ローゼッカーという将は無能の極みであり、ナマエから半数の兵を借りておきながら投降してしまった。
こちらの主力部隊は全て残ってはいるものの、全数でやっと帝国と戦える程度の兵数であるのに半減は非常に不味い。
だが、引くことはしなかった。
此処で引けば帝国はもっと進軍する。街や村を蹂躙し、兵士も民も殺される。それに、一つの意地がナマエを躍起にさせていた。
“いたずらに捕虜を増やし、撤退するなどと…同じ血を引くことが信じられんわ”
王都で謁見した際に言われた言葉だ。
此方としても、ウォルケンスに自分やシェンナ、ベルナードと同じ血が流れていることが信じられないが。…ウォルケンスだって、幼き日は優しい少年であったのに。青年を迎えてからの彼は酷い。時代が彼を狂わせたのだろう。
“そもそも、貴様が将軍になど…ヘルマンは何を考えているのだ。ナマエ、おまえは戦争が終わるまでの間、自領の軍を動かすな。
なに、全てが終われば側室として引き取ってやる。子を産み、世継ぎを作ることが貴様の役目なのだからな”
そう言われたのが酷く頭に来て、今でも心に突き刺さっている。
ナマエは女だ。だが、指揮能力に性別は関係ない。それに、祖国の為に剣を取りたかったのだ。父が愛したこの国と、育ての親であるヘルマンが支えたこの国を守るために。
ウォルケンスのことだって、嫌いではないのだ。愚かでバカだけれど、彼は王の器ではないだけで────。
ナマエの腕を矢が抜く。鎧の上から深々と刺さった石弓は、引き抜けば鮮血を噴き出した。
赤く染まる空を見る。燃えるような茜には、雨のように矢が飛び交っていた。
橋を落とし工作兵を開放する。シノン騎士団の実行する危険な作戦に、ナマエの命も、部下の命も賭けたのである。元より、防衛の任を仰せつかっていたナマエは乗る以外に選択など無かったが。
しかし、勝利を待たずにナマエの騎馬隊は壊滅しそうだった。
馬は死んで、人も死んだ。地に降りた者から順番に抜かれて行く。元々ナマエの部隊は、槍と騎兵が中心のランスリッターだ。奪われたバリスタでああも狙撃されては、囮以外の役割などあるまい。
部下を下げ、撤退命令を出す。囮をするにしても盾の備蓄が既に心許無い。
このまま討ち死に覚悟で踏み止まるのが定石であるが、ナマエの隊は精鋭だ。ただ肉の壁をするには惜しい人員が揃っている。
有望な騎士は帰還させた方がいい。そう決心する。
ナマエは最後尾に立ち、殿を務める。ナマエは将軍であり、指揮官であるから、一番武器の消耗が少ない。役割が持てるのは今や自分だけだった。
此処で死ぬんだろうな、なんて思って。
降り注ぐバリスタの雨を剣でいなしながら、少しずつ終わる自分の命と向き合っている。だけど、本当は後悔があった。ナマエは、名を知ったばかりのあの人に────。
ナマエを射抜こうとしていた矢が叩き落とされる。
それどころか、最初に見えたバリスタの総数が減っているのに気付いた。ご丁寧に、ナマエの騎馬隊を狙うのに適した位置のものから破壊されている。
驚いて、戦場にも関わらず振り返る。
シノン騎士団の軍勢の中に、見知った顔が見えた。青年は片手を上げ、ナマエに手を振っている。光の中に、鮮やかな緑が映り込んだ。
▽
結局ナマエはウォルケンスに酷く叱責されることとなる。
王の言い付けを破り、戦へ出たこと。女であるのに思い上がり、怪我を負ったこと。…と言っても、裂傷が数箇所と、精々腕と背中に矢が刺さった程度なのだが。
騎士団は解体され、ナマエの部下たちは隣の領地であるヴェスターの所に持って行かれることとなった。
彼が言うには「一旦預かっているだけだ」とのことだが。…ヴェスターは雑な性格をしているから、返還される際に自分の部下も混ぜて来そうなものだ。
そして、ナマエはと言うと。
「ナマエ…本気かい?」
「本気ですよ、リース公子。ヴェスターにもバンミリオンにも黙っているように言いましたから」
ヴェスターは豪快に笑って「はっはっは!知らんぞナマエ!」と背中を強く叩いた。
バンミリオンは呆れながら「辞めておけと言っても、聞かぬのだろうな」と選別に槍をくれた。
新品の兜に持参品。自領から連れて来た馬と、纏まった軍資金。
それらをリースの前に置いたナマエは、剣を抜いて膝を付いた。
「ヘルマン伯爵家、ナマエ。これより、リース公子の軍で雑務をさせて頂きたく」
「畏まらなくても…君の方が身分は上だし、そもそも私と君は馴染だろう…」
「そう言っても、私に遜るのを辞めなかったのはどなただったでしょうか?」
「それはそうだが…」
リースが苦笑する。そう、ナマエは影武者を屋敷に置いて、身分を隠して人の軍に入りに来たのだ。
「身分で言うならば、今はあなたの方が上でしょう。私は所詮伯爵夫人ですが、其方は公子様なのですから」
「しかし、君は王族なのだし…」
「前王ならいざ知らず、前々王ともなれば威光は無いに等しいですよ。だから気を遣って頂かなくて結構ですので。
さ、リース公子。私のことは傭兵とでもお思いください。任務も何なりと」
リースは困った顔をしてナマエを見た。恐らく、雑務は振られないだろう。
幼馴染だと言うのであれば、幼馴染らしく適当に接して欲しいものだ。
ではナマエの方は?という話だが、ナマエがリースだけリース公子と呼ぶのは、彼が叩き上げの新興貴族である故。呼び捨てでは威厳に関わるからである。
彼の家が元から公爵位であれば、ヴェスター達と同じように呼び捨てにしていた。
「これから宜しくお願いしますね」
貴族らしくない茶目っ気のある笑顔を浮かべたナマエに、リースは今日一番の困った顔をしたのであった。
▽
前述のような具合でまんまとリース軍に加入したナマエであったが、結局のところは私情から来る選択であった。
ヴェスターは友人で、バンミリオンも友人で、リースも友人だ。みんな幼馴染である。
ナマエが席を置くにしても、ロズオーク公は兎も角、ヴェスターは絶対に反対しないだろうという確信がある。あれはそう言う男だ。
移籍するならば、雑で適当な性格のヴェスターのところでいい。
─────それでもシノン騎士団をわざわざ選んだ理由といえば。
緑の髪が、赤い首布の上で鮮やかさを主張する。
若木のような青さは、彼の爽やかな気概によく合っていた。
「バロウズ様…」
ナマエは完全に、バロウズのことが好きである。
伯爵夫人であるナマエにも、名も無き新入りであったナマエにも平等にかわいいと言う彼。更に言えば、今ナマエが五体満足で生きているのは彼が居てこそ。
バロウズはナマエの介入が無くとも生還していたかもしれないが、ナマエは絶対に死んでいた。彼は命の恩人であり、それと同時にハートを奪って行った男なのである。
初対面じゃあ、善良で好ましい兵士だなくらい。次に会った時は、情熱的で調子の良い人。そして直前の戦では助けられちゃって、俗世に疎いナマエは彼に骨抜きにされてしまっていた。
「よっ!」
「ひゃあ!」
「おっと、驚かせちまったか。悪いな」
「い、いえ…此方こそ、驚いてしまって申し訳ありません、バロウズ様…」
肩を叩くなど、他の兵にやられたら、ナマエは問答無用で切り捨てているだろう。
しかし、彼のそんなところが好きなのである。愛しのバリスタ兵を見上げれば、眩しい笑顔で彼は迎える。
「この前振りだな、シスターの姉ちゃん…って訳でもないよな。あれは、お貴族様の奉仕活動かなんかだったのかい?」
「事情がございまして…私のことはどうぞ、一兵卒として扱って頂きますよう…」
ナマエは深々と頭を下げる。
このような光景、ウォードには見せられまい。バロウズがブン殴られてしまう。
「そりゃ無理な話だぜ。あんた、あん時がハジメマシテって訳じゃ無かったろう」
バロウズはいつの間にか、ナマエの手を握り込んでいる。
そして傷やささくればかりである女の手を、愛しそうに撫でた。
「な、なにを…!」
「その声だ」
ナマエは思わず息を呑む。目の前に立つのは女好きで調子の良い青年などではなく、忠義に溢れた騎士の瞳を持つ者であったからだ。
そのような視線を貰う謂れは無い。ナマエは困惑し、惑う視線を隠さずに向けた。
「あんた、俺を助けた騎士様だろ。そんで、この前間一髪、なんとか助けが間に合った将軍様だ」
「…!」
てっきり、ナマエはバロウズが人懐っこいから手を振っているのだと思っていた。
だが実際はそうでなく、中の人間がナマエであることを見越してコンタクトを取ったのだ。そしてそのナマエに、熱っぽい視線を向けている。
「もう死んじまうって時に、あんたの白い手が俺を掬い上げた。
公子様の軍に居れば、いつか会えるだろうとも思ってな。身分を隠して来たのは驚いたが、それも俺にとっちゃ好都合だった」
ナマエの手を愛し気に撫でて、口付けを落とす。
まるでそんなの、ナマエが好きみたいな。そんなことってあって良いのか?
麗しの彼が、ナマエに、ええ?なに?ナマエは頭が混乱してめちゃくちゃになっていた。
「女神さま…あの時は、俺たちを救ってくださり、」
「す、好き…!」
「ん?」
ナマエは貴族の慎みとか、ウォルケンスへの義心とか、ヘルマンへの恩義だとか、そんなくだらねえものをブン投げてバロウズに抱き付く。
もはや気持ちがどうしようもなくなったのである。
「バロウズさま…お慕いしております…」
「はあ!?」
困ったのはバロウズであった。
ナマエさまと言えば、その出自が複雑ゆえヘルマンに下げ渡されている姫君であるが、時が来れば必ずウォルケンスに娶り直されるだろうと、平民でも知っているような立場にあられる方なのである。
彼女が自分を好きなのはなんとなく分かっていたことだったし、バロウズも気高くお優しい女神さまをお慕いしてない訳がないのだが、身分が絶対に許さないのも分かっていた。
だから、こう、切なく素敵な思い出として、ちょっとばかしは女神さまの視線を頂こうと、彼女に愛され、自分も想っていたことだけ確認して、淡く美しい想い出として胸にしまおうと…そういう算段だった。
しかしナマエはめちゃくちゃに靡いて、言ってはならないことを口にしている。
バロウズを慕っているなどと。そんなことを。
「だ、ダメだろそれは…いや、あんたが嫌いな訳じゃねえけど、そんなことしたら、あんた殺されちまうって」
「まあ、バロウズさま…わたしの心配をしてくれるのですか?」
「そりゃ、まあ…」
抱き付いたままのナマエの背中に、おずおずと腕が回る。
あやすような手つきで、宥めるようにポンポンとされたナマエは、腹を決めた。坐った瞳を向けられたバロウズは、恐ろしいお方だと思いつつも、そのイカれ…漆黒なる真っ直ぐさに、少しときめいている。
「わたし…殺します。ヘルマンを殺して、必ず自由になります。そうしたら、一緒に居てくださる?」
すっげーこと言い始めちゃった。