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オーガスト7とリアクションの良い女

「空中浮遊をするのは簡単だ。夢も浪漫も無い単純なタネだけれど、大抵の場合は身体のどこかにワイヤーが引っ掛けてある。だけれど、観客たちには見えないよう、長いドレスやコートの裾で隠されているものなのさ」

ナマエの身体は引き寄せられて、抱き抱えた男と共に、空を舞い上がっていく。
それは彼が説明したように、ワイヤーが引っ掛けられているわけではない。ナマエと嘘吐きマジシャンの男は空へ空へと、タネ無しマジックで上昇していった。

「どうだい?夜空を歩くのは。私は何度もやっているけれど、観客の君には初めてのことだろう」

綺麗とか、綺麗じゃないとか、そういう話ではない。ナマエがキッと彼を睨めば、青年─────オーガスト7は飄々とした笑みを浮かべたまま、ナマエを更に抱き寄せた。

「や、やめて。降ろして、落ちちゃう!落ちちゃうよこんなの!」

「それなら一度手を離してみようか。スリーカウントで、宙に浮かせてみるのも悪くない」

冗談じゃねえ!
ナマエは拒絶を込めて、美貌の男を突き飛ばしてやろうかと思ったが、そうすると手を離されてしまうことに気が付いた。

究極の選択である。
この気に食わない男を押し退けて、彼の“タネ無しマジック”で宙に踊らされるか。苦渋の決断を下し、みっともなくその胸に擦り寄るか。
ナマエは両方死ぬほど嫌だったが、どちらかと言えば宙に放り出される方が嫌であった。心を決めて、息を吐いて、オーガストの馬鹿野郎の肩に手を伸ば、

「はい、三、二、一」

「ば、ばかああああああ!!!!!!」

ナマエの身体が勢い良く夜空に投げ出される。そもそも、高層ビルの屋上付近で始まった問答だったので、当たり前に即死級の高速落下だ。浮遊感とか、そんなレベルではない。風を切る音が、スローモーションで聴こえて、ナマエは神に祈った。クソ男のせいで死にます。恨ませてください。

その間0.5秒。両手を胸に組んで悟りを開きかけたナマエの腰を掴んだのは、手袋越しの手ではない。
如何にもな白い手袋をした男は、ワイヤーを手繰るような動作でナマエを引き上げた。糸など見えないが、ナマエの腰には確かな異物感がある。

彼、オーガスト7は契約者なのだ。
本物のマジックを行使することが能力であり、その対価としてタネを話す必要がある。
彼は常々「マジシャンにとっては拷問だよ」と言っているが、ナマエは何度も何度もマジックのタネを聞いている。聞きすぎて、ナマエもまたマジシャンとして開業できそうだ。…不器用なので無理だが。
本当は別になんとも思っていないと言われても、納得するレベルであった。

そんなオーガストとナマエが知り合ったのは、偶然にも彼の任務を見てしまったことに由来する。
人を殺していたのにも気付かず、ただの路上パフォーマーだと勘違いをした。そして馬鹿で間抜けのナマエは、手を叩いて立ち上がる。スタンディングオベーションをしてしまったのだ。

「すごーい!お兄さん、魔法使いみたい!」

なんて、バカ丸出しの言葉を使って。
以降、本来ならばその場で殺される筈だった“目撃者”、ナマエは幸運にも死なずに済んでいるし、何故かオーガストはナマエというイレギュラーを上に報告しなかった。

契約者という存在は、総じて合理的だ。
自分の命を最優先にした上で、一番利益になる行動を選ぶ。感情が無いわけではない。合理性を突き詰めると、人間は冷徹になると言うだけ。
だからこそ、記憶処理、或いは殺すのが最適のはずの、目撃者を隠したことが不自然だったのである。

どういう心境であるかなど、ナマエは知らない。彼が何をしているのかも、知らない。
ただ、彼が契約者であること。軍属のエージェントだろうこと。その事について、触れるべきでないこと。それだけを理解している。

そういった事情があるため、ナマエはオーガスト7に対してどう接するべきか分からない。
彼は月に一度だったり、週に四回だったり、三ヶ月ぶりだったり、不規則にナマエに会いに来て、こうしてマジックを見せびらかしてくる。ナマエはそんなオーガスト7を、付かず離れず、適当に相手するようにしている。
…のだが、このクソマジシャンは。そんなこと気にせず、ガンガンと自分のペースでブン回すのだ。

「と、まあ。これが空中浮遊マジックの真骨頂だ。特等席のお客さまは、お楽しみ頂けたかな?」

「楽しくねえよばーか!」

腰を抜かしてしまったナマエは、結果的に元凶へと擦り寄ることになった。背中に手を回して、赤いコートのベルトにしがみ付く。
細くしなやかに見える青年だが、思ったよりも着痩せしているらしい。綺麗な顔に似合わず、筋肉質で硬い。
オーガストのクソ野郎は、紐をぎゅっと掴んでいたナマエの手を雑に解いた。そして首に回させると、横抱きにする。ふざけるな。

「君は楽しくないというけれどね」

オーガストはナマエの罵声を遮るように言う。
感情の見えない金の瞳が、凪いだ色でナマエを見つめた。きらめく銀糸の髪が月の光に反射して、恐ろしいほど“らしい”、ミステリアスさを持っていた。それこそ、魔法使いだと言われても騙されそうなくらいに。

「私は、とても楽しいよ」

一切の色を見せず、穏やかな声で彼は言う。
楽しいと言ってはいるけれど、契約者の機敏は薄いものである。ナマエはバカにされているのか、本気で言っているかが分からなかった。契約者に、楽しいという言葉はあまり似合わない。
だから静かに、言葉の続きを待つ。オーガストの口角が、一際楽しげに上げられる。

彼はやはり美しかったし、ナマエは憎まれ口を叩いているけれど、本当は、少しだけ、そんなに嫌いじゃない。ちょっとだけ煩い心音を、聞かないフリで押さえつけた。

「マジシャンというのは、リアクションの大きな観客を好むものだ。歓声、絶叫、どちらでもいい。君が心底驚いた顔を見せてくれるだけで、此方は冥利に尽きるものだからね」

「ふざけんな廃業しろ!」

ナマエの善性に謝れ!
横抱きで無ければ暴れちぎっていた。このクソマジシャン野郎は、ナマエを己の享楽のために振り回していたらしい。契約者ってやつは酷く合理的であるが、それと同時に自分本位だ。すっかり失念していた。
彼は少しも変わらない表情で、淡々と続ける。

「いいかい。私は優れたマジシャンだ。タネも仕掛けも無い、それこそ魔法使いのようなね。だけれどマジックというのは、一人では完結しないものなんだよ」

残念ながら、後継者兼アシスタント候補には振られてしまったけど、とオーガストは言うが、別段ショックを受けているようには見受けられない。
肩をすくめて、残念そうな口振りなのだが。…そういうポーズだけはしてくる癖に、感情がこもっていないから胡散臭いのである。

「だから、見せる相手が必要なんだ。分かるだろう、観客のお嬢さん」

「分かんないけど」

知らねえよ。ナマエは呆れてしまう。
せめてもの抵抗として、首でも締め上げてやろうか…と、手を伸ばして、ふと気が付く。
彼は以前と全く変わらない姿だったが、その横顔に、ほんの少しの火傷が見られた。
薄っすらと残っている程度だが、確かにそれは生々しい傷跡だった。

「…貴方さあ、やっぱ危ない仕事ばっかしてるの?」

「そこはシークレットにさせて貰うよ。私が君に話せるのは、マジックのタネだけだ」

「はいはい」

「但し」

言い含めるように、彼は指を立てた。

「私は剣で貫かれようと、水中に沈められようと、銃で蜂の巣にされようと─────頭を鋼鉄で叩き潰されようと。必ず、生還してみせるけれどね」

脱出マジックの話をするように、気軽でアッサリとした言い草である。…しかし、最後のはオーガスト7の言葉にしては妙に、実感のこもった声であった。
ナマエはどう返答するか、少しだけ迷って、そして躊躇いがちに擦り寄る。爪の先ほどの気持ちだけ。彼が魔法のように消えてしまう日が、怖くなってしまったからだ。

「…なんでもいいけど、生きてて良かったよ」

私だって、貴方のマジックを楽しみにしているんだ。
照れ隠しに顔を逸らしたナマエは、表情を隠すために距離を取った。…取るも何も、抱えられているが。気分的なものである。
彼の顔を見ないままであったが、オーガスト7が気にした様子は無い。涼やかに、平坦な声でインパクトを投げつけるのが、彼というマジシャンだ。

「そんな客だと理解したから、私は君を消さなかったんだよ」

ああ、なんだ、とナマエは今更理解する。
彼にとっての利益は、充実は、酷く分かり易かった。結局このオーガスト7というやつも、例に漏れず合理主義者であったのだ。それがほんの少し、変わっていただけ。

オーガストは契約者である前に、どっかのエージェントである前に、彼という個人はマジシャンだった。ただ、それだけのこと。
なんだか酷く拍子抜けをしたと同時に、ナマエの産む利益は大金以上だと気付いてしまった。
もちろん、彼にとってだけの。なんだかそれが可笑しくって、笑ってしまう。

「貴方、生粋のエンターテイナーだね。そんなにリアクションが恋しいなんて」

「言っただろう。マジシャンというのは、大きな歓声を切望するものさ。契約者は皆、反応に乏しいからね。最初こそ驚いた顔をしてくれるけれど、最期には苦悶の表情になる」

…そういう話は、どう反応したら分からないけど。
呆れた顔でオーガスト7を睨めば、彼は少しだけ、ほんの少しだけ、穏やかな目をナマエに向けた気がした。