追放メギドだったのか」

白い髪に澄んだ色の瞳をした男は、温暖なこの季節に向かない厚手のコートをたなびかせてナマエの肩を掴んだ。

「どっ…どちらさまですか…」

上擦った声を隠せぬまま、率直に返す。
聞き返された男は、鋭い眼光でナマエを睨む。そして眉間に濃い皺を刻んで凄んだ。

「俺が聞いてんだ。イエスかノーで答えろ」

彼は掴む腕に力を入れた。堪らず跳ね上がれば早く言えと言わんばかりの冷ややかな視線がナマエを見下ろす。

「ち、違います!そもそもメギドさんってどなたですか!」

必死さのあまり叫ぶナマエに面食らい、鬱陶しげに手を離した男は瞬きをした。
薄い色彩の瞳が水面のように揺らめく。

「人違いだった」

いや謝罪しろよ。
なんて不躾な男なんだと憤慨して詰めれば、青年はダルそうに此方を睨む。

「てめえが知り合いの顔に似過ぎてたのが悪ぃんだよ。なんで俺がヴィータに謝罪しなきゃならねえんだ」

失礼に失礼を上塗りされた。もはや怒りを通り越して呆れしかない。
街を訪れた旅人にはある程度の親切をするのが家の習わしであったが、流石に放置でいいだろう。

鋏を握り直し、そっぽを向いて己の作業に戻る。
しょきん、しょきんと小気味の良い音が響いて、少しだけ精神が落ち着いた。

「おい」

…。

「てめえしか居ねえんだから無視してんじゃねえ」

…なんなんだよ!

「なんでしょうか…」

心の声をそのまま出す事も出来ず、普通に振り返れば、先程と変わらず人を殺せそうなほどキツイ眼差しをしている男が「この木」と指指す。

「管理してるのはてめえか?」

「そうですけど」

素直に答えれば、男は木を見上げたまま続ける。

「てめえ以外の人間は?」

男の質問は、この街についてのことらしい。
偶然立ち寄った旅人かと思っていたが、案外と彼はこの街に対しての知識を持っているようだった。

「この街は千人単位の大都市だった筈だ。これだけ歩いて一人しか捕まらないなんてことは無かった。居ねえのならその理由を聞かせろ」

矢継ぎ早に捲し立てられた質問に困惑すれば、青年は溜息を吐いた。

「纏まらねえならそれでいい。片っ端から知ってることを話せ。俺の方で勝手に纏める」

フォローなのかそうじゃないのかよく分からないことを言われる。
優しさと言うよりかは、妥協といった感じである。

ナマエはこの男と会話をしたくなかったが、相手が話すまで解放してくれなさそうな手前、そういうわけにもいかないようだ。
仕方なく、緑の整備を中断する。

「ええっと、この街は数百年前から大地の恵みが減り始めていて、」

「数百年前?」

「はい。大体、二、三百年前の話でしょうか。それで、飢饉で街は滅びました。領主や領民は、街を捨てることを選んだんです」

「じゃあお前はなんで居る」

「捨てることを選ばなかった人間も居て、その末裔が…」

「分かった。その話は良い、読めたからな。続きを話せ」

幼い頃は数世帯の家族が細々と暮らしていたが、大多数が伝染病で死に、残り少ない生き残りも街を去ってしまったこと。
祖父は土地を離れることを選ばず、一人、また一人と減って行く街に住み続けていた結果、今やナマエしか居ないこと。

説明すれば、神妙そうな顔の男は「それで?」と短く言う。
意図が分からず困惑すれば、呆れたように深い溜息を吐く。

言葉が足りないのはそっちだぞと思ったが、ナマエが喧嘩腰になったら相手も怒るかもしれない。
成人男性と揉めて酷い目に逢うのは得策ではないので、そっと怒りを抑えた。

「その原因は。検討は付いてるのか」

「まあ、一応は」

「へえ。聞いてやるよ」

何故そこまで言わなくてはならないんだろうと思いはしたが、たまには人間とコミュニケーションを取ることも必要だと己に言い聞かせる。

「それは、」

「それは?」

それは。

「我が一族に掛けられた呪いです」

「なんだ馬鹿か」

馬鹿って言われた!

しょきんしょきんと鋏が軽やかに音を奏で、今日も今日とで美しい緑が整備されていく。

昨日は予想外の来訪者に戸惑ってしまったが、今日は姿が見えない。この街には何も無いので、早々に出て行ったのかも。

いつも通りに日課をこなせそうだ、と帰ってきた安寧に息を吐いた。
蕾を付けた木に手を添えれば、生命の息吹を感じる。

この街の緑はすっかり無くなってしまっているが、街の中央に生えているこの数十本の木だけは強く美しく成長していく。

この木は春になると桃色の花を咲かせ、一週間ほどで儚く散っていくのだ。
この花は、街の名物でありナマエたち一族の誇りであり技術の結晶でもあった。

木の生えている土地はかつては学び舎だった建物が存在している場所である。
それはすっかり見る影を無くし、なんとも言えない雰囲気を放ってはいるが、それでも花は綺麗なのだ。

まだ寒々しさが残る季節ではあるが、あと数日ほどで一斉に蕾が開くだろう。
雨風さえ強く無ければ、例年通りに並木が見れる筈だ。

「おい」

ナマエは木の整備で忙しいのだ。

「無視してんじゃねえぞ」

脚立の足を蹴られ、踏み台が大きく揺れる。
なんてことをするんだと血の気の引いた顔で振り返れば、視線だけで人間を十人くらい殺せそうな男が此方を見上げていた。昨日の男である。

男はそこそこ背が高かったが、脚立に乗ったナマエの方が高い位置に居るので、必然的に見下ろす形になる。

恐る恐る脚立から降りれば、早くしろと言わんばかりの男が睨む。
どういう教育を受けたらここまで不遜になるのか。しかしよく見れば綺麗な顔をしている。なまじ顔が整ってる分、余計に威圧感を与えられるが。

「この木の樹齢は」

意外な質問に関心を抱く。

「その顔をやめろ。不愉快だ」

吐き捨てられた。
正直ナマエはこの男と話がしたくなかったのだが、聞かれた以上もう無視は出来ない。

「一年ですね」

返せば、怪訝そうな顔をする。

「花を付けるまでが短過ぎる」

至極真っ当な指摘だった。

桃栗三年柿八年、と聞いたことがあるだろう。
木が育ち、花を付け、種子を飛ばすのは少なくともそれくらい掛かるものである。
しかし、ナマエが管理するこの木は、去年植えたばかりのものだった。

「そういう種類なんですよ」

男は「そうか」とだけ呟いて、押し黙ってしまった。
再び静寂が訪れ、しょきん、しょきんとナマエが鋏を鳴らす音だけが響く。男の視線と気配は消えないので、じっとこちらを見ているようだった。
居心地の悪さを感じて振り返れば、思ったよりも澄んだ色の瞳とかち合う。

「あの…」

「なんだ、要件は手短に言え」

辛辣な態度に心が折れかけたが、話しかけた以上引けない。

「まだ何かご用ですか?」

「てめえに用はねえ」

あーあー、そうですか!とキレ散らかそうとしたナマエの声を遮るように、「だが、」と男の声が割り込む。

「この木に用事がある」

ただでさえ冷ややかだった男の目が、更に凍えたものになる。
春先で暖かくなってきた筈だったが、そんなことも忘れてしまいそうな程に。

「これは一体なんだ?街を見て回ったが、雌の木しかねえ。どうやって増える?それに何故、フォトン…大地の恵みが枯れたこの土地に生え続けている?他の植物は?そもそも、こんな種類は見たことがない」

男は口調こそ粗暴だったが、教養も観察眼も備わっているようだった。
喧嘩腰なのはどうかとは思うが、ナマエは少し彼を見直す。

「ええっと、これはヨシノの木と言って、」

「…それは先祖の名前か?」

驚いて男を見れば、男も少し驚いた顔をしている。

「よく分かりましたね。私のご先祖様がこの木を作った時に、自分の妻の名前を付けたそうですよ」

「…作った?」

怪訝そうに寄せられた眉間が、彼の不機嫌さを表している。
態度こそ悪いが、ナマエもその気持ちは分かるし、感心してしまった。

「そうです。数百年前に、当時原生していた植物同士を掛け合わせて、領地の風物詩になるようにと改良をしたそうです」

「…」

「この木は子供を産めません。早く育ち、早く花を付けて、早く死ぬ。そういう風に作られています。
ですから私たち一族は接ぎ木をして、数十年程しか生きられない彼女たちを延命させてきました」

男は不機嫌さを隠さないものの、最後まで聞く気らしい。早く続きを話せと目が訴えてくる。

「でも、それが原因で呪われてしまって、私たちの一族は女ばかりが生まれるようになってしまいました。
そうして、繁殖に困るようになりました。いつしか大地の恵みも無くなって、この木以外は無くなってしまいました。何代も前からの話です」

黙って聞いていた男は深い深い溜息を吐いて「自業自得だな」と呟いた。

「命を弄ぶからそうなるんだ」

「み、身も蓋もありませんね…」

当たり前だと止めを刺した男は、存外にもそれ以上機嫌を損ねなかった。
寧ろ呆れの色を強くして、それはそれは深い溜息を吐く。

「つまり、てめえも悪いとは思ってんだな」

「それはそうですよ」

返せば、「へえ」と嘲笑するような表情をして瞳を細める。彼とは昨日出会ったばかりであるが、もうそこそこの人となりが理解出来てしまった。
聞いてやるよ、と言われる前に、咳払いを一つ。

「木とは言え、生き物です。管理を楽にするために、子供を奪うなんてあってはいけない。
そう教わって生きてきましたし、だから私たちはこの木を育て続ける責務があるんです」

再び押し黙った男は、先程と同じく呆れた風にナマエを見る。

「馬鹿だな。てめえも、先祖も」

昨日と同じ言葉であるのに、その目が少しだけ哀しそうだった気がして、なんとなく、少しだけ、この男のことが嫌いにはなれないと思った。

男は今日も木を見に来た。

三日目ともなると人間は慣れてくるもので、男がこの街に滞在していることも、恐らくは何か目的があるのだろうと言うことも理解した。

そう考えたところで、ナマエはこの男のことを何も知らないことに気付く。
説明程度しか会話をしなかったからだ。

「あの」

石段に腰を下ろし、此方の様子を伺うようにする男に声をかける。「あ?」と短く返事をした男は、やはりガラが悪い。

「貴方は、どうしてこの街に?」

今更過ぎる質問だった。男の方も今頃かよと言った顔をして「フィールドワークだ」と答えた。

フィールドワーク。
この人は、もしかすると学者か何かなのだろうか。若い風貌をしているが、学生というほどの年齢ではない。二十代そこそこと言った具合である。

「何かの研究ですか?」

「話す必要性を感じない」

「あ、そうっすか。ははは」

流せば静寂が訪れる。
ナマエが長い間、他人と喋っていなかったのも悪いが、この男は恐ろしくコミュニケーションを取る気がない。
顔は良いのだから、もうすこし愛想があった方が良いのではないか。

しょきん、しょきんと、気まずい沈黙を鋏の音が助長する。
軽やかなのは音だけで、ナマエの気分はどんよりしている。

この人、いつまで居るのかな。てゆうか、なんで居るのかな。
積もる不満も疑問も一切解消されないまま、男の冷ややかに見える目が背中に当たり続ける。

「おい」

静寂を打ち破ったのは、水を打つような声。要するに、切り裂くように凍えた音だ。

「これはいつ咲く」

彼が気にするのは、やはり木のことだ。
ナマエの腕前が褒められる筈もないとは重々承知してはいるが、作業をじっと見られているのに言及されないのもされないで微妙な気持ちになる。

「明後日だと思います」

答えれば「そうか」と短い返事。そうして再び黙り込むかと思えば、意外にも言葉が続く。

「明日の予定は空いているな。街の案内を頼みたい」

予想外の依頼にナマエは驚く。
この街には観光名所は愚か、見て回る場所など存在しない。特筆すべき産業も既に滅んでいる。
しかしそれよりも、この男がそのような頼みをしてきたことに目を白黒させた。

「私が?貴方に?」

端正な顔を歪ませた男は「他に誰が居る?」と聞き返す。
それもそうだと思い、了承する。

一体どういう風の吹き回しだろう。
彼が木を調べているのは早い段階から察されていたが、その理由は分からない。
確かにこの木はこの地にしか存在しない唯一の種類なのだが、そこまで深く注目するような要素は無い。

それに加えて、街を知ることと木を調べること、直結するようには思えないのだ。
この男があまり無駄な行動はしない人間だと分かっているからこそ、より強い疑念が生まれる。

「観光ですか?」

男が肯定する筈は無かったが、選択肢を消すために念を押して問い掛ける。薄い氷のような瞳が、僅かに揺らめく。

「まあ、そんなところだな」

嘘だな、とナマエは思った。男も多分、気付いている。しかしながら特に断る理由が無いので「私でよければ」と小さく笑う。

男の表情は固く、険しい。だが少しだけ驚いた風に感じた。ナマエが了承したことか、ナマエが乗ってきたことか。
何にせよ、彼の仏頂面以外を見るのは二度目である。やはり男は美しく、整った顔をしていると思う。

「明日、同じ時間に来る。仕事があるのであれば、待つ。それでいいか」

少し早起きをして、少し早く仕事を終わらせて、少し早く定位置に着く。

街の木々は本数がそれなりに在るのだが、毎日手を入れなくてはならない。大地の恵みの恩恵が少ないからだ。
嘗ての栄光が嘘のように、この街の大地の恵みは枯れ果てている。

だから男のために、少しだけ努力をする必要があった。
やはり自分は存外と浮かれているのだな…と冷静に自己分析を入れたところで、「待たせたか」と低い声がかかる。

「いいえ、今終わったところです」

「そうか。行くぞ」

簡潔に短く指示され、ナマエは前を歩く男に着いて行く。
え、え、案内じゃないんですか、と声を上げようとしたところで、男が振り向いた。

「何をしている。オマエが前を歩かなければ、目的が果たせないだろう」

え、えー。えー?ええ…?
困惑を言語化出来なかった。早くしろと目で威圧する男は、正直かなり怖い顔をしている。
端麗な容姿が台無しだと思ったが、無駄口は叩かない方が賢明と判断し、では、と足を進めようとして、そういえば、この人は何を案内して欲しいんだ?と目的を知らなかったことに気付いた。イマサラタウンである。

「ええと、どこに案内したらいいんですか?」

「木だ」

指差しするのは、明日にでも満開になりそうなヨシノの木。ああ、なるほど、と合点する。

この男は花見をするのか。確かにこの木は街の各所に生えている。
それを辿るようにして歩くのは、きっと楽しい。とゆうかこの街自体、元々それを餌に産業を回していた。

理解した旨を伝え、川沿いに沿って歩く。幾つかルートはあるが、順当に辿るのであれば最適な道だ。

今年も見事な並木になる。
前線は既に此処まで迫っている。山の上では、原種が実を付けている頃かも知れない。

「この辺りは本数が多いな」

男が呟く。十数年ほど前の木々だ。
その年は、植えなくてはならない理由が多かった。飢饉に疫病。沢山の人が死んで、沢山の住民が居なくなった。

「住宅地から離れていて、景色が良いですからね」

「…?確かに景観は良いだろうが、何故それが繋がる。この種類は見たところ、根も弱い。木を埋めるのに民家の有無は関係ないだろうが」

「ここに埋めたい人が多かったんですよ」

「埋めたい?この木は、お前たちが管理していたんじゃないのか」

「そうですよ?でも、埋める場所を決めるのは庭師ではありませんから」

「…そうかよ」

それなりの距離を歩いたが、男はもう何も言わなかったしナマエも特に言うことがない。

ただ、この木はそうである、この木は原種である、この木は原種だが遺伝子が混ざっていると想定されると注釈を入れて、それに男が小さく頷くだけだ。

半分ほど並木を歩いたところで、立ち止まる。
並木の折り返し地点。全てを見渡せる高台。その場所に、一本だけ植えられた木。本当は木を植えてはいけない区間だったのに、無視して植えられた一本。
これは、ナマエにとって特別なものであったから。

「この木がどうした」

無愛想だが、存外に機敏である男はすぐに問う。緩く首を振って「なんでもありません」と返せば、何度目か分からない溜息を浴びせられる。

「分かりやすい嘘を吐くんだな」

ナマエは彼の嘘を見逃したと言うのに、男はナマエの嘘を取り零さない。告げるか告げるまいか迷って、「祖父の」と溢す。

「祖父の?」

続きを求める声が重ねられて、ナマエは迷って「祖父が」と言い直した。

「祖父が育てた木です」

もし明日も滞在するのならば。見てから帰るのであれば。折角ならば、今年初めて花開く新木を最後に見て欲しい。去年植えた新しいものなのだ。祖父の最後の遺産でもある。

そう伝えれば「そうか。そういうことであれば、最後にする」と男は言う。
花見の締めに見てくれるのだろう。それが嬉しくて笑えば、彼は困った風だった。どういう感情か知らないが、どうだって良い。

この男に、私以外の人間に、祖父の結晶を見て貰えるのだ。
どれだけ腕の優れた庭師であろうと、観覧者が居なければ物は成り立たない。諦めていたそれが成立するのだから、これほど喜ばしいこともないだろう。

「ありがとうございます」

心からの礼を言う。男はやはり少しだけ困った顔をした。

「…他に何かあれば、言え。聞いてやる」

礼を言うのは此方の方だと男は言った。
彼に頼むこと、そんなものは一つしか思い浮かばない。誰かと、花見がしたい。

感動する姿を見たいのはナマエであるが、称賛の声を聞きたいのはナマエであるが、良かったら一緒にどうですかと言おうとして、聞こうとして、花よりも美しい男の顔を見て、そうして、思い留まる。

言葉の続きは必要無い。言ってはならない。

「いいえ、ありません。どうぞ、楽しんで行ってくださいね」

ナマエはそう、祖父も、母も、そう。余計な情は、抱かない方がいい。それが身の為で、使命のためだ。だって。

だって、私たちは。
此処から離れることが、出来ないのだから。

はい。では、それで。
思いの外、機嫌の良い声が出た。男はそれを見て、フンと鼻を鳴らす。

「なんだ。てめえ、クソつまんねえ顔のヴィータかと思ったら…生き物らしい顔も出来んじゃねえか」

失礼すぎる。
思わず眉間に皺を寄せれば、対照的に青年は眉間の皺を薄くした。

「ヘラヘラ笑ってるよりは、そっちのがよっぽど自然だ。そうしてろ」

やっぱりちょっと、明日が憂鬱になってきたぞ。

のっそりと目を覚ませば、いつもの朝。
誰も居ない街、何も無い街。きっと男は今日で去ってしまう。そう思うと、外へ出るのが億劫だった。

だがしかし、会わずに終わる方が後悔しそうである。見送りくらいはするべきだろう。支度をして、仕事道具を背負って外へ出て、異変に気付いた。

木がへし折れている。

無理矢理薙ぎ倒して、根すらも残さず。

ナマエは喉が渇いた音を立てるのを他人事のように聞いていた。空気が抜けて、心臓だけが早鐘のように打つ。

誰がやったかなんて直ぐに分かる。
この街には、二人しか居ない。酷く凍えた目が、困ったような風だった理由が分かった気がした。

ナマエは走る。道具も投げ出して、街の高台へと。中心部に位置するナマエの家からは、村の出口と高台へ向かう二方向が在ったが、男ならば下から順に摘み取って行っただろうと、あの木を最後にするだろうと、そうで在って欲しいと思ったからだ。

無我夢中で走れば、冬に似た人は木の根元に腰を掛けている。
もうとっくに全てを終えていて、ナマエを待っていたのだと理解した。

というより、管理者が来る前に、倒木の邪魔をされる前に、先手を打って全てを終わらせたのだと。ナマエは何処かで分かっていた。

息も絶え絶えに駆け寄る。予想通り、青年は木を見上げていた。

「見事なものだな」

男は言う。木への称賛を述べて、彼は立ち上がった。何をするのか。問い掛ける前に、ふん、と掛け声をあげた男は、木を力任せにへし折る。

唖然とするナマエを置いてけぼりにして、ばきばきばきばきと順序よくへし折っていく。
この木は繊細だから、差し技をするには滑らかに折らねばならない。これでは、もう。

「ちょ、」

な、なにやってるんすか。声にならない声がぱくぱくと空気と共に霧散していく。
何をするかなんて分かっていたのに、分かっているのに、実際に目にすると当たり前のことを言ってしまう。

「の、呪われてしまいますよ!」

叫んだ言葉も、溜息で掻き消される。

「救いようの無い馬鹿だな」

それは、数百年の叡智の結晶である木よりも、彼を心配していることに向けられた言葉か。

ぐちゃぐちゃの感情では何も分からない。
ただ、男が大層困った顔をしていたから、ナマエは黙る。
やがて口を開いた男は「植物の呪いなんてあるわけがない」と言った。

「オマエのとこのヴィータ一族が女ばっか産まれんのは、単に身内で増えてたからだろうが」

その顔は先祖に瓜二つだ、と彼は言った。
この人は、どうしようもなく高圧的だが、それと同時に聡い。

「違うか?」と嫌みたらしく聞いては来るものの、確信を持って問い掛けているのだろう。
そうだ。そうなのだ。彼の言う通りだ。ナマエの祖父は、ナマエの父親は。

ナマエの父親は祖父だ。

「いいか、生物ってのはな、同族ばかりで増えてたら容姿、個性、性別に至るまで勝手に統一化されて行くんだ。
女ばかりに偏って生まれて来たのは、呪いでもなんでもない。オマエの一族の強い血統が女だったというだけだし、伝染病が馬鹿みてえに流行るのも、オマエらが同じ抗体しか持ってないからだ」

槍のような物を土に刺し、一息に言う。

「フォトンが枯れたのも、他の植物が生えて来ねえのも、この木がそれを馬鹿食いするからだろう」

男は饒舌に言葉を紡ぐ。寡黙だと思っていたが、己の分野ではよく喋る、生粋の研究者体質なのだろうと今更理解をした。
ナマエはまともな教育なんて受けてきたことが無かったが、彼の見解はきっと間違っていないと思った。

「通常の木であれば、ここまで育つまでに五年程度は掛かる。
それを一年に縮めて、アホみてえに狂い咲くようにしたくせ、街の各所に植えてみろ。あっという間に枯渇して当然だろうが」

返す言葉のない正論だった。唯一意味不明だったフォトンという単語に付いて聞く前に、「大地の恵みのことだ」と補足を入れられる。
突ける点のない完璧な論理。ナマエは何も返せなかったので、押し黙る。深い深い溜息が吐き出された。

「第一、この木の育て方も気に食わない」

槍をスコップのように木の根元に刺して、テコの原理でひっくり返した。
この細い身体のどこにそんな力が、と思ったが、樹齢一年ほどの木であれば、ナマエにも出来るかもしれない。

そうして暴かれた、ぽっかりと空いたその位置には、そうだ。埋まっているのだ。
木を抱き締めるように、木を守るように、木に寄生されるように。

彼はそこに居る。

「お前の祖父か」

おじいちゃん。去年死んだナマエの祖父。百年の中の、たった一人の男。それと同時に、この木を育てる、大地の恵みでもある。
死してなお、木を育て続ける生粋の庭師である。

ナマエの先祖は、無くなった妻の埋葬場所に木を植えた。
いや、正しく無い。無くなった妻の身体に木を植えたのだ。大地の恵みとして帰った魂を、妻の魂を、形を変えてでも側に置くために。

ただ、ちょっとばかりの嫉妬心で、妻が他の男と子を成せないようにした。
それだけの話だったのである。それだけの、酷く歪んだ愛情の話だ。

ヨシノの下には死体が埋まっている。
彼女の養分となるために。愛した女を、永遠に生かすために。

薄く色付く桃色の花は、ナマエの家族たちの色だ。
親、兄妹、親戚、遠縁。本数の数だけ人生があり、命があった。

墓には何も誰も居ない。
だって、みんな木になった。命が失われた身体を使って、この木の延命を行う。
母の母の母の母の母のために。全ての子供達は皆例外なく、始まりの母のために。それが庭師の一族の終わり方だった。

「これだからヴィータは気に食わねえ。この木の呪いだなんだと勘違いしやがって。オマエたちに呪いを掛けたのは、オマエの先祖だぞ」

この人は、どこまで気が付いているのだろう。
ヨシノの真実。それの育て方。一族の罪。そして、ナマエの出生。
恐ろしさを感じたが、それと同時に罪を暴かれているようで酷く清々しい気持ちになる。まるで、呪縛から解放されるように。

ヨシノ、いや、違う。これは、祖父だ。ナマエのおじいさん。おとうさん。尊敬していた庭師。
彼女と成った彼は根元から折れ、ナマエは最後の家族を失ってしまった。その場にへたり込めば、男は面倒臭そうな顔をして、息を吐いた。

「それで、どうする?」

彼は、問う。
ナマエは、何も言えない。

「俺はな、その顔に世話になったことがあるんだよ。死ぬほど癪だがな」

その顔を持ち主の名前を教えてはくれなかったが、聞かずとも分かった。

きっとその名前は。

ウァプラがまだ見た目通りの年齢だった頃、腕の良い庭師に出会ったことがある。

春に咲く花のような女を連れた男は、それはそれは草木に造詣が深かった。
自然に人の手を加えるという点では気に食わなかったが、開拓によって絶滅した種である草木を保有するため、という点でマイナス部分も許容出来た。

ヴィータに深い関心が無かったウァプラも、その技巧に関心を抱いたほどである。
女の方も植物学者らしく、その街に暫く滞在したウァプラは夫婦から様々な知見を得た。

子を成さないメギドラル社会の育ちでは、ヴィータは愚か植物の交配すらも明るくない。彼らは惜しげなく知識を与えてくれた。
春の彼女が病を患っていることも知った。そして最後に彼らの植林計画を聞き、完成したものを見てみたいと思ったのだ。

しかしながら彼らはヴィータ。
己はヴィータの器に収まっているとはいえ、魂自体はメギドである。

既に外観の年齢が変わらないことは知っていた。
彼らが街の外観を完成させるころに顔を出しては万が一、ということも予想に易い。
加えて彼らには幼子も居たので、世代が完全に入れ替わった頃に再び街へ顔を出そうと思っていた。

のだが、実態はどうだろう。
街は遠の昔に衰退しており、あれほど増殖していたヴィータは最早一人となっていたというわけである。

流石のウァプラもそれには驚いた。
フォトンの乱れこそ感じてはいたものの、大きな都市が滅ぶほどのものではない。
辺り一帯が荒地になるほどのものでもない。

加えて地下には潤沢なフォトンが巡っている。
何かが吸い上げでもしなければ、地表にも溢れているはずだ。

一体何があったのか、というのもすぐに検討が付いてしまった。
理解が及ぶと同時に、ヴィータの愚かさに辟易とする。

人工的に歪められた自然を元の姿に戻すべきだと考え、手に掛けようとして、止まる。

呪いのことを恐れたわけではない。たった一人の生き残り、庭師の女のことを考えたからだ。
誰にも賞賛されず、誰にも見せることも出来ない美しい街を作り上げた一族は、あまりにも哀しい。
一目見るのが、彼らへの手向けだと思った。

出会った女は真面目で勤勉だった。間抜けのようで思慮深く、何よりヴァイガルドの自然を愛している。愛しているからこそ、呪われる。

やはりヴィータは唾棄すべき種族だと思った。
己が子孫さえ我欲のために歪めてしまう。女は、かつて見た植物学者の顔に酷似していた。

「この辺りに花を植えたいのですが、予算は出ますか?」

領地の地図を広げ、真剣な顔をする女は儚く、それでいて瑞々しい雰囲気を纏っている。

先祖に呪いをかけられた気の毒な女は、ウァプラが管理する領地で生きていた。
街に植えられ根を切り落とされた木のように、縛り付けられていた。彼女たちは管理者のようで、実際は鉢植えの苗木そのものだった。

元から、緑の溢れる土地には憧れがあったらしい。
鉢植えの苗が狭い場所から移し替えられるように、漸く伸び伸びと才能を開花させている。

彼女の杞憂であった街のその後であるが、元凶の木が無くなった以上、懸念するような要素は存在しない。
長い時間をかけて、自然の姿に帰って行く筈だ。そう伝えたナマエは、憑き物が取れたように、それでいて寂しそうに「そうですか」と笑ったのであった。

枯れた大地と共に暮らしていたであろう彼女は、かなり細い。
だが、その肉付きの悪い手はマメと古い傷が多く、ウァプラはそれが嫌いではない。

ヴィータに対する関心は無いに等しかったが、自然を愛する者の手は好ましい。
その手が奏でる規則的な音は嫌いだったが、数百年の時を過ごせば寛容できる程度にはなっている。

枝のようなそれを掬い取れば、儚く微笑む春の君。
雪解けのような眼差しは、ウァプラの瞳も冬のようで美しいと言う。芽吹く新緑のような髪の持ち主は、ウァプラの髪も新雪のようだと言う。そうして薄く口を開いて、

「純粋な血統の私の家に、いずれウァプラさんの血が入る…遺伝子汚染ですね」

ヴィータはやっぱりクソだった。

「もういっぺん言ってみろ」

震え上がった彼女は「ご、ごめんなさい」とは言うものの、悪びれた様子はあまり無い。
最初こそ酷く警戒していたと記憶しているが、ヴィータというのは図太い生物だ。とっくに慣れたのだろうと判断する。

そうして呆れて踵を返せば、軽やかな足取りが付いてくる。
あまりパーソナルスペースに入らないで欲しいのだが、引き入れたのはウァプラだ。拾った生き物の面倒を見るのは、当たり前のことである。

その点に置いて彼女たち一族は好感が高い。
大元を辿ればクソヴィータの先祖に課せられたこととはいえ、それも己たちの責任であると使命を全うしたのだから。
だから最後を看取るだけのつもりであった、最初は。

結局ウァプラは、生きたいと願う生き物らしい生き物には弱い。
たとえそれがヴィータという種で在っても、自然のままの感情を抱く生き物をどうして糾弾できようか。

そしてトドメに、数百年の使命よりたった五日ほどの付き合いである他者の命を優先するものだから、誠にヴィータという生物には困ったものである。
だから仕方無く、己が使命と生存欲求の狭間で揺れていた女を拾ってきてしまったというわけで、こうなったこと自体は全くの誤算なのである。

まあ、そうだ。つまり、結構。
彼女のことが、特別好ましいのであった。