「近寄るなニンゲン!」
拒絶の言葉と掌が浴びせられた。
ぱしん、と全く痛くもなく音だけが高く響いた。女は唖然とする。はたき落された右手は赤くもなっていない。
立ち尽くすナマエを、動揺した顔のリュシオンが見る。叩いたのは彼方であるのに、そのことを酷く驚いたような顔だった。
「よくも、よくも騙したな…!」
彼は鋭く睨んで、その美しい顔を歪めた。荒い羽搏きの音とともに飛び去っていく友人を、ナマエは呆然と見つめるだけだった。
「鳥は暗い所が見えないって聞いてたけど…彼もそうだったのか」
リュシオンに侮蔑も嫌味も憎しみも無く、彼女は淡々と思う。
一族をニンゲンに滅ぼされたらしい白鷺が、ベオクを憎んでいるのは当然だと思ったからだ。ナマエだって、リュシオンに出会うまでラグズのことは苦手だった。
獣の姿ばかりを戦場で見ていたから、言葉なぞ通用しないと偏見を抱いていた。そんなナマエに、人を責める権利は無いだろう。
しかし、それにしてはやけに友好的な態度で話し掛けてくるとは思っていたが。まさか、ラグズと間違えられているとは思わなかった。
黒い体をした相棒を撫で付ければ、大丈夫かご主人と言わんばかりに一鳴きして首を擦り寄せてくる。
賢くて可愛い子だ。友人を失って沈んだ心を埋めるよう、ナマエは竜を抱きしめた。
▽
「で、なんだ。それで俺に相談か」
木に腰掛け困った顔をするティバーンに、リュシオンは浮かない顔をした。相談の内容は勿論、ナマエのことである。
彼女との出会いはセリノスの森の近くでのことだった。
リュシオンはタナス公の屋敷から上手く逃げ果せたはいいものの、山賊に襲われてしまった。
そして売られかけたところを、偶々通り掛かったナマエが間一髪助けてくれたのだ。
「闇夜に煌めく金の瞳と黒い翼が、雄々しく瞬き私の手を引いたのです。凛とした声が背中に掴まれと言いながら。
弱っていて意識は霞み、暗くて彼女の瞳しか見えなかったが…翼もあるし、きっと黒鱗族だろうと…」
ところが実際、彼女は竜騎士で。
金の瞳は紛れもなく彼女の物だったが、黒い翼は彼女の相棒の物で。最初から一人ではなく二人だったわけである。
後日、日光の下で再開した時も彼女が偶然竜を連れて居なかったから、やはりラグズだったのだと勝手に勘違いを続けていた。
そして先日、竜を連れた彼女と発覚した事実にリュシオンは動揺してしまい、心配して駆け寄った命の恩人であり大切な友人となっていた彼女の手を叩き落としてしまったというわけだ。…ご丁寧に、ニンゲンなどという蔑称も使って。
「すぐに謝りに行けばいいじゃねえか。お前らしくも無い」
「…彼女のことだ、謝れば直ぐに許すでしょう。しかし、それでは私の気が収まりません。その場の激情で彼女を傷付けてしまったのですから」
「そこまでのニンゲンなのか?」
「ニンゲンと呼ぶのを止めてください。彼女を侮辱することは例えあなたでも許さない」
ティバーンは種族の割に男らしく色々と不器用であるリュシオンが、その行動も裏表なく真っ直ぐなものであると知っている。
それ故、単刀直入に謝りに行かないのは何故かと疑問に思ったのだが、先程の話を聞いて率直に答えを出す。そして頭を痛めると同時に、なんだか微笑ましくなった。
「私は真剣に話をしているのですが…」
「悪い悪い。気にしないでくれ」
白鷺の民は嘘を見抜ける代わりに嘘を吐けない。即ち、言っていることはニュアンスの違いこそあれ全て本心だ。
その彼が、”ニンゲンである彼女”と仲直りをしたいと言っているのだ。ティバーンはその彼女というのが誰なのか良く分かっていないが、全ての嘘を見抜くリュシオンの目に叶うのだから、悪い人物では無いと判断する。
そして、恐らくリュシオンはその彼女に惚れているのだろうと思った。恐らく、いや、絶対。容姿に優れた白鷺の民がここまで人の見目を褒め称えた。完全に色眼鏡が掛かっているのだろうと思うと堪らなく可笑しい。
そして何より、ニンゲン嫌いのリュシオンが、”彼女”に非は無いと主張し庇って見せたのだ。これには内心凄く驚いた。
堪え切れない笑いを抑えることをやめ、先程から木の後ろに隠れている二つの影に一瞥する。
小さい方の影がギクリと長い髪を揺らして躓きかけ、もう片方の影に支えられたのが見えた。リュシオンが燻げな顔をしたが、構うものかとティバーンは笑って見せる。
「なあ、リュシオン」
「なんでしょうか」
「お前リアーネにも例の彼女、紹介したか?」
「しましたが、何か」
「仲は良いのか?」
「そうですね。彼女はリアーネの言葉を理解しようとしていた。リアーネもまた、彼女の言葉を理解しようとしている。良い関係でしょう」
「そうか。良かったな、回りくどく謝る必要は無さそうだぞ」
は?と眉間に皺を寄せたリュシオンに後ろを向くように言えば、してやったり、と言った表情をしたようなリアーネと、気不味そうな表情をする噂の彼女が彼の瞳に捉えられた。
「な、ナマエ!?」
ganbare、と鈴の音のような声が二人に掛かった。その直後、他でも無いリアーネに背中を押されたナマエは目の前にいるリュシオンに抱えられるわけもなく、地面に頭から突っ込んだ。
リュシオンはナマエの漢気と優しさに感服する。こちらに突っ込まず、地面に突っ込み自爆することを選んだのだから。
ナマエに古代語は完全には分からなかったが直感で理解出来た。
恐らく「後は二人で頑張って」的なことが言いたいのだろう。現に鷹王と白鷺(妹)はとっとと何処かへ飛び去つ。
残された二人は顔を見合わせて、困ったような顔をしていた。
「えーっと、リュシオン。私も行くね」
草を払って立ち上がろうとしたナマエに、白い陶器のような手が差し出された。
まばたきをした彼女に「その、なんだ」と彼にしては区切れの悪い言葉が発せられる。
「ナマエ。聞いていただろう。あれが私の本心だ。許して欲しいとは言わない。だが、知っておいてくれ。私はお前を大切だと思っている」
「大丈夫だよ。わかってる」
「分かっていない。お前を傷付けたと思うと胸が引き裂かれる気持ちだった」
「そう思って後悔してくれてただけで嬉しいよ。君が人間嫌いなのは良く知ってるし」
「私はお前の、そういう明け透けとしたところが何より好きだ。その潔さは、何よりも美しい。
しかし、お前には私を非難する権利がある。適当に流されては据わりが悪い」
正直に言え、指摘しろ、私を責めろと目が語る。端正で華奢な外見に合わずナマエの知っている誰よりも頑固である彼は、言葉を選んで煙に巻いては納得しない。少し悩んで仕方なく「分かった」と返せば、リュシオンが身構えるのが感じ取れた。
「今回は許すけど、次言ったらビンタしてやる。しっかり覚えてろよ」
「…それだけか?」
「じゃあ、もう二度としないでね。すごく傷付くから」
差し出された手を今度こそ掴み取ろうと自身の手を伸ばす。見た目同様に細く滑らかな手は、訓練で傷だらけのナマエの手とは全然違う。
だが、生まれも種族も階級も違うけれど、この手を取ることはナマエにも出来る。それが少しだけ誇らしい。
「ああ、誓おう。私は二度とお前の手を拒まない。だから、これからも一緒に居てくれ。ナマエが居ない世界など考えられん」
あまりにもストレートかつ情熱的な言葉に、ナマエは軽く赤面する。
これが普通の人間ならばアーハイハイそうですかと適当に流せるのだが、白鷺という正直者は本心から言っているらしく始末が悪い。
死ぬほど恥ずかしい。誤魔化すように雑に手を重ねれば、思ったよりも強く握られた。流石に起こす程の腕力は無かったようだが。
「…こりゃあ鷹王がニヤニヤしてるわけだ」
リュシオンは気付いて居ないらしいが、この現場は飛び去った振りをした鷹王と彼の妹が微笑ましく見ている。
ティバーンのみであればナマエも気付くことは出来なかっただろうが、現代語を話すことの出来ないリアーネに要訳する声で丸わかりだ。「kekkon」「omedetou」「neesama」という単語が聞こえ、頭が痛くなった。
きゃっきゃっと燥ぐリアーネの誤解を解くには時間が掛かりそうである。