※前世を巡るオムニバス。
可愛い男の子が私の襟元をひっつかんで、頬に唇を当てた。部活のジャージに身を包みスクールバッグを担ぐ私、高校生。恐らくあっちは中学生だ。
「好きです只野先輩」
そう言われた。
「君なんで私の苗字知ってんの…てゆうか誰」
「只野って先輩の苗字になったんですか?」
生まれてこのかたずっと只野という苗字なのだが…一体どういう質問なのか意味を図り兼ねていると、男の子にしては大きくてまあるい薄い色合いの瞳が見上げた。
「僕と先輩は前世で恋人同士だったんですよ」
最近読んだ小説を思い出して、ああ、この子ちょっと思い込みが激しい人なんだなあって私は思った。まるでキットクルー、キットクルーと歌われる有名なオカルト映画の人が書いた小説のようだと思う。タイトルはなんだったっけ。
思い出せないけど。前世で恋仲だった二人が生まれ変わって、また巡り会う、そんな話だった。本当なら結構ロマンチックだよなー、と他人事のように思った。
「私は貴方のこと知りません」
そう告げれば彼が悲しげに俯いてしまったので、人が良くて良くて良くて少し流されやすい私は「思い出す努力をします、私に出来ることなら協力するから」と励ましてしまったのだった。
「じゃあ思い出すまで恋人同士です」
「なんでだよ」
「僕が十八まで思い出せなかったら結婚ですよ」
「ええ…それ君が有利すぎない?」
「こんな可愛い美少年を泣かせたままで良いんですか?」
「…それは」
「じゃ、決定です」
なんとか言われて、やってしまったとぼんやり思ったことが記憶に新しい。
少年の思考は飛躍しやすいものだと、アイワズボーン。現代文の教科書は教えてくれたではないか。
▽
「あっ、只野じゃないか」
誰?
口に出掛けた言葉を押し殺して、なんとなくこの人も前世がどうのって人なんだろうなって思った。最近前世詐欺が流行っているのだろうか。
去年の今頃に一回、近所の農家の大木さんがガハハと笑いながら「前世のよしみだ」とらっきょをくれた。詐欺の割には儲けが無い。
単に私と話す口実で前世前世言っているのであれば、私が前世を信じる電波ちゃんだと見られているということになり、なんというかそれはちょっと舐めすぎである。
「最近すごい知らない人に話し掛けられるのですが、貴方も私の前世の知り合いで?」
参考までに只野ナマエです。本当に私に用ですか、別の人じゃないんですかと疑ってかかる。
「驚いた。昔と名が変わったのか。あの頃とは違うのだな」
驚いた顔で返された。いや、あの頃ってどの頃?
「ふうん、そうか。ナマエ。いや、只野。慣れん名だ。やはりお前は只野だよ」
馴れ馴れしいサラサラストレートだった。顔が良いからってズケズケと踏み込んだ物言いをするのは如何なものかと思う。
しかし余計なことを言ったら長引くような気がしたので、一歩引いて流す。
「はあ…そうっすか」
「い組の割に間抜けな奴だとは思っていたが記憶を引き継げないとは思わなかった。随分平和ボケしたな」
「ああ…はい…平和ボケしてますね…すみませんけど彼氏待たせてるんで…」
「ほう。相手は誰だ。やはり利吉さんか?それともお前のところの後輩か。大穴で六年…は無いな。私が一番最初にお前を見付けたのだから」
もんじろう、こへいた、ちょうじ、いさく、とめさぶろう、と時代錯誤な名前が並べられていく。
くくち、さいとう、いけだ、とやっと現代社会にも存在してそうな苗字ゾーンに入ったけれど、それが誰のことかは分からない。
しいて分かったことを言うのであれば、この人は私の前世の後輩とやらとはそこまで親しくないのだろうなってことだ。
だって苗字呼びだし。話の腰を折るのもまた面倒だと感じたので、とりあえずプライバシーの問題だよなあとは思いつつも現在交際中である美少年の名前を挙げる。
「えーっと、ご存知かも知れませんが、前世で恋人だったらしい綾部喜八郎くんという方ですね。お付き合いしてるのは」
「何…?喜八郎はそんなことを言ったのか」
美人な顔が燻しげに細められる。そうして暫く黙りしていた。
「もう行っていいっすかね」
耐えかねたナマエが聞いたら「まあ待て」と襟足を引っ掴まれた。不躾な野郎だなあと思った。
「喜べ只野。お前の前世は生涯独身だったぞ」
所謂恋人詐欺だな、と不躾にも名前を名乗らずに去っていったサラサラストレート。
綾部くんに私は嵌められていたのか、とか前世持ちってなんすか、とか集団感染の病気か何か、とか色々言いたいことはあったけれど、これだけは言わねばなるまい。だからお前は誰だよ。
▽
「なあ、綾部くん」
「喜八郎です」
「喜八郎くん」
「なんですか、ナマエ先輩」
すりすりと右手に擦り寄る綾部くんはマーキングする猫のよう。別段やらしいこともそういう関係も発展も何もないのだけれど、ご丁寧に人の手やら足やらに噛み跡を付けてくれるので悪い虫は寄ってこない。
無関心そうな割に、綾部喜八郎くんは案外と嫉妬深いような気がする。
「私、前世で君と恋人同士じゃなかったらしいけど」
「おやまあ。バレてしまいましたか」
澄ました顔の綾部くん。
別段悪びれる様子も無く平然と言ってのけたので案外素直に認めるんだなあと思っていれ「先輩に嘘は吐きません」と続けた。
「最初のは嘘だったのに」
「だって先輩が欲しかったから」
「うーん、私は物じゃないぞー」
「今は僕の物でしょう」
「そうなんだけどさ」
そっかー立花先輩言っちゃったのかーと不機嫌そうに綾部くんはぼやいた。彼が揺れるたびにふわふわの髪が頬に当たって擽ったい。機嫌を損ねた風な声色だけれど、その行動はいつもより甘えたである。
元々スキンシップが激しく暇があれば常にべったりしてるような子だったが、今日はいつもの数割増しでべったべただった。
「先輩が他の人に会わないように頑張ってたのに」
「そんなに好き?」
「そんなに好きです」
「そっかー」
「先輩も僕が好きですか?」
「好きだよ」
「ライクじゃなくて?」
「ラブ」
「やったー」
「最初は引いたけどね」
「手厳しい」
くだらない応酬が飛び交う。最初に出会ったときは、まだナマエの方が全然身長が高かったのに今は綾部くんと並んでしまっている。
それが彼にとっては誇らしいらしく「もう少しで先輩を抜けますね」と無表情が崩れるのだから結構心臓に悪い。
なんでも前世の私は綾部くんが十三の時に卒業してしまったらしくて結局抜けず仕舞いだったのだそうだ。
だが今世は時期に抜かされるだろう、と思う。
前世を知らない私に今世という言葉は酷く現実味に欠けるのだが。
「やっと先輩が罠に掛かってくれたんです」
「だから誰にもくれてやりません」そう言うと綾部くんはぴっとり張り付いた。私の前世は、彼の言う罠とやらを避けるのにさぞかし苦労したと違い無い。
▽
伊助くんは近所の小学生である。
毎週月曜日の夕方になると私の部屋にハウスクリーニングしにきてくれる。
そしてゲームをしながらお菓子を食べて、最後にアイスも食べて帰る。
私のピノだって言ってるのに容赦無く食べる。仮にダッツだったとしても容赦なく食べる。ストロベリーは私のだって言ったのに!
話を戻そう。
小学校低学年というのは大抵マンデーウエンズデーフライデーは四時間授業あるいは五時間授業であるので、当然のように毎日六限七限が基本である私は高校を抜け出して伊助くんを待ってるわけだが、月曜日の五、六限といえば恥ずかしがり屋の松千代先生であるので支障は無いのだ。
だってどうせ今日も自習なのだから。
久々知くんが適当に代返なり出席なり丸を付けてくれている。
代わりに久々知くんがサボりたい時…というのは滅多に無いが、周りの仲の良い男の子達の付き合いで渋々抜けることがある。そういう時に、私がこっそり彼の分のレポートを提出している。
高校というのは案外適当であるので、自習の出席記録は当日配られるプリントであるとか、レポートであるとか、そういった毎時間の提出物で判断されたりするのだ。
見事なまでにザルである。…まあ、自習に手の空いた先生が振り当てられてしまった時は使えないのだが。
彼との出会いといえば、ざあざあと雨の振る日で、丁度良く通ったトラックが当時自宅の鍵を忘れて雨宿りをしていたらしい伊助くんに無慈悲にも泥を浴びせたのが最初だった。
一瞬呆気に取られた私だったが、馬鹿野郎のトラック運転手によって雨の中びしょびしょになった小学生を見捨てるほど畜生では無く、慌てて声を掛けた。
突然泥を跳ねられた挙句に知らない高校生に話し掛けられた伊助くんは泣きそうな顔をしていたが、タオルを渡せば素直に着いて来てくれた。
そしてそのまま幸いにも近くだった私の家で風呂と小さめのTシャツを貸し与えた、という経緯だ。
彼の服が乾くまでの間、気不味い空間が広がるのも何だったので、何かで暇を潰そうと立ち上がれば、風呂から上がって部屋まで歩いてきた伊助くんの悲鳴が聞こえた。
虫でも出たのだろうかとのろのろ歩けば、彼は一言「部屋が汚い」と吐き捨てたのである。
弁明をさせて貰えるのであれば、別にそこまで汚いわけでは無かったし、ただちょっと部屋の隅にダンボールとゲームと週刊少年誌が積んであっただけである。
ごめんね少年と謝れば「そこに座ってください」とその場に正座させられ、彼が掃除する様子を観察することになった。
それが今では習慣となり、恥ずかしい話であるが週一での軽い掃除を任せてしまっている。
自分でも掃除は三日に一度くらいしているのだが、伊助くん曰く「ツメが甘い」らしい。仕上げはおかあさん、いや、なんでもない。
「只野先輩は適当過ぎるんですよ」
そう言った伊助くんは一世代どころか二世代三世代ほど昔のゲームのコントローラーを手にしながら空いた手で12個入りのチョコレートを食べる。勿論私の買ってきたものである。
前にポテトチップスを買って来たときは、「掃除した後にそんなものを食べるなんて」と絶句したのち無茶苦茶怒られた。
私もコントローラーを手にすれば、もう地上波を写すことの無いブラウン管がピンクの悪魔を写してカーチェイスの体面を保ったデスマッチの開始を告げた。
「ナマエ先輩って昔から掃除下手ですよね」
ふと、画面から目を離さずに伊助くんが呟いた。私は昔という言葉に引っ掛かって疑問符を浮かべるが、言葉の綾だったのかも知れない。
「あのときは綺麗な部屋でしたけど」
自慢では無いが、伊助くんが訪問する日に私の部屋が綺麗なことなんてなかった。
「思えばあれは掃除が上手だったんじゃなくて、きっと物に執着出来なかっただけで」
私は物を大事にしてしまう。それが必要の無いものでも。
卒業アルバムだとか、寄せ書きだとか、娯楽品だとか。人の思いが見える物が簡単には捨てられないのだ。
「だからなんでも捨てちゃえて…」
そんな人間が、なんでも捨てられるわけがない。
「ぼくは今の先輩の方が好きです」
今の、という言葉に突っ掛かりを覚える。私は「そっか」と短く呟いて、止まった指を動かし始めた。
伊助くんのそれは、誰に言うでも無い独白のような呟きだった。私はからからと乾く喉にコーラを流し込んで、甘ったるくなった舌をチョコレートで諄く誤魔化す。
誰も彼もが私を知っているように、そしてナマエという人物は知らないというように、遠く遠くを見ている。
私を通して一体誰を見ているのか。そう問えば、きっと彼は泣いてしまうのだろう。
▽
私の喉には結構大きい痣がある。
生まれた時からそれはあるらしくて、横に刻まれてるそれは綺麗に横に入っていて、まるでイカの輪焼きのようだなー、なんて能天気にも思っていた。
別段そういった傷を気するような性質では無かったので、日焼けした時に少しイカ食べたいなと思うくらい。
と、まあ身の上話はこの程度にしておこう。ここで重要なのは私のことについてではない。私を見下ろす人である。
「えっと…」
からりと乾いた喉が控えめな声を出した。困惑の色を隠せもしない不器用な自分に、相手は腹立たしくなってしまったのではないだろうかと懸念したが、そもそも悪いのは彼方だ。
人にぶつかってミネラルウォーターをぶっかけた挙句、透け透けのどすけべなシャツ姿となってしまった私の腕を掴んでまじまじと見つめるのだから。
「只野先輩、」
掠れた声が降ってきた。どう見ても彼は私よりも年上だったし、私は女子高生。
透け透けになってしまったシャツは学校指定の清楚なものであったそれだし、所々が色濃くなってしまっているスカートも学校指定のものだ。対する相手はどう見たって大学生か社会人で、少なくとも私よりは幾つも上に見える。
ぎゅう。突然抱きすくめられた。
えっ、は?、と私が意味も分からずあたふたしている間に背中に回された手が力強くなる。
下着の透けた女子高生を抱き締める変質者にしてはなんだか彼は泣いているようだったし、抱き締める手は震えているし、頭がぼうっとして何もわからない。
ただ一つ言えることと言えば、シャツが張り付いて気持ちが悪いということと、お兄さんの高そうなジャケットも濡れちゃったということと、下着絶対透けてるよなあということである。
▽
「私は前世で貴方を殺した」
「はあ、そうですか…」
また始まったよ前世詐欺。
近所の農家の大木さんが前世のよしみだと言ってラッキョをくれたのが最古の記憶だが、ついこの前だと前世恋人だったんですよなんて中学生に言われた。
あと同級生が前世のことは忘れるんだと念押しして言ってくる。忘れるも何もなんにも知らないのに。
私は殆困り果てて目の前に座るお兄さんを見上げた。高い鼻に面長の顔。特筆してイケメンではないが、左右対称の造形美はあるだろう。前世詐欺師というのは顔が整っていないと出来ない職業なのかも、と全然関係無い結論を出す。
しかし、前世で貴方を殺しました!なんて新過ぎる詐欺だろう。
もしくは普通のやばい人か…なんにせよ、女子高生をとっ捕まえて殺しましたなんて宣言は結構常軌を逸脱している。
お待たせしました、と如何にもシャレオツ喫茶店らしいスマートな感じのウエイトレスさんがお兄さんと私の注文を持ってくる。
なんでこうなったかと言えば、あの場であたふたしていたら「立ち話もなんだから」と近くのお洒落な喫茶店に連れられて美味しい紅茶をご馳走になってしまったという訳だ。
上着も掛けてくれて、被害者は自分であるはずなのだがちょっと申し訳ない。
その道中で聞いたが、目の前に座る明るい茶髪のちょっとチャラそうな外見をしたお兄さんは鉢屋三郎さんと言うそうだ。
鉢屋さんは長い手足を行儀良く揃えて、私の方を見遣る。
居心地悪そうな、なんだか居た堪れない顔をするので私は何も悪く無いのに悪いことをしている気分になった。
「只野先輩と任務で敵対して、でも貴方はお人好しだったから、兵助の振りして、ちょっと後ろ向いててくださいって言ったら馬鹿正直に背中向けて、そして、私は…」
へえ、そっかあ…くらいの感想しか思い浮かばない。なんというか前世の自分ちょっと間抜けだなあくらい。
任務、と言うからきっとスパイとか潜入捜査官とかそういうのなのかなあと適当に頭の中で結論付けた。
「忍者ですよ」
「そうでござったか…」
「ふざけないでください怒りますよ」
「すみません」
どうやら前世は忍者らしい。ナマエ忍者は任務で死んだらしいでござる、にんにん。
「気にしてないって言うか、私には知り得ない話なんで気にしないでください」
「いや、それでは私の気が済まない。とゆうか、只野先輩が私に敬語を使っていることから落ち着かないんです」
「そうは言われましても…」
「お願いします、只野先輩。どうか、私を許さないで」
懇願するように哀れな声が鼓膜を揺さ振った。悲痛そうに歪められた丸い瞳は、私を捉えて離さない。
どうしようかなあ、と殆困り果ててしまった私は、氷の溶けてしまった紅茶をずずっと啜って正直な感想を述べる。
「仮に私に前世があったとしても、覚えてたとしても、きっと今は今だし前世なんか関係ないしなーって思いますよ」
「いや、そんなことはない。私は貴方を殺したんだから。人が良い貴方を騙して、後ろから刺して、致命傷を与えた。ご丁寧に兵助の顔を使ってな」
「いやいや、今は全然痛くないですし」
「そういう問題じゃないんです!」
「あっ、はい…」
今日初めて出会った人ではあるが、温厚そうで優柔不断そうな顔なのに鉢屋さんはひどく頑固である。あと擦れている。
元々そういう人なのかも知れないが、もしかしたら前世の私を刺したのを引きずって擦れてしまったのかもしれない。それだと少し申し訳ないな、と思う。
私は自分がされたことを覚えてられない平和ボケした人間だけれど、他の人はそうではないし、無自覚に他人の心の傷になってしまうのはとても嫌な事だ。
だから、彼は解放しないといけない。私の殺された前世というやつから、私を殺した前世というやつから。
「なんていうか、私は只野先輩って人のこと知らないから憶測なんですけど、私がその人だったら、その、兵助さん?じゃなかったって気付いても、鉢屋さんが嘘吐いたって知ってたとしても、たぶん同じようにしたと思います」
鉢屋さんは目を伏せたままだ。
「だって、私を殺したことを一生どころか来世でまで後悔してくれるような、優しい後輩を殺してまで生きたくないですよ」
そう続ければ、鉢屋さんが弾かれたように顔を上げた。
「そんなことするくらいなら、殺される方が幾分マシだって思います」
鉢屋さんの顔が歪んだ。
「むしろ足枷になっちゃったことを許してほしいって思いますよ、私の方が」
鉢屋さんは何も言わない。
だから、鉢屋さん、と言い掛けて言い直す。前世の私がどんな人かは知らないけれど、何処か気難しそうな鉢屋さんが私をとっ捕まえたってことは本当にそっくりなんだろう。
そして前世で先輩後輩の先輩だった只野という人は敬語は使わない、らしい。
なんでこう私は余計な世話を焼きたくなるんだと自分のお人好し具合に酔いしれながら、私はすうっ、と息を吸って、慣れない言葉を吐き出す。緊張で表情が硬ばってるだろうなあなんて他人事のように思いながら。
「鉢屋くんは最初から許されてるんだよ。私を騙したその時から、私を殺したその前から」
からん。鉢屋さんの手からスプーンが滑り落ちて床に転がる。慌てて視線を上げて、私はぎょっとする。男の人を泣かしてしまった。
焦る私は何を思ったのか机の脇のナプキンを鉢屋さんに差し出して、あの、泣かないで、ごめんなさい、としどろもどろに声を掛ける。
すると鉢屋さんの骨張った手が私の手を握って「只野せんぱい、」と吃驚してナプキンを取り落とした私の掌を自分の頬に擦り付けた。
ああ、もう、どうしたらいいんだ。
▽
最近なんか知らんけど前世詐欺に遭うんだわ。
訳の分からないことを言われたせんぱい────山田利吉パイセンは「ハア?」とその端正な顔を歪めた。
「おまえがどうしようもなくバカで愚かなのは知っているが…突然なにを言いだすんだ」
「ひどい」
美しいかんばせを持つ男は、文句無くイケメンなのであるが、割とキツめで冷ややかに整っている。
いつもは決して冷たさなどは無く、朗らかに、爽やかに笑っているのであるが、ナマエと話すときはいつだって取り繕わない。故におっかない雰囲気と、姑のような意地の悪さだけが増長される顔であった。
嘗てナマエが友人たちと共にエンカウントした際、
「やあ、こんにちはナマエ。お友達とお出掛けかな?」
そう、見たこともない爽やかさで微笑んでいたので、ナマエは三度見してしまった。
誰だコイツと胡散臭げな目で見てしまったからか、次回会った時にはハチャメチャに詰られたわけであるし「おまえと他の人間は違うだろう」とのお言葉まで頂いた。
ナマエはこれでも女の子なのだから、もっと優しくするべきである。
彼は現在社会人で、ナマエの数個上の男であるのだが、一度足りとも先輩後輩の中であった時は無い。
小学校は愚か、年の差的に中高も被ることなく、何故か彼と知り合いなのである…というのも、ナマエの幼馴染である小松田秀作くんと知り合いなのである。
ポンコツの秀作くんが一体どこでこんな大層な男前と友人になったのか知らないが、彼経由の面識であった。
…が、利吉さんと秀作くんは別に仲は良くないのだと彼は言う。友人じゃないとまで言う。
ではナマエとも友人ではないのでは?と思ったのだが、そういうと利吉さんはほんの少しバツが悪そうに「…君のことは、いつだって大切に思っているさ」と呟くのであるから、ナマエは彼が嫌いにはなれなかった。サバサバした性格同士であるから、単純にウマが合うとも言う。
しかし利吉さんの方が若干 、いや、かなりヒステリック…悪く言い過ぎか。
女性的な短気さを持ち合わせているので、ナマエの方がよりズボラでマイペースである。一見すると半端な同族嫌悪でダメそうであるけれど、彼はかなり面倒見が良いので、友人関係は大変に良好であった。
「…つまり、前世のおまえは忍者で、掃除が得意で、志半ばで後輩に殺され、らっきょうが好きだったと?」
「そう。加えて同級生の言葉を借りるなら…豆腐が好きで、放って置けない先輩だったって。彼、私と同い年なのに!」
「ナマエ、豆腐が好きだったのか?」
「いや、全然。寧ろ、食べ飽きてる」
「掃除は得意か?いや、聞くまでも無いな。おまえ、小学生に片付けさせているとか言っていたな」
「ピノあげたもん!お菓子と場所は私持ちだもん!」
「前世での死因は痣として残ると言うが、どこを刺されたと言われた?」
「背中!」
「おまえの背中に傷はあるのか?」
「無い」
「じゃあやはり、そんなものは無いな」
冷めた顔がくだらないと口程に語る。
彼にとって、ナマエの前世云々は議論の余地も無いことらしい。まあそれもそうか。あんまりにも大勢が言うものだから、少しだけ、マジなのかと思ってしまっていた。
ナマエが感謝を述べると、利吉さんは穏やかに笑う。
「そうだ。おまえは能天気に笑っていればいい。前世なんて、存在しないのだからな」
こうして優しげに微笑んでいれば、やはり絶世の美青年である。
しげしげと眺めるナマエに、彼は少し居心地が悪そうにした。
「なんだ。急に黙って気味が悪い」
「いや、利吉さん、そうして笑ってればカッコいいんだけどなって思って」
すぱーん。無言で頭をすっぱたかれた。
痛みに悶えれば、恐ろしい目で見下ろされた。
「ふざけたことを抜かすな」
吊り上がった両の目は、マジで怖かった。
ご覧の通り、ナマエと利吉さんは大変に仲が良い。が、一切足りとも恋などと言う土台に上がったことは無い。
ナマエが利吉さんに抱く感情は、どこか懐かしい親しみだけであり、利吉さんがナマエに向ける感情は、穏やかで暖かな慈しみばかりであったし、少しでも色を感じることがあれば、潔白な彼は直ぐ様に叱責するのだ。
いつだったか、彼は言っていた。
「ナマエはいま、幸福か?」
知らんわ。そんなもん。
そこで私が幸せにすると言わない利吉さんであったから、我々はこうなのだ。ナマエもまた、幸せにしてくれと頼むような人間でないから、愛はあっても恋などは無い。
なんにも言わないし、なんにも分からない利吉さんより、好きだ好きだと言ってくれる後輩の享楽的な感情を、愛おしく思っているのだ。
だから、ナマエと利吉さんは友人であっし、どこにも行けない。これ以上は無いし、これ以下にもならない。それは健全で真っ当で、どこか恐怖を伴っている。
勿論、それはナマエが抱くものではなく、あちらのものであった。
ところで山田さん。わたしは、貴方に一度だって名前を名乗ったことがあっただろうか。
ナマエはどうしてか怖くって、一度も聞けずに居るのであるし、きっとこれからも、聞くことはないのだろう。
真一文字に走る首の線は、何故だか酷く痛むのだ。
彼の声は心底優しく、常になにかへの喜色を孕んでいる。ナマエを見る目は無償の愛さえ感じるほど、重く甘く、その一方で、ナマエではない誰かへの、消えぬ贖罪を感じるのに。