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そじょうのにく

 ナマエは忍だ。忍者ではなく、忍。使い捨ての道具で、人ならざるものだ。

 命じられれば命じられるまま人を殺すし、死ねと言われれば死ぬ。所有者の命令は絶対で、如何なる理由があっても裏切ってはならない。
 それが忍というもので、存在しない者の生き方である。

 だから、“元大名の子を殺せ”と殿に言われればそうするし、此度も殺して終わりの簡単な任務の筈であった。
 幸いなことに、標的である毛利家の男児というのは既に城を追われていたし、後ろ盾も身寄りも無く父の側室に匿われるだけの無力な少年だというではないか。
 
 彼はナマエの主人からも乞食などと謗られ、貶されている。さぞや哀れで、惨めで、見窄らしい子供なのであろう。そう、ナマエは軽んじていた。

「…なるものか」

 家臣であった男に謀られ、城も権威も奪われた少年は、乳母の血と泥に塗れ、何かを呟いた。倒れる女はナマエが切り捨てたもので、最期まで天晴れな忠義であった。
 辞世の句でも詠んでいるのだろう。ナマエは聴いてやる義理など無いと、刀を構える。
 
 そうして一息で首を狩ってやろうと高く振り上げれば、執念だけで突き動かされているような、悍ましい声が鼓膜を打った。

「討たれて、なるものか」

 視界に星が散った。心拍が酷く加速し、体温が急上昇する。
 少年の声が何度も反復して聞こえて、切羽詰まった声はまるで甘い言葉みたいに反響する。

 憎悪と殺意と、侮蔑に怨嗟。使命と生への執着に燃える瞳が────野望を抱くその眼光が。
 虚に生きる忍びの目には、何よりも惜しいものとして映ったのである。

 ▽
 
 恋とは、どのようなものであろう。
 
 ナマエの知る少年は、「燃え上がるようなものを言うんじゃない」と言っていた。
 ナマエの知る少女は、「ときめき、溺れ、酔い痴れるような心地のものだ」と言っていた。

 それをナマエは長らく理解に及ばず、忍として士官するに至っても“得ることの無い思想”であると断じていた。
 しかしやっと。やっとだ。そのなんたるかを、掴んだような気がしていた。

「あなたさまは、何を為さる」
 
 苦無を振り上げて、仲間の脳天に叩き付ける。
 この男は新入りだから、ナマエはよく知らない。旧知でない相手はやり辛いので、先にやってしまおうと思った。
 
 驚いた顔の同僚が、こちらを見た瞬間に頭を掴んだ。
 彼は同郷で、手裏剣の名手である。本日も揃って飯を食し、他愛の無い会話をした。普段は穏やかな瞳が、やりきれぬ心を写して万華鏡のよう。
 恐怖と怒り、驚きと────失望。激情を持った眼差しが、ない混ぜに輝いて此方を見る。
 わざわざナマエを見てくれるなんて、最期まで甘い人間である。

「なっ…ナマエ!おま、が、ぴゃ」

 続きは言えず、日本語とは言えない呻きが上がってそのまま絶命した。思い切り回された首は、背中に正面がある。
 ぴくぴくと痙攣する新入りに真っ直ぐに刺さった黒いはがねは、まるでりんごのヘタみたいだ。半殺しではよくない。トドメを刺すために、ナマエはそれを思い切り踏んだ。

「なにを成し遂げるのですか」

 一歩近付いたナマエの視線から、少年は逃げなかった。

「何故そのようなことを問う」

 ナマエはそこで、答えをすぐに出せなかった。
 彼に恋をした?彼をもっと理解したい?彼の瞳の輝きを、生きる理由を知りたい?自分のことも知って欲しい?
 
 どれも、しっくり来ない。この子供が誰であろうとどうでも良かったし、ナマエのことなんてもっとどうでもいい。
 恋の定義からは、限り無く外れているのだろうと緩く思考する。

「哀れに思いました」

 率直に言えば、少年は表情を歪めた。それは軽蔑の視線であり、愚者を嘲笑するような目線でもある。
 彼は貴威の高い人間なのだろう。乞食若と謗られ、逆臣に軽んじられ、忍などに哀れと言われ、相当頭に来ている。

 そうでありながら、本懐は見失わないらしい。ナマエの手を弾く事はせず、其れを好機とみなす強かさを持っていた。
 この歳にして、酷く冷えた表情をする男児だと感心した。この心を解きほぐすには、長い時間を要するだろうと値踏みする。
 
 願わくばその御心に、指を入れてみたいと。ナマエは浅ましくもそう思った。

「そのような浅慮で貴様は離叛したのか」

「はい。直情的に、思うまま。ですが熟考しても、きっと同じ事をしたでしょう。ええっと…」

 ナマエは覚え書きを胸から取り出し、少年の身元を確認する。
 毛利家の次男であり、興元さまの弟君。ナマエの主君である井上元盛さまが城を横領するにあたって、一番の障害となる人物であった。

「松寿丸さまが仰られるなら、元盛さまを討つことも、まったく薮坂ではないです」

 井上元盛の名に、少年は特に驚かなかった。予想通りとでも言いたげな視線を寄越して、溜め息を吐く。

「やはり、謀ったのは井上であったか。貴様は信ずるに値せぬ物狂いかと思うたが…存外、見る目はあると評そう」

「では、登用してくださると」

「二度は言わぬ。我の為、死ぬまで励め」

「して、先ずはどなたを謀殺するのですか」

 ナマエはせっかちだ。結論が決まっているなら、早くそれを聞きたいと思った。主君となる方の采配を、障害となる懸念を害し、はやく己を信ずるに至って頂きたいと。
 加えて、こちらからも提案をする。ナマエが何処まで殺せるか、教えるべきだと考えた。
  
「なんでしたら、松寿丸さまが此処に追いやられても我関せずの興元さまも討ちますし、連帯責任ですから、義興さまもやってしまいましょう」

 呆れた顔の殿が、ナマエを冷たく見遣った。

「復讐などは不要ぞ。時は有限である故、そのような事に拘る必要はない」
 
 しかし、思う所はあったらしい。彼はやっと、ナマエにその心を────胸に抱く、野望を口にする。
 
「安芸に永劫の平穏を。我が望むのは、それだけよ」

 ▽

 井上元盛さまは、ナマエを見て酷くお怒りになった。
 
 元来、図々しく思慮に欠ける元盛さまは、思考する力が弱い。
 主君の子を城から追放して、如何なさるおつもりだったのか。ナマエは意こそ唱えないが、こうなったのは必然と思う。
 
 だがそれを止める気は無かったし、その直情的な浅さこそが主君の愛らしさと言えば良いだろうか。ナマエにとっては、そこが何より魅力的な主人だったのである。

 主君であったお人の首に手を掛けた時、その目にはナマエの顔が写った。瞳の中の自分は存外柔らかく、確かな親しみを持った視線を向けている。
 愚かで思慮の浅い元盛さま。謀られたと知らず、”松寿丸は身を投げた”と本気で信じている元盛さま。

 ナマエへの失望と怒りは、恐怖一色に変わっている。残念ながら、ナマエは主君の御心に居なかったようだ。誠心誠意尽くして、尊んで来たというのに。
 八つ当たりのように首の骨を折って、後殿に戻す。これで松寿丸さまの筋書き通り、ただの“急死”である。

 後日、主人の元には、元盛さまのお子である俊秀と、井上一族の俊久が訪れた。御二方はナマエを見て渋い顔をするも、主君への忠義は忘れていないらしい。
 元就さまとなった松寿丸さまに城と家督を返すため、力を尽くすと約束してくれた。

 ナマエは城へと戻った殿を見て「計略ですか?」と尋ねる。
 元就さまは静かに頷いて、此方を一瞥もせずに口を開いた。天守から見える日輪は神々しく、元就さまの時代を予感させる。
 今はまだ国主ですら無く、領主であるとしか言いようがないが…多治比の殿はいずれ必ず、毛利を手にするだろう。

「以前会うたことがあるが…あやつらは武士らしい考えをしておる。
元より、現状を不義と感じておった筈。我が命で父が謀殺されたとて、世の理と思おうぞ」

 なるほど。元就さまは俊秀も俊久も、謀殺を分かった上で従うと踏んでいたらしい。

「発破を掛けねば動かぬ将ではあろうが、罪悪を利用しない理由も無い。安芸の為、家の為、精々こき使うまでよ」

 元就さまは文句を一つ、付け加えた。遠回しな、自主性も智も無いものという誹りである。
 ナマエはどの家臣からも信を置かれておらず、寧ろ“主君殺しの犬畜生”とまことしやかに囁かれている。
 
 元盛さまは急死なさったが、誰が首を折ったなどと知る筈も無い。ナマエは図太く素知らぬ顔で、元就さまの後ろに仕えている。

「わたしにそのようなこと、言って宜しいので?」

「構わぬ。試しに、井上どもへ伝えるがよい」

「うーん、やめておきます。死んだら、元就さまにお仕え出来ないですから」

「ほう。犬以下の畜生と思うておったが、智の無い獣では無いらしい」

 そういう経緯があるから、元就さまは文句の一つや二つをナマエに言うことがあった。
 元就さまはナマエがその話を持って裏切ったとて信用されないと踏んでいるし、ナマエもそれに関しては同意であるので、妥当な文句の捌け口であった。
 
 そういった所はまだ青く、ナマエは嬉しくなる。元就さまには悪いが、悪態を抑えられないところなどは非常に愛らしいと思っていた。

「ご慧眼、流石なれば。して、次は如何なさるので」

「貴様は狗ではなく、駒であろう。我が配下として働くならば、待つことを覚えよ」

 澄ました顔をして、元就さまはナマエを咎めた。元服してからと言うものの、元就さまは極端に表情を見せなくなった。
 以前はもう少し、不快そうに眉を顰めていたと思うのだが。

 それを残念に思いながら控えれば、「下がれ」と命ぜられる。
 元就さまは、あんまりナマエを好いては居ないようだ。もっと心を砕かねば、彼の瞳に映れまい。

 

 
 元就さまの兄君であり、毛利の御当主である興元さまが亡くなったのは、それから数年内のことである。
 
 しかし興元さまには御嫡男が居られ、齢二にして毛利をお継ぎになった。
 後継人として一応は立てられた元就さまであったが、興元さまの奥方のご実家で実権を握っておられる、えーっと。

「久光ぞ」

 元就さまが補足をする。そう。高橋久光という老翁が邪魔立てをするものだから、暫くの間の毛利は毛利で無く、実質的には高橋であった。
 誰の目から見ようが、毛利の血筋に元就さま以上の武勇を持つ方は居られないと言うのに。

 というのも、既に元就さまは多治比の殿として初陣を済ませており、そこで大きく名を馳せていた。
 他者への関心が薄く、殺すか殺さないか程度でしか物事を見ないナマエであっても知るような、智勇に優れる将を討ったのである。それも、毛利と吉川を合わせて尚、四千ある兵力差で。

 元就さまは平時、常々から「戦は物量」「捨て駒を如何に投入出来るか」などと心無い正論を仰るが、此度は物量で圧倒的に負けていた。
 ナマエ得意の暗殺拳も、川の向こうには当たるまい。如何するのかと指示を待っているナマエに、元就さまは普通に仰った。
 
「足りぬのなら足りぬで策を用いればよい」

 完膚なきまでに叩きのめされた敵将、安芸の武田元繁は怒り狂って自ら軍を率いた。
 上手く釣り出した元就さまは、そのまま刀を抜く────こともなく、伏せていた弓兵に手を上げる。それで終わりだった。
 
 ナマエは忍であるのに、弓兵の一団に組み入れられて、忍でありながら普通に弓を引いていた。
 しかし、この戦に関しては、一本でも弓を増やすことこそが勝ち筋であったのだ。
 
 勝ったと簡単に言うが、元就さまは捨て駒にされる手筈で出兵させられている。
 当然それを命じた大内は驚きつつも、“多治比のこと神妙”と称した。ナマエはそれを褒められているのか不思議がられているのか、測りかねている。
 
 ナマエは知らぬ話であったが、これを後の世では西の桶狭間と呼ぶ。
 
 回想から戻って、ナマエは正面で座る元就さまに視線を戻す。久光に毛ほどの興味も無かった忍に、主君は呆れ返っているらしい。

「貴様は忍の癖に物覚えが悪すぎる。毛利の分家に仕えておる自覚はあるのか?…あらば、このような低脳は晒さぬな」

「元就さまが、特別優秀であらせられますゆえ。我が主君として、誇らしい限りです」

「世辞は良い。我をどう崇めようと、貴様の無知は変わるまい。其方の言葉は、上っ面ばかりよ」

 主君を誇っていないで、話を戻そう。
 結論から言えば、毛利の繁栄を阻み、毛利を高橋の手中に納めようとする久光が多治比殿からしても酷く邪魔だという話だ。
 
 ナマエは元就さまを見遣ったが、嘗て「興元さまを討ちますか?」と聞いた時と同じで、渋い顔をなさった。

「早計が過ぎる。策には時期というものがあろう」

 既に策略家としての頭角を表していた元就さまは、この猿掛の地に遭ってもその智力を存分に発揮なさっていた。
 
 心の弱い兄はすぐに没すると読んだ通り、手を下さずとも興元さまはお亡くなりになったし、今お読みになるのは高橋久光さまのことだ。
 ナマエはすぐにでも殺すべきだと思ったが、元就さまはそうは思わないらしい。

「あやつは既に六十を過ぎておる。運の良いことに、子も葬られた。毛利を謀るから、日輪より罰が降ったのだ」

「その日輪の神子様は、直々に手を下されないのですか?」

「不要ぞ。既に大いなる裁きがあったであろう。故、没してからでも遅くはない」

「でも、元就さま。幸松丸さまが育ってしまいますよ。先に家督を継がれては、殺す他なくなりますよね。それとも、平和主義にでもなられましたか」

「フン。何方にせよ葬る必要があると、貴様も分かっておろう。白々しい言い方は止めよ。高橋は殺すが、時期ではないと申しておる」

「そうですか。しかし、日和って様子見ばっかりしてたら出遅れますよね。やはり高橋は早めに討った方が良いのでは?」

「くどい。口を開けば、殺す滅ぼすと野蛮な…外聞が悪いゆえ、少しは作法を学べ。この我に、躾などをさせるつもりか」

 元就さまはナマエの手を叩く。食されていた甘味に手を伸ばした事が、酷く気に障ったらしい。
 すごすごと手を引っ込めれば、元就さまは手ずから大福をお掴みになった。そして有無を言わさずナマエの口に突っ込み、ご自身の指に付いた粉を舐め取られた。

 元就さまも行儀悪いじゃん。咎めるような視線を、主君は全く気にしてはいない。

「捨て置いて構わぬ。どうせ、久光は近いうちに没する」

 ナマエは首を捻った。どういうことか本気で分からなかったのである。

「近く、三吉討伐への出兵があるだろう。貴様も行け」

 なるほど。
 心底腑に落ちた顔をするナマエに、元就さまはいつもの澄まし顔を寄越した。別段そこに期待などはなく、当然のように命じられたので、ナマエはまだ足りぬのだと残念に思った。

 
 ▽

 謀殺。調略。謀殺。謀殺。調略。
 元就さまが、毛利元就さまと名乗る頃には、元就さまの後ろには赤くて綺麗な道が真っ直ぐに引かれていた。緑と相反するような、輝かんばかりの生命の色である。

 元就さまの人生は、ナマエと出会った時からずっと綱渡りだ。
 一度しくじれば、自分も家も無くなるような選択を何度も何度も迫られて、常人ならば────それこそ、凡人であった興元さまのような方だったら、とっくに酒に溺れて死んでいるだろう。

 既にあれから干支が一つ以上回っていて、ただの隣人であった吉川は多治比の盟友を経て、毛利の家臣となった。
 
 結束のために迎えられた奥方は妙玖と言い、彼女とお話になる元就さまのお声は非常に甘い。
 元就さまは奥方には特別お時間を割かれるし、非常に筆まめであられる。
 
 てゆうか元就さまはわざわざ人に言わないだけで、恐らく文を書くのがお好きだろう。
 書道を好むのか、紙に思うままに文字を滑らすのがお好きなのか、単に直接口説くのが面倒と思っておられるのか…定かでないが、ナマエは五尺もある冗長な恋文を運搬させられた。
 
 対する妙玖さまは思慮深く、智のあるお方で、当然のようにナマエをよく思っては居ない。文を届けた際も、一瞥もせずに下げられた。
 ナマエは元就さまのお心が変わらぬ限り、妙玖さまを害する気はない。そのため非常に遺憾である。
 ただ、妙玖さまにはもっと元就さまの心に踏み込んで欲しいと、元就さまの唯一になって欲しいと、陰ながら思っているだけなのに。

 因みにであるが、調略という形で済んだ相手も、尼子に処断されて中国の染みに加わっている。
 最近では弟君である元綱さまを利用し、元就さまを排除しようなんて動きもあって、それを直接聞いたナマエは「殺しますか?」と主君に尋ねた。

「道理であろうな」

 は。ナマエは聞き返す。
 毎度のことではあるが、“殺す?”と問うナマエに、必ず元就さまは“愚か”と返す。そうして殺すという結論に至るにしても、回りくどく口上を述べられるのだ。
 しかしその元就さまが、短くはっきりと、殺すことを明言した。余程参っているのか、覚悟をお決めになられたのか。
 
 どちらにせよ、ナマエはその御心に感じ入った。決して立ち入らせないその内心に、今ならば手が届く気がしたからだ。
 
「お可哀想に。元綱さまとは、仲の良い御兄弟でしたよね。ああ、奥方さまをお呼び致しましょうか。妙玖さまであれば、元就さまの御心を分かってくださるでしょう」

「心にも無いことを申すな。我にはそのような言葉、一つも響かぬ」

 ナマエの言葉は一蹴された。長く仕えて居るが、未だ信用には足らないようだ。

 仕事を如何に評価されようとも、元就さまは重要な一手を必ずご自身でなさる徹底振りであったし、ナマエを大切な役割に就かせることは無い。
 それが酷くもどかしい。しかしそう思いながらも、いつか御心を赦される日をナマエは夢見ている。

 上の空であったナマエを、元就さまは平手で叩いた。

「惚けるな。早う渡辺を呼び付けよ」

 ナマエが文を持ち、即座に呼び付けた渡辺勝を、元就さまは一瞥もせず切り殺した。渡辺の瞳は恐怖一色で、つまらない目をしていた。
 そうしてその死体を郡山の谷に蹴り落とし、見えない斜面から鈍い音が微かに聞こえて遠くなって行く。元就さまは“首を晒す価値も無い”と言外に語っていた。
 そうして振り返って、家臣たちへ呆れた視線を向ける。

「何を見ておる。そのような暇があるならば、郎党を滅するべきであろう。違うか?」

 慌てて小隊を城に派遣する家臣たちを尻目に、ナマエは元就さまに聞いた。

「本当に良いのですか?わたしが元就さまを謀って、嘘を付いているかもしれないじゃないですか」

 全くそんなことは無いが、そう尋ねる。家督を継ぎ、正室を迎え、それなりに家臣を抱えるようになっても、未だ他者に全く心を許さない元就さまが、ナマエの報告を素直に聞いたからである。
 元就さまは表情を変えずに、短く答えた。

「有り得ぬな」

「それって、わたしが手放しで信用に足るってことですか!?認められたと、誇ってもよろしいのでしょうか?」

 眉根を寄せて、相変わらずの氷の面が嘲笑して言った。

「それも有り得ぬ」

 ▽

 謀神などと名乗り、恐怖され、そう呼ばれるに相応しいお力を持った元就さまの推進は止まらない。

 弟君を討ち取り、大内を謀った尼子をも下し、中国地方を支配するに至る頃には、既に敵は中国に無かった。
 
 幼い松寿丸さまを謀ろうとした井上や高橋。
 元就さまは彼らに復讐はしないと明言して居られたが、恐怖政治の土台として、粛清するに丁度良い家だと目定められたらしい。
 井上党は元就さまによって徹底的な弾圧、粛清、解体を受けて、今や残るのは一部の敬虔な信徒のみ。無論、元就さまが陶酔なさっている日輪のだ。
 
 現在は内ではなく、外。外様からの侵攻が、目先の懸念である。
 
「私と貴女は同類だ。殺しを楽しむ飼い主のように、命を奪う悦びだけを求めて居れば幸福だったでしょうに」

 中国に攻め入った、織田軍家臣の言葉である。
 明智光秀と名乗った侍は、武士というよりかは限り無くナマエに近い性質を持っている────彼がそう言うように、ナマエもまた、そう感じている。

 しかし、その言葉は頂けない。元就さまが殺しを楽しんでいるなど、的外れも良いところだ。

「元就さまは別に、殺しを楽しんではないですよ。計画通りに雑兵を挫くのが痛快であるというだけ」

「貴女が私の同族であるというのは、否定しないのですね」

「はい。わたしたち、畜生ですよね。お互いの理解者になれると思いますが…でもお友達になんて、ならないですよね」

「ええ。私に獣の友は必要ありませんから」

「同感です。友達になるなら、魔王の方がまだ良いです」

 光秀を討っても、美しいとは思わない。理由はもう、わかってる。

 ▽

「ひとつ、忠告を。毛利に居ては、貴女の望みは叶いませんよ」

「…」
 
「何より甘美なるものは────熟れて、腐るのも早いのだから」
 
 明智光秀が遺した、辞世の言葉である。

 ナマエはその意味を測りかねていた。元就さまが野望を抱く限り、ナマエは成就の日を夢見て幸福を感じられる。
 その果てを思うと、今から微笑みが溢れてしまう。しかし明智は、それをまやかしであると断じた。

「貴方は、元就さまに執着されているのですか?」
 
 ナマエは死に掛けていた長曾我部を引き揚げて、治療をしてやる。気紛れであったが、聞きたいこともあった。
 忍びに不意打ちを喰らい、元就さまによって撫で斬りにされ、海面に蹴り落とされた長曾我部は運が良かったようだ。後で西海…は邪魔であるので、徳川にでも送り返してやろう。

「どういう問い掛けだ、そりゃあ」

「元就さまは貴方を見ているときだけ、松寿丸さまのようなのです」

「松寿丸って…ああ、毛利の…」

「殿は不幸なお生まれで、育ての母を忍めに切り捨てられました。乞食と謗られ、家臣に謀られ、ついぞ誰のことも信用なさらぬように。
そうして個の力を欲したのが、今の元就さまです。でも孤独に耐えられるほど、人間は強く無いと思うのですが」

「まあ、そりゃあな。俺にゃあ信じらんねえよ」

「して健気にも、個を貫かんと為されておられる。痛ましい事だ…」

「しかしそんなもん、俺に話してどうすんだ。事情が如何であれ、俺はあいつのやり方が気に食わねえ。
あんたに恩は出来たが、何度だって侵攻するし、安芸の地はいずれ頂くぜ」

「いえ、いっそ、殿のやり方を真っ向から折ってくださればと」

「はあ?」

「一度だけ、元就さまが苦心なさるのを見た事がございます。それは他でもない、貴方とお話しされている時でした。
しかし以降、その御心は氷のよう。人の身を辞められたのかと思いましたが、そのようなことはないようで」

 元就さまは普段、ナマエに呆れ以外の表情を見せる事がない。
 だがこの長曾我部元親には、ほんの少しだけ怒りと羨望を見せた────ような。ナマエがその目を受けていれば、かのお方の心を覗き見、指を入れる事が出来ただろうか。
 
 ナマエは長曾我部を羨ましく思うが、排除対象と見做された点を思えば成り変わりたいとは思わなかった。
 あくまでお側で、一番近しい位置で、信頼を持ってそのご尊顔を見たいのだ。
 
 しかしそれが長曾我部には腑に落ちないらしい。
 傷口を止血された海賊は、元就さまとは違う、飾らない言葉で問い掛ける。

「あんた、何を考えてやがる。毛利の重臣じゃねえのかよ」

「古参というだけです。ですがそのわたしに謀られ、長曾我部を逃がされたと知った元就さまは、どうお思いになるでしょうね」

 謀りも裏切りも無い愛と情に支えられた男。その男を助け、逃したのがナマエと知れば、元就は如何思うのか。
 何も思わずとも良い。長曾我部が生きている限り、元就は苦心するだろう。捨てた生き方を歩んできた男が、真っ当なる王道を往くのであれば。
 
「貴方が生きていると、わたしは嬉しいのです」
 
 ナマエの微笑みを見て、長曾我部は苦い顔をした。
 
「まったく喜べねえ理由だぜ」

 ▽

 妙玖さまが病に伏せ、もう永くないと聞いてから季節が一つ経つ。
 ナマエは最期まで顔を出すことは無いだろうと思っていたが、予想外に妙玖さまはナマエを呼び付けた。

「おまえがなにを企てようと、元就さまはおまえなどに謀られない。俎上の肉に過ぎぬ」

 細枝のような腕で、奥方はナマエの腕を掴んだ。
 
 幽鬼の類いと間違うほどに力強く、ぎらぎらと光る瞳で妙玖はナマエを見る。その真意は汲み取れなかったが、深く憎まれているのは理解に及んだ。
 
「しかし…おまえに謀られなかったこと。それがわたくしにとっては、耐え難い屈辱なのです」

 哀れな女の言葉だった。しかし、ナマエの心は動かない。もっと美しいものを知っている。
 
 妙玖さまはそう言って、ナマエを部屋から追い出した。
 そして元就さまやお子たちに見守られ、息を引き取った。

「母上は、其方を嫌っておったわけではないのだ」

 隆元さまが、ナマエに気を使う。当然そんなわけはなく、妙玖さまがナマエを嫌うことには明確な理由があった。
 
 ナマエが私情で殺すかと迷ったのは、後にも先にも、この父譲りの賢さと、母譲りの優しさを持った隆元だけだ。
 妙玖はそうではなかった。聡い彼女は、気付いていたのだろう。元就さまの優しさも、愛も、その真意も。
 
 そしてナマエが、妙玖さまに興味の無い理由も。

 程なくして奥方は埋葬され、元就さまは部屋に篭るようになった────というよりかは、元に戻ったと言えば良いだろうか。
 家の為、国の為に内政も整えてきた元就さまは、良い国守であり良い夫であった。しかし奥方が亡くなられたゆえ、今まで妙玖さまに割いていたお時間を、順当に他へ当てられているという訳である。

 ナマエもまた、以前より元就さまの部屋に出入りがしやすくなった。
 忍とはいえ、女は女。妙玖さまのお心を鑑みる元就さまは、夜半に立ち入るならば、他の者も連れよときつく言い含めていたからだ。

「貴様、長曾我部を取り逃したな」

 苛立ちで刺々しい言い方を為された元就さまは、ナマエを強く睨み付けた。
 奥方を失ったことで気落ちしている様子は無いので、やはりナマエの見立ては正しかったのだろう。あのお方は、元就さまのお心に踏み入れてはいなかった。
 そしてナマエもまた、そうではない。残念ながら、彼の弱さは見られなかった。

「討ち取れとは命じられておりませんでしたから」

「情でも湧いたか」

「そうですね。個人的に、長曾我部は好ましく。それで、如何に処分を下されるので?」

「馬鹿らしい。貴様の気紛れ一つ、如何様にもなろう」

「はあ」
 
 ────そこで、どうしてナマエを見るのか。
 その目は駒を見る瞳ではない。忍を見る顔でもない。ナマエという個人を、真っ直ぐに見据えていた。

「場は整った。最早、貴様では何も出来ぬ」

 元就さまは静かな動きで指を差し向けた。謀りに染まった手を取れと、目が雄弁に語っている。

 ナマエはその手を決して取らない。だってナマエはずっと、彼を殺したかったのだから。
 裏切りの味は甘美であると、友の肉の味を、ナマエは覚えてしまったから。

「取らぬか。まあ、そうであろうな。そうでなくては、策を弄した意味が無い」

 静かな声であったが、確かに喜色を孕んでいる。このような声を聞いたことはない。
 長曾我部を討ち倒した時も、中国を制圧した時も、当主となった時も。ナマエは悪寒に震える。
 なにか、酷くしくじったことだけは理解に及んでいたからだ。

「家督は輝元に譲った。妙玖も逝き、三吉の娘も迎えた」

 三吉?今頃何故?と足りぬ頭で考え、ナマエは思い出す。
 遠い昔に滅亡した毛利の政敵、高橋氏。その中で一番邪魔だった久光は、三吉との戦で討ち死になさったのであった。何処の誰が殺したとも分からぬ首は、一応三吉が上げたものとして処理されている。
 ナマエはどのような密約があったか存じては無いが、まあこの方の事だろうから、長い目で見た謀殺だったのだろうと今更に思う。
 
 確かに、大内の存命中に姫を寄越したとて、なんの旨味も双方無いだろう。それどころか、結び付きを示してしまうだけだ。
 殿は頭良いなとナマエはぼんやり思った。

「残る懸念はそなたのみ」

「はあ?」

 ナマエの手首から先が無くなる。見れば、元就さまは刀を持っていらした。
 元からナマエの片手は義手で、毒を受けて捨てたものである。

 落ちた義手を拾って、元就さまは口付けた。それだけで、元就さまのナマエに向ける感情が、誰よりも有能な忍びに対するそれでは無かったと察することができる。

 恐怖も怒りも絶望も失望も、そこには無い。明智光秀の言葉を借りるなら、そう。“甘美なるもの”は、ひとつもなかった。
 氷の面の下には、慈悲があり、情があり、想いがあった。ナマエを愛し、慈しみ、歩み寄る心が。ナマエの望みを理解し、そして受け入れるのだろう。てゆうかナマエが生きている限り、元就さまは。

「随分と人間らしく振る舞うのが得意になったな。あれほど異様で、気色の悪い忍であったのに」

「わたしを謀りましたね」
 
「さてな。貴様の目に、我はどう映っておる」

 誰より不幸な子供を、誰より哀れな男児をナマエは囲ったはずだ。
 そうしてそれをいつか、裏切ってやろうと。ナマエに気を許した瞬間に、謀ってやろうと。一番美しくて、哀れな姿を見てやろうと、ナマエは思っていたのに。

 ナマエに触れる手は優しく、確かな歓喜に満ちている。
 ナマエが優しい顔をする悪辣なものであるなら、元就さまは逆である。心無い振りをした、存外まともな感性の人間であった。

「考えてもみよ。幼少期より寄り添われ、焦がれた目で我を見るのだ。想われておる実感があった、とでも陳腐なことを申せばいいか。
何があろうと、貴様だけは我に執着するであろう。ありもしない我の苦しみを求めてな」

「孤独でなければ、苦しみもないと?」

「当たり前のことを申すな」

「わたしが裏切ろうと、何も思わないので?」

「そうだな。貴様の企みなど、とうの昔に把握しておったわ。ならば、それが叶わぬよう振る舞うだけよ」

 ナマエが仕えたせいで、至上の美しさは永劫に失ったのだと言う。
 しかしその目には、確かに光る野望がある。未だ潰えてはいないのだと、手中に収まらない忍を見る。

「今この日の本で、我以外に誰が貴様を討てよう」

 頭が足りないナマエでも分かる。
 元就さまが掌握したこの安芸で、元就さまの忍であるナマエを正面切って殺そうとする馬鹿は存在しないだろう。
 それに、ナマエだって元就さまが見えない場所で死ぬ気は無い。心に入れた友を失った瞬間の、煌めくお顔を見たいが為に働いていたのだから。

 ナマエは既に、抵抗する気などは無かった。長年見守っていた殿は、ナマエがどうしようと絶望することは無いだろう。
 だから手を伸ばして、いつ裏返るか今や今やと愉しむ蝙蝠を地面に叩き付けたのだ。
 
 ”毛利に居ては、貴女の望みは叶いませんよ“

 明智の忠告を思い出す。
 元就さまが幸せになるまで、ナマエは育ててしまった。待ってしまった。
 今殺そうが、自害しようが、毛利を滅ぼそうが、元就さまは満足している。
 
 だってナマエは元就への執着を生涯捨てられない。氷の面の下で、元就さまはずっとナマエを笑っていらしたのだ。
 
 ナマエは完全なる勝利を、分からされてしまった。
 執着し、彼を一番とした時点で、ナマエは全てに負けていたのだった。孤独を奪い、一人を二人に。
 取り返しの付かない真似は、過ぎ去った後にわかること。最早何もかもが遅く、謀り事は握り潰された掌で踊るのみ。俎上の肉。妙玖が遺した言葉は、既に策に嵌ったナマエを指していた。

「ナマエ。貴様なぞに我は謀れぬ。大人しく、犬のように侍るが良い」

 名を呼ぶ声を聞いたのは、初めてのような気がする。
 だってこんなに優しく、それでいて決してそれだけでない、甘い征服欲の溢るるお声を、ナマエは聞いた事が無かった。

「精々、我に付け込んでみせよ」
 
 このお方は情を持って人を呼ぶ時、このようなお声で命ぜられるのか。ナマエは長らく仕えていて、ようやっと知った。

 伸ばした指先が、頬に触れた。普段のように打つことはせず、慈しむように撫でる。
 元就さまはナマエを屈服させて尚、その先を望んでいるようだった。
 
 主君として、いつか殺したい相手として、ナマエは元就さまを愛し想ってきたけれど、殿方として見たことは一度も無い。
 思わず後退りをするが、その前に口付けを交わされる。舌を捩じ込まれ、思うがままに蹂躙される。流れるような制圧は、今まで与してきた戦のようだった。
 
 元就さまはずっと、ナマエを女として見ていた。ナマエは家臣として、忠臣として、裏切りのための信を積んでいたつもりであったのに。
 
 その事実に、頭に酷く血が昇るのを感じる。激昂し、心が更に囚われる。舐めやがってと唇を噛むが、それすらも舐られる。
 野望に恋をした忍は、主君の裏切りによって女の烙印を押されるのだ。
 
 ナマエは半世紀を使い、謀られたのである。焦がれて止まない野望を持った、愛すべき詭計智将に。