瀬戸内には大きく分けて四つの勢力がある。
まず一つは、毛利元就さま────実質中国の覇者と言っても差し支えない、ナマエの住んでいる広島の国守さまである。
あとは四国の長曾我部と鳥取県の尼子。会ったことないから両方知らない。それに加えて、今目の前に座っている女子高生みたいな女の子、伊予河野の巫女である鶴姫ちゃんだ。
ナマエも彼女と親交があり、今日は海路遥々こちらに来るというものだから、前々から楽しみにしていた。
手を取り合ってキャイキャイとはしゃいでいれば、首根っこを掴まれて引き剥がされる。
「ナマエ」
静かな声だったが、確かな咎めを感じる。
「貴様は疾く退席しろ。我は巫と話す事がある」
「ええーっ!良いじゃないですか!ナマエちゃん居た方が、私嬉しいですっ!
これから海賊さんも来るんですよね?みなさんでお喋りした方が、きっと楽しいですよ!」
えっ、えーっ!じゃあわたしも、一緒にお茶呑んじゃおうかな!と返しかけたナマエを諌めたのは、鋭い視線と氷のように冷ややかな声である。
「ならぬ。今すぐ立ち去り離れに行け。会談が終わり次第迎えを寄越す故、それまで顔を出すことは許さぬ。よいな」
元就さまは片眉を不愉快そうに上げて、ナマエをしっしと追い払った。
こういった態度は毛利軍に居るならば全然慣れたもので、ひどいとか傷付いたとか思うような心もとっくの昔に無くなっている。「は〜い」とだけ返事をして、ナマエは立ち上がった。
そして大人しく襖を閉めて、退去する素振りを見せ────そっと聞き耳を立てた。
「もおー!そういう態度、めっ!ですよ!ナマエちゃんにもっと優しくしてください!」
「喧しい。ナマエをどう扱おうと我の勝手。
巫も卑弥呼に聞いて見せよ。言うておるだろう、ナマエは毛利の所有物であると」
「ひ、卑弥呼さまがそんなこと言う筈…えっ!?ナマエちゃんは大切にされてるから、余計な事をしなくて良い!?」
ナマエは笑顔になる。これだ。鶴姫が遊びに来るのはすごく嬉しいが、一番嬉しいのはこれ。この会話である。
ずっと会話を聞いていたいが、あまり長居すると勘の良い元就さまはナマエに聞こえないように色々…色々と策を練るだろう。そして今後一才なんの情報も得られなくなる。それはナマエにとって、致命的な問題であった。
だから唇を噛み締め、泣く泣くダッシュで指定された離れ────ではなく、対岸の物見台へと向かう。
城の門の真上に座された道具に、ナマエは用事があった。
▽
ナマエは望遠鏡もどきを覗き込んだ。
戦国時代にはギリギリ望遠鏡が無い。日本に存在していないということでなく、そもそも1608年にトーマス・ハリオットによって発明されたというのが通説となっている。
ではなぜ所持しているのかといえば、ナマエが未来から来たからである。そして、望遠鏡を作成したことがあった。夏休みの自由研究で。
焦点距離の異なるレンズとレンズの距離を合わせ、直線上に並べ固定する。それが望遠鏡の仕組みであり、素材と原理さえ知っていれば誰だって作れるようなものだった。精々倍率は八倍程度とは言え、肉眼よりは当然よく見える。
使用している望遠鏡もどきはトリップしてきた際に掴んだ友人のメガネと、たまたま持っていたルーペを合体させたもの。
今は会うことの叶わない、クソザコ視力アングラ友人のおしゃれ丸メガネのフレームを破壊し、職人に木を筒状に削らせ作成された、いわば友情の一品である。
ナマエが戦国時代に落ちて来た時、普通に開幕で元就さまにブッ殺されるところであった。しかし、運命の悪戯か。この未来の道具と設計案を差し出すことで命を救われ、毛利の食客として迎えられたのである。
あんなにおっかなかった元就さまとも、今では普通に会話出来るようになっていた。そもそも元就さまは結構やさしいし、鶴姫ちゃんが喜ぶから必ずナマエにおやつを運ばせ雑談を許すくらいには、やっぱり優しいのである。
…話を戻そう。
それを覗いて見つめるのは、先ほど離席した部屋である。めちゃくちゃ普通に襖を全開にしてきたので、望遠鏡はバッチリ二人の姿を捉えていた。
素直で優しくて、ちょっと説教臭いけど真面目で可愛い鶴姫ちゃん。
彼女は元就さまを叱責するが、それは嫌いだからとかではない。彼の身を案じて、幸福に生きるべきだと諭しているのである。それは純粋な真心であり、元就さまは鬱陶しがりつつも邪険にし過ぎないことをナマエは知っている。
対するは、言葉は厳しいし素直じゃないけれど、なんだかんだ言って優しい元就さま。
彼は鶴姫ちゃんをボロクソに言うが、その実、他の女の子たちよりもいっとう気に入っているのをナマエは知っている。
彼女が来る日はいつも、元就さまはナマエに茶菓子の希望を聞くし、必ず正面に座して対話をする。真っ直ぐに鶴姫と向き合いたいのだろう。ナマエを真横に座らせ、逐一鶴姫ちゃんにちくちく言葉を浴びせていた。
でもそれは、思うに、思うになのだが… こりゃ…
「カプ…」
「かぷ? なんだそりゃ。南蛮の言葉か?」
ヒョワー!ナマエの奇声はこう。
そのままウッカリ足を滑らせ高台から滑落しそうになったナマエを、逞しい腕が抱き寄せた。顔に丸出しの胸筋が当たり、これもこれでヒョワーである。うおっ、すっげえ乳。
「ようお嬢ちゃん。面白えからくり使ってんな。それはよ、何が出来るんでい?」
ナマエは望遠鏡と男を交互に見る。そして元就さまと鶴姫ちゃんが会合をする部屋を見て、この男が目立ち過ぎることに気が付いた。
自分一人であれば、あの部屋からこちらは視認しづらい。しかし、このお兄さんは大変に目立つ容姿をしていた。困ったナマエは、不躾な提案をする。
「助けてくれてありがとうございます。でも、屈んでください。屈んで頭を隠してくれたら、お礼に教えます」
「おー?」
気の良い男である。ニコニコと笑って、言われた通りに彼はしゃがんだ。ナマエは頷いて、望遠鏡のレンズを指差した。ここを、見てみて。そういう意図である。
男は「どれどれ」と大袈裟な仕草でそれを覗き込んで「こいつァ…お嬢ちゃん、すげえの持ってんだな」と迫真の声で言う。そうだろう。本来、この時代には無いアーティファクトだ。
ナマエのような現代から来た平和ボケした女子高生であっても、この道具が今の時代に何をもたらすか、これがあることで国がどう変わるか。想像出来ないわけがない。
「どういう仕組みで出来てんだ?」
ナマエは身振り手振りで説明する。
この時代に焦点距離とか凸レンズなんて言葉は当然のごとく無い。
だから「でこぼこのガラスを、違う厚さのガラスに遠くで重ねて、小さい方に見える景色を大きい方で大きくするんです」とかいう正直めちゃくちゃな説明をしたが、背も懐も大きいお兄さんは「なるほどなァ」と大体理解したようであった。
数ヶ月前、それを元就さまに話した時は「もういい。技師に分かるよう図解しろ」と筆と硯を投げ付けられたが、その時から説明能力が上がっているのかもしれない。伊達に毎日元就さまとお話していないということか。
ふふーん、と鼻を鳴らすと、男は此方をじっと見てくる。透き通る海の様な、大地のような、はたまた猛禽のような。何色とも言えない瞳が瞬いて、ナマエを見据えた。
「あんた、毛利の野郎が囲ってるっつう娘か」
え、なんで?なんでそれを?
言わずとも、顔に出ていたらしい。「ははは!」と豪快に笑った男は、ナマエの頭を雑に撫でた。決して乱暴というわけでなく、豪快という言葉が正しいだろう。
「此処は毛利の野郎が住んでる居城だろ。んな場所で、自由に出歩ける女なんざ聞いたことがねえ。
あァ、鶴の字も言ってたな。自分と同じ先知を持ってるヤツが居るってよ。確か、ナマエだったか」
彼は眼帯をしているが、鋭い審美眼をお持ちである。そしてなんだか、たいへん理系らしい考え方というか。順序立てて情報を整理し、的確に結論を出している。
見た目こそ蛮族というか、海賊風に荒くれているのだが、実際のところは利発で頭の回る人のようだった。
「提案なんだが、お嬢ちゃんうちの軍に来ねえか?ああ、兵士としてじゃねえ。あんたを技師として、からくり開発の顧問として抱えてえんだけどよ」
「いや、それは… そうしちゃうと、わたし元就さまのこと見れないですし…」
「おっ、そりゃ悪い。あんたの方もあの野郎が好きで此処に居たのか。そういう事なら、口出すのは野暮っつう話だったな!」
「いや、違うが」
「照れんなって!」
「元就さまがお好きなのは、鶴姫ちゃんなんだが」
ナマエは早口で否定する。男は面食らった顔をしたが、「あーっと…悪ィな、ちと分かんねえ」と困った風に頭を掻いた。
苦労人気質をひしひしと感じさせる、気心の良い男である。ナマエは自分がかなりやばめの人間で申し訳なくなったが、それはそれとして誤解は正しく解かなくてはならない。
「鶴の字と…毛利… いや、無ぇだろ… 流石にそりゃねえって」
「元就さまと鶴姫ちゃん」
順番を早口で訂正する。厄介迷惑キショオタクである。
ナマエは望遠鏡を良い角度にセットし、男に覗くよう指示する。素直に従った彼の耳元で、こそこそと己の見解────この世の真実を述べた。
「元就さまってば、鶴姫ちゃんと敵対しない為にすっごく回りくどく手を回して…
口では“あのような小娘なぞ、脅威ではない故“って言ってたけど、本当は鶴姫ちゃんと戦いたくないです。わたしには分かります。戦いになりそうになっても、すぐに“そうはならぬ。手は打った”って仰るし、実際そうなってます」
「いや、そいつぁ多分…あー、俺が言うことじゃねえからアレだが…」
「卑弥呼さまとなる為、毎朝おじいさんのような時間に起きて、テレパシーも送っているんですよ。
わたしも朝起こされて、一緒に朝ごはん食べてるので知ってます」
「朝食って…毛利のヤツとか?…そっちのが随分… いや、あー、俺が言うことじゃねえんだけどよ…」
男は何かを言い掛けては、すぐに口を噤む。この完璧な理論に返す言葉も無いのだろう。
「しかし、元就さまが別の方のことを好きな可能性も否めないんですよね」
「ほー?そりゃ初耳だな。具体的にゃ、何を欲しがってるんだ?」
「まず前提をお話ししますね。
実はですね。元就さまってば、口ではボロクソに言っちゃうけど、ほんとは気になってるよって気持ちの裏返しなんです」
「おうおう、素直じゃねえやつだからな!」
「でね。元就さまが誰よりも何より一番激しく罵るのは、別の方なんです。
なんでも海賊?をしてらっしゃって、目に見えない物を追い求めておられる、野蛮でくだらない生き方の人だと仰っておりました!」
「…」
「でもあれは絶対、並々ならない気持ちです。きっと憧れています。元就さまはあれで、寂しがりなところありますからね。
ところでお兄さんは知ってますか、長曾我部さんのこと」
男は思い切り噴いた。ゴホゴホと咳き込んで、少し涙目でナマエを睨む。凄まれると怖い。
「いいか、嬢ちゃん」
肩を掴まれる。
「ひゃ、ひゃい…」
「毛利の野郎にその気はねえし、嬢ちゃんが勘繰ってるヤツにもその気はねえ。絶対にねえ」
「で、でも、それは本人たちしか分からないことで…」
「ねえんだ。俺が言ってんだから間違いねえ」
「そ、そんな。当事者でもあるまいに…!」
「いーや。当事者だぜ。長曾我部元親たァ、俺のことだからよ」
「貴方が長曾我部さんなんですか!?」
「おう!なんなら、元親で構わねえよ!その方が呼びやすいだろ」
元就さまは、粗野で乱暴で雑で道理の分からない賊風情と言っていた。鶴姫ちゃんも同じく、西の海を荒らしている悪い海賊さんだと。
しかし実際会ってみるとどうだろう。粗野で乱暴というか、大らかで懐深いというか。二人は悪く言っていたが、其処こそがこの人の良い所という風に感じる。
「わたしを追い出したら、鶴姫ちゃんと二人で話せるし。そう思うと、元親さんをわたしが此処で止めておくのも策の内!?」
「違うと思うけどな… いや、うーん。嬢ちゃん、多分あいつ、俺とあんたを会わせたくねえんじゃ…」
「えー、なんで?」
「なんでって言われてもなあ」
▽
「ナマエ。顔を出すなと言い付けた筈だが。それに、その男はなんだ。なにゆえ、貴様はそのような下賎の男とつるんでおる」
「下賎て…てめえなあ」
長曾我部さんを連れて元就さまの元に戻ったナマエは、鋭く睨み付けられる。言い草も酷すぎて草。
「ええっと、あの。そこで会って…元親さんが、長曾我部さんなんですよね?」
「長曾我部」
「んだよ」
「貴様ではない」
「はあ!?」
「いいかナマエ、長曾我部と呼べ。決して下の名で呼ぶでない。わかったか」
如何にも怒っていますという態度の元就さまは、思わず長宗我部さんの後ろに隠れたナマエに大きく舌打ちをした。
「おいおい!てめえ、素直じゃねえにも程があんだろ!」
ケラケラ笑い始めた長曾我部さんに、いっそうキレ散らかす元就さま。
ナマエは恐る恐る元就さまを見て、めちゃくちゃに睨み付けられた。元々恐ろしいお顔をしておられるが、今日はマジにキレッキレらしい。
普段、ナマエはあのような顔を向けられず、比較的穏やかな元就さまばかりを見ている。正直に言えば、大変に面食らっていた。
「毛利さん、ナマエちゃんをいじめたらダメです!」
「虐げてなどおらぬ。誰が主人か、教育の必要があったと思い直しただけだ」
元就さまは、静かに手を差し出した。さっさと此方へ来いとの圧を感じる。
ナマエはすごすごと元親さんの後ろから出て、恐る恐る其方へと移動した。腕をガッと掴まれて引き寄せられるが、乱暴な所作ではない。こんな態度だが、やはり元就さまの性根はお優しいよなと他人事のように思った。
「よいか、ナマエ。我の居ない所で、知らぬ者に話し掛けるな。人攫いであったらどうする」
「はい…気を付けます…」
「いいな。男に話しかけられたら全て人攫いと思え」
「もー、毛利さんたら!
海賊さんだから良いですけど、海賊さんじゃなかったら、ただの迷惑な言いがかりですからね!」
「俺に対する言い掛かりは良いのかよ」
ふと、元親さんが口を滑らせた。
「にしてもよ。あんた、随分この野郎に可愛がられてんだな。信じられねえくらい寵愛されてんじゃねえか」
ナマエはそれを聞いて、疑問符が頭に浮かびまくる。寵愛?愛玩の自覚はあるが、寵愛?
そもそも、毛利がナマエを生かして自由な暮らしを与えているのは、元就さまに言わせれば「技師としての役目もあろう」とのことだった。
そしてナマエもつい、口を滑らす。
「えっ、元就さまって…鶴姫ちゃんが好きなんじゃないんですか」
「は?」
元就さまは絶句している。
鶴姫ちゃんの目は、困った風だった。元親さんは、やや憐れみの目をしている。なんか、違うらしい。
▽
元就はナマエに普段触れることは愚か、一定以上の距離を詰めたこともない。
彼女をなんだかんだ気に入ったから囲っているのだが、肝心のナマエが元就に靡く様子も気がある様子も無いからである。
しかし鶴姫が来ると、やれ鶴姫とどんな話をしたのだとか、彼女のことをどう思っているかだとか、今後も仲良く出来るのかとか、ナマエは彼女に強く熱をあげる。
元就が寵愛しているという立場上、誰とも対等に友人として会話できない彼女は窮屈な思いをすることもあるだろう。
そんな所に現れた鶴姫という年頃の娘は、ナマエにあてがうのに最適であった。正直、雑賀や大友に興味を持たれるより全然マシな人物だという所感だったので、ナマエが喜ぶがままに鶴姫を安芸へと招いた。
彼女が来てから鶴姫の来る頻度は実に三倍ほどになってしまっているのだが、まあ問題も無いし瀬戸内を巡る会合は無駄ということもないので、元就としては珍しくなあなあで片付いている一件である。
「あー、なんつーか。元気出せよっつうか…」
よりにもよって、自分と巫の仲を邪推していたとは。
元就が巫が好きだから呼んでいるのではなく、ナマエが巫を好きだから呼んでいたのだが。
「で、けっきょく。元就さまはどちらが好きなのですか?」
小声で聞いてくる愚かな馬鹿野郎をしばけば、「うぐっ」と鈍い声を上げた。