「隆元くーん。借りたやつ返しに来たよ」
ナマエは毛利と書かれた豪邸のインターフォンを鳴らし、隆元くんを呼んだ。
片手には使い込まれた算盤をしっかり握り込んでおり、毛利とステッカーが貼ってある。
隆元くんはナマエの同級生で、同じクラスになったことはないが、なんとなくずっと仲良くしている男の子である。
少々…いやかなり卑屈で後ろ向きだが、大変に気が使えるタイプで、ナマエは彼と居て一度たりとも不快な思いを抱いた事はない。
その繊細なやさしさは、とっても素敵なところだと思っている。
なぜ家まで算盤を返却しに来たかと言えば、理由は明白。ナマエは愚かにも、全株段位を取得する際に全ての道具を家に忘れて来た。小学生かな?
そうして途方に暮れている時に、もう既に十段を持っていて、本日は別の試験を受ける予定だったという隆元くんは算盤を快く貸してくれたのである。
それでそれぞれ別の試験へ挑み、各々が別の時間に解散して帰宅したというわけだ。
しかし、休み明けに返すねでは済まされない事情があった。借りた時に、隆元くんは紙袋に入れて貸してくれた。だが、運命の悪戯か。その中には、今のご時世では割と珍しい、スマホと連携してない隆元くんの定期が入っていたのである。
ナマエと隆元くんの家は隣の校区程度の距離なのだが、通う高校はそれなりに遠い位置に座している。まあまあ移動費たかいのである!
明日からは連休。このまま算盤ごと定期をパクるのは大変に忍びなかった。
隆元くんは構わないと言うだろうが、ナマエの気が済まない。そもそも、受験料をドブに捨てる筈だったナマエは、彼の温情によって救済されているのである。
持つべきものは同じ選択授業の友人!
ナマエは学校帰りにバーケンに寄って、適当に焼き菓子を見繕って来た。完璧である。
ぽこん。
スマートフォンの通知の音だ。ナマエはいそいそと確認して、メッセージを読む。
ええっと。“ちょっと待って”、“まだ家に着いてない”、“バス遅れてる“…?
「もう着いちゃったんだけど…」
しかもインターフォン鳴らしてしまった。
ナマエは微妙な居た堪れなさを感じつつ、まあそれならそれで仕方が無いかと思い直した。隆元くんが来るまで、適当に公園とかで待っていればいい。
踵を返そうとした矢先、ガチャンとあまり聞きたくない音がした。
「はい」
出てしまった。人が出てしまった!
隆元くん来てないのに、普通に人が出てしまった。ナマエは若干パニクったものの、平静を装って装えずにモゴモゴする。
「ああ…ええっと…わたし、毛利く…毛利さんの友人で…物を借りたので、あの…これ…」
「ああー…悪いな。今あいつ居ねえんだわ。俺から伝えておくよ」
隆元くんのお兄さんだろうか。
紙袋を受け取った青年は、隆元くんより背が高く、筋骨隆々と言えば良いだろうか。非常にガタイが良く、スポーツマンといった雰囲気を持っていた。
「あっ、良かったです…ありがとうございます。では、失礼します…」
ぽこん。
“駅着いた”
ナマエはサッサと指をスワイプして返信する。もう遅い。どこで集まる。むさしでいい?
▽
「あっ」
「ん?」
そういうことが有ってから、一週間程か。最近でもなく、前過ぎもせず。程々に時間が経過した頃、見知った顔を意外な場所で見た。
自動車学校の講習所に現れたのは、隆元くんのお兄さんである。
「あんた、確かこの前の…」
「先日はありがとうございました」
ナマエは軽く頭を下げる。
お兄さんは「おう、気にすんな」と快活そうな笑みを浮かべて、こちらに歩み寄ってくる。
「俺は元春だ。ああ、聞いたかもしれねえが、菓子うまかったってよ」
それは聞いていない。そういえば、隆元くんからお菓子についてノーコメントだったのを思い出した。
嫌いなものなど無かったかと聞けば、「喜んで食ってたぜ」とのことである。
「あー、悪いな。素直じゃねえんだよ。ま、あいつの友達っつうから、それも承知の上かもしれねえが。気を悪くしないでやってくれ」
隆元くんが素直でない…?
疑念に思ったが、兄弟が言うならばそうなのであろう。「別に気にしてません」と言えば、元春さんは笑顔を浮かべた。その顔は少し、隆元くんに似ているような。
「ああっと、わたしは只野と申すもので…」
「下の名前は?」
「あっ、ナマエです」
「おう。宜しくなナマエ」
あまりのヨウキャのムーブにナマエは面食らった。
隆元くんのお兄さんは、彼と違ってすげえガンガン来るタイプのようである。
「つか、アンタ免許取るんだな。あいつの友人だっつうから、そういうの興味無さそうだと勝手に思ってたぜ」
「あった方が便利じゃないですか。免許取れたら、身分証明にもなりますから」
「ハハハ!違いねえな!」
▽
「あっ、元春さん」
「おっ、ナマエじゃねえか」
学校で隆元くんには毎日会うのだが、元春さんとは街の至る所で遭遇する。
元々近しい校区に住んでおり、近場の商業施設が家の間にあるということもあってか────いや、それもあるが。ナマエが彼をよく見るのは、多分ふつうに、元春さんが大変に目立つからだろう。
ナマエは別段目立たない女学生なのだが、元春さんは目敏くナマエを見付け出す。目が合ってしまうのだから、ナマエもまた挨拶をする。
そういうこともあってか、気付けば顔を合わせたら雑談をするような、なんともいえない間柄となっていた。
「元春さんも映画ですか?」
「おう。さっき観終わったところだ。ナマエは何見に来たんだ?」
ナマエは学生割の効いた、今週公開のアクション映画のチケットを見せる。
学校の友人や、それこそ隆元くん誘って観に行きたかったところなのだが、みんなこういうのにあんまり興味無いのであった。隆元くんは特に、文学系の実写化は誘ったら来てくれるけど、他の奴はあんまり乗り気で無いのである。
チケットを見た元春さんは、少し驚いた顔で「俺もそれ」といつものような笑みを浮かべた。あちらも学割の効いたチケットである。
「兄上を誘ったんだけどな、“友達にも誘われたよ、それ”ってな。
うちは父上も兄上も隆景も、こういうの全然興味ねえんだよ。親族が集まる年末にでも、流し見したらいいじゃねえかって言うくらいにな」
「えー、大きいスクリーンで観るのが良いのに」
「そうそう。分かってんじゃねえか。うちは家族みーんな本の虫っつうか…俺も読書は嫌いじゃねえけど、ほら、外で見るから良いもんってのあるだろ?」
「そう!そう!彼、感想の共有をするだけなら、家で観ても良くない?とか言うんですけど、わたしは映画館で観て、その空気感っていうか…映画以外の部分も友達と楽しみたいんですよね!」
「ははは!あいつが言いそうなことだな!」
元春さんには兄が居るらしい。そういえば、隆元くんはすごい沢山きょうだいが居ると言っていたような。
隆元くんが言うには、特に優秀な弟が二人居るらしい。
スポーツの大会で良い成績を収めたとか、学業が大変優秀だとか。隆元くんも商業がバリバリ強いのだが、自分そっちのけで弟はすごいとよく豪語していた。
ちなみにだが他にも姉が一人と、あとは妹と弟が沢山いるそうなので、納得の豪邸である。
そう言えばと、ふと思い出す。
「お兄さんが居るって聞いたことなかったんですよね。こんな素敵なお兄さん居たら、自慢しそうなものなんですけど」
ナマエは先程まで突っ立っていたが、自然な流れでロビーの椅子を譲られていた。
入場まで暫くあるが、ポップコーンとジュースの乗ったトレイは中々重いため正直たいへんに助かる。
隆元くんのお兄さんは少し怖そうな見た目だが、その優しさは隆元くんのお兄さんだなという感じであった。
「あいつ、結構そういうとこあるんだよな。兄上は…ああ、一番上の兄貴な。そっちは、俺や隆景のことを色んなところで話してるみてえだが…まあ、それもそれで恥ずかしいんだけどよ」
「話されないとさみしいけど、話されすぎると恥ずかしいジレンマ…!」
「まっ、そういうこった!」
「でも兄弟仲良くて良いですね〜!わたし一人っ子なので羨ましいです」
「ははは!それなら苗字変えるか?」
「えっ?」
「うちに嫁げば兄弟増えるぜ。俺もおまえの兄上だ」
ナマエはびっくりしてつまんでいたポップコーンを爪で弾く。
打ち上げられたそれをバケットでキャットすれば「やるじゃねえか」と元春さんが笑った。
「俺はナマエのことが気に入ってんだよ。あいつが家教えるくらいなんだから、脈がねえってことも無いだろ」
「い、いや…わたしはそんな関係では…!そもそも、そういう目で見たことないので…!」
隆元くんは友達である。彼との穏やかな関係は、そういう性愛とかの絡むものでなく、あちらもそう思っているだろうと強く感じていた。
男女の友情は成立するのだ。互いに友人としての距離感こそが適切で最高と思っている時に限り。第一、隆元くんの好みからナマエは著しく外れている。
彼はもっと、聡明だが健気で可愛らしい女の子が好きだと思う。そうだ、絶対そう。
ナマエだって、好みのタイプを言うなら、サッパリしていて、社交的で、趣味が近くて、もっとこう、オラオラ系と言いますか。そういう感じである。
流石に友達のお兄さんに手は出さないが、元春さんは超絶好みのど真ん中であった。
「彼もっとかわいらしい女の子が好きだと思います」
「そうか?あんた、すげえ愛らしいけどな」
はえっ。
ナマエの手から再びポップコーンが射出される。開けっ放しの口にキャラメルが飛び込んで、「おー、ナイスキャッチ」と再び褒められて頭がバグった。
「んじゃ、そういうことだ。考えといてくれよ?」
元春さんは手をヒラヒラと振って、劇場を後にする。残されたのは、フリーズした女とポップコーン。
当たり前だが、映画の内容は1ミリも入って来なかった。
▽
「あっ、元春さん」
豪邸のインターフォンを鳴らすと、見知った顔が出て来る。
もはや元春さんは同級生のお兄さんでなく、年上の友人という感じになって来ていた。
突然粉掛けて来た時は何事かと思ったものの、彼は明け透けでさっぱりしていて、下心とかでなく本気の本気であれを言っていたらしい。天然タラシ、女性の敵である。
さぞや罪造りなことを連発し、女の子を侍らせているのでしょう…!とナマエは思っていたが、隆元くんが言うにはそうでもないんだとか。
ちょっと大雑把だけど、硬派で真面目な性格の兄弟とのことで、ナマエから見た主観と全く同じであった。
隆元くんが「元春、ナマエに気があるのかな?」とかなんとか言うので、隆元くん的にそれは良いのか?と思ったが、聞けずに日々を過ごしている。
「よっ。あいつに用事か?」
「そうです。今日はですね、映画見るんですよ…!」
ナマエは映画のパンフレットと、焼き菓子をチラ見せした。
レンタルなどでなく、普通に各種配信サービスで映画を観るのだが、それはそれとしてパンフがあると隆元くんは目を輝かせる。やっぱり映像作品より、こういう読み物の方が好きでテンション上がるのだろう。
それを知っているから、ナマエは映画をマーケティングする際、自身が趣味で買っているパンフレットを持ち寄っていた。
元春さんは「それ、俺も観たぜ」と笑うと、更に言及しようとして咳払いをした。
「悪い悪い、あいつに会いに来てるんだったな。俺が引き留めんの、良くねえわ」
元春さんはフェンスを押さえて、ナマエを家に招き入れた。でっけー家である。
平屋の日本家屋なのだが、入口までも結構遠い。庭が馬鹿でかいのである。今更ながら、隆元くんはすげえお坊ちゃんだったんだなと思った。納得の育ちの良さである。
家に上がって、来客用スリッパをお借りする。
靴を揃えて廊下に踏み出せば、丁度よく人が通り掛かった。小柄な体型に、隆元くんと似た頭髪。弟さんだろうか?
「あっ、兄上。…と」
「おう隆景。お前の客だぜ」
ナマエは青年を見る。青年もナマエを見る。
互いの顔に「ハア?」と書いてあった。
「んだよ。玄関まで来んなら、お前が出たら良かったじゃねえか」
元春さんは、この隆景さん?がナマエの友人だと思っているらしい。
利発そうな顔付きで、隆元さんより吊り目の男の子は怪訝そうに言った。
「待ってください兄上。その方、どなたですか。そもそも、人を家に招く予定など無いのですが?」
元春さんはナマエを見た。困惑がありありと浮かんだ顔をしているが、困っているのはこちらも同じことである。
「待て。ナマエ、隆景の同級生じゃねえのか?」
「ええっと。わたし、隆元くんのお友達です…」
「…兄上。どうやら私は関係無さそうなので、このまま出掛けます」
話が拗れている気配を察した弟さんが、そのまま外へ出ていく。後に取り残されたのは、ナマエと、元春さんと、軽快な廊下を歩く音────隆元くんであった。
その束の間、元春さんはわなわなと呟いた。
「あんた隆景じゃなくて、兄上の知り合いだったのかよ…」
思えば、少し思い当たる節はあった。
あの誠実さが人間になったような隆元くんが、お菓子のお礼を言ってこない。父親と母親と他の兄妹のすごさを日々力説している隆元くんが、兄だけピンポイントで話さない。
そういえば元春さんの話をした時も「真面目な良い子だよ」と。良い子って、言うか?兄に?
ナマエが普通二輪の仮免を取っている時、あちらが持っていたのは単車の教材であった。
あっちもこっちも、ひどい勘違いをしていたものである。
後からやって来た隆元くんは「確かに、元春は立派だからね」となんてことないように穏やかに笑っていた。ナマエも元春さんも、心中まったく穏やかでは無かったのだが。
▽
「おお、ナマエじゃねえか」
どんなに恥ずかしい思い違いをしても、日々は普通に流れるものだし、案外人はギクシャクしないものである。
駅から帰る道すがら、偶然出会った元春さんは高等学校指定のジャージに身を包んでいる。これを先に見ていれば、ナマエは彼が大学生であると勘違いしなかっただろう。
「あ、いや。あー…ナマエ、さん?」
そんなことは無かった。
眉を下げてバツが悪そうに言う元春さんは、普段の凛々しさは半減しているものの、代わりになんとも言えない愛嬌がある。年下と知ったからかもしれないが。ナマエは現金だなーと我ながら思った。
「ええー、いいですよ今更。隆元くんも良いって言うと思います」
「まあそりゃあ、兄上はな…兄上はそう言うだろうが…」
「隆元くん優しいですもんねー」
「…隆元くん、か」
元春さんは少し思案する。そして真剣な顔で、至極真面目に言った。
「なあ、ナマエ。俺もそう呼んでみてくれねえか」
なんでえ?
ナマエはなんでえ?以外の感想を失ったが、彼には何か思うところがあるらしい。
なんでえ?と馬鹿正直に言うのも憚られたので、素直にそれに従う。
「はい?ええっと、元春…くん?」
「おー…悪くねえな。なんだったら、呼び捨てでも構わねえぜ、ナマエ先輩」
「そ、それはちょっと。先輩って言われるのも、なんか恥ずかしいですし」
「そうかあ?」
ナマエは意図が読めなかったが、元春さんは満足気だった。
よくわからないが、良かったなら良いことである。彼が嬉しそうなので、ナマエも満更でないと思っていると、元春さんは更に続けた。
「なあ、ナマエ。やっぱあんた、苗字変えねえか」
「えっ、毛利に?いやだから、隆元くんとは友達で…」
「違えよ。兄上じゃねえ」
元春さんは、真っ直ぐにナマエを見る。少しの照れも気恥ずかしさも無く、堂々とした口振りで言った。
「吉川に…俺のとこ来いよって言ってんだ」
はえっ。